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ひとの哀しみにもう感応したくないのに

誰かが喜んでいるとき、ぼくにできることは、その喜びに水を差さないよう、横で黙って微笑むことだ。
(そのことで、喜びが少しだけ大きくなり、すごく長く続くといいなと願う。)

誰かが怒っているとき、ぼくにできることは、つらいあなたが怒る必要はない、と分かってもらうことだ。
(そのことで、ぼくが疎まれても一向に構わない。ぼくが新たな怒りの源にさえならなけば。)

*

誰かの哀しみ、というものに、ぼくは滅法弱いのだ。些細な、微弱な哀しみにも、身体中が反応してしまう。チューニングの利かないラジオ。
たとえば、車の窓から一瞬、見も知らぬ子のいじめの気配、誰も気づきゃしない、それが《伝わってしまう》のは遣り切れないもんだ。

反応しなきゃいいんだ、
いっそラジオごと、故障してしまえばいいんだ、
そしたら世の中は、無数の物質と錯覚に還元されます。

ぼくはそれでもいい。

*

アレルギー持ちの人に、その腫れと痒みと呼吸困難は、気の持ちようだから、と言えますか?

言えちゃう人が多いですね。

*

他人が繊細であること、に、反感を覚える人は、ものすごく多い。嫉妬と軽蔑のコロイド。
そういう「ちゃんと言うこと聞かない子」は、 何だかんだ、日本人には、ただめんどくさいのだろう。HSP も間違いなく根付かないよ。隠微な差別の指標が、またひとつ増えただけだ。
癩病とかアイヌとか部落とか沖縄とか在日とか外国人労働者とか、どんなに《ぼく》たちがひとりひとりの人として沈思し成熟しようとも、やはり《ぼくたち》は神妙な顔、慇懃なことばで反省したふりが天下一品に上手だから、優しく思慮深い《ぼく》たちから構成された《ぼくたち》が異物をいじめ抜く、この洗練された pattern は、

絶対に、少しも変わりません。

(つらいあなたが怒る必要はない。)

*

さて、さもなくば、アレルゲンを遠ざけるしかない。

哀しみから遠ざかるとは、善き弱きひとたちから遠ざかるということでしかない。ぼくは、善き弱きひとしか愛せないので、哀しみから逃れることは、愛を放擲することだ。

ぼくの脳裏から、いつも死と出家が消えないのは、それが有効なふたつの原因療法だと知っているからです。

*

しかし、やはり、生きることは、愛すること。
呼吸にも鼓動にも消化にも蠕動にも排泄にも、いっさいがっさい、意味なんかない。
生体である限り生体であり続けるのは、かたちのない、ほの暖かい、微かだが確かな、あの結ぼれを待ち、信じ、

すると、

いつもそこには、干からび、黄色く褪色し、ぱりぱりになったセロハンテープのように、どうしようもなく、哀しみがこびりついているんです。

ごめんなさい。ぼくにはその(かつて)テープ(だったもの)を剥がせない。あなたの皮膚も肉も骨も、きっと壊してしまうから。

*

この街で生きてゆくには、息が詰まるほどやるせない哀しみごと、愛するしかない。

それは、昨日と変わらず、今日を生きてゆくことです。

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