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見たものを見よ

 昼間の星は見えなくとも、見えないだけであるんだよ、見えないものを見えないにもかかわらずあると見なす正しくも倒錯した認知のあり様が、まずはわたしを「かもしれない人生」の座敷牢にロックアップする。それはたとえば、慇懃なことばの向こうで交わされた「かもしれない」嘲笑と罵声であったり、わたしを一瞥した刹那、あの人の脳裏やあの人の脳裏をよぎった「かもしれない」憐憫と蔑みの情であったり、そのようなものがどれだけ広く深く、わたしの『上を向いて歩こう』を蝕み、食い荒らしてきたのかを思うと、気が遠くなる。それは掛け値無しに、害しかもたらさないのだ。

 ふと気を許すと、after all という独言に取り憑かれる。After all these years, なのか after all is said and done, なのか、変わっていても肩の力を抜いて生きていけるよう、少なからず試行と錯誤を繰り返して、わたしはようやく生きている。変わっていることはさほどに悪いことではない、少なくとも悪いことよりは。平成も後半に入った頃からか、悪い奴らが甘言を弄して変わった人たちをおびき寄せては、晒し上げ吊し上げ嗤いとばす、そのような絵図をよく見るようになった。変わった人は多くが単に変わっているだけであり、悪い奴らの底意を察しないから、何遍釣られても懲りず針に掛かるフグのように、innocent にみじめに、防波堤の晒し者となる。釣り人に踏みつけられ身は乾涸び蠅が集り、それでもわたしはフグであるのみで、食うにも困らぬお前たちが気まぐれに釣り糸を垂らさねば、わたしはただ無心にわたしだけの命を泳ぎ切るだけであったのに。

 無辜のフグを吊るし上げる慣習には、何度釣りをしたところで、わたしは馴染めなかった。小学校に入る前のことだ。わたしは「餌食い」と詰られるばかりのフグを、防波堤の端から端まで走り回り、リリースした。親父は呆れたしおふくろは黙殺した。無から湧いて出た偽善だ。だからどうしたよ。I just naturally hate any overgeneralization that leads to genocide.

見えないものをもあると喝破する知の勁さと、見えまいと隠れた者を拐かし引きずり出し嘲笑う個の脆さと。半ばおどけ半ば脅え曰く、見る、に過度にこだわれば、目が不自由な方云々で不適切なのだろう。こちとらいつだって物は双つに見えている。無論ふだんは言いこそせねど。差別の意図無き所にナノ・レヴェルの差別を捏造し、するから、するという事は、差別そのものを「信条表現の自由」にて相対化し免罪するという事です。

 はっきりした文章のかたちはひとつも覚えていないけれど、今朝から太宰の『かくめい』という書き散らしが懐かしく思われる。

 しりん曰く、喜怒哀楽をして喜怒哀楽せしめよ。

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