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箪笥の肥やしとコンビニ弁当

コンビニのカゴにいくつもの商品を詰め込む。
その時が幸せのピークかもしれない。
唐揚げ弁当とシュークリームとコーラ。それにミルクプリンとアロエヨーグルトと枝豆。
今から家に帰ってそれを食べるのだ、と想像している状態がピークかもしれないとふと思った。

家に帰って食べ始めると、そんなに食べられないことは分かっているはずなのに。そして冷蔵庫の中には、食べきれなかったものが入っているのに。

それらを忘れてコンビニで大量に買い物をしてしまうのはなんなのだろうか。

カゴが埋まっていくにつれて、店内で自分の気持ちは落ち着いてくる。ずっしりとしたカゴを持っていると安心するのはなぜだろうか。
買い物を試みるという行為自体に、何かしら快感というか、気持ちにいい影響を与える効果があるような気がする。
だから実際に食べられるかどうかを置いといて、この買い物を楽しみたいと思ってしまうのかもしれない。

少し種類は違うかもしれないが、高い買い物を検討している時も似たような気持ちになる。
しかもこの場合は、安心と高揚という相容れないはずの二つの感情が満たされるのだ。

結局中古のもので済ませたので良かったが、一眼レフのカメラとゲーミングPCが欲しくてたまらない時期があった。
それぞれ結構長い期間を費やして、違いが出るスペックを覚え、相場を知り、YouTubeから賢く買う方法を探り、どのくらいのユーザーが(例えばカメラなら仕事で違うとか、パソコンなら大会にエントリーするかなど)どのくらいのスペックを要するのかなど事細かく調べてみた。
その間、とてもワクワクしていたのだが買ってみたら意外に熱はすぐ冷めてしまう。あの情熱はどこへ行ったのだろうか。これを一生の趣味にするぞと、ついこの間まで確信していたというのに。

多分一つの勘違いがある。

きっと高価な買い物をした途端、その価値分自分の人生が向上すると思っていることだ。

高い買い物をしても、自分の中でそれを消化する度量がなければ当然それはガラクタと同じになってしまう。
価値を愉しむ度量や教養や工夫が自分にはまだまだ足りないのかなと思った。

最高級のカメラを持っていても、オーダーメイドのPCを持っていても、それを十分に使いこなし、愉しみ尽くせるユーザーのレベルがあるはずだ。

カメラも気が付いたら撮りたい景色は無くなっていたし、ゲームも数個のソフトをプレイすると満足してしまう。

まぁでも娯楽だし、そのくらいで良いのかもしれない。昔恩師が
「時間と金を無駄遣いすることが、娯楽でありストレス発散だ」と言っていたのがなんとなく今なら分かる気もする。

「無駄遣いしてはいけない。賢くやらなければ」と思うと肩に力が入ってしまって、結局仕事と同じようなプレッシャーが自分の中にのしかかってしまう。

だからやってみてダメならそれで良いのだ。

コンビニに少しくらい商品を詰め込み過ぎたぐらいで、自分を過度に責めるのはやめよう。

カメラもゲームもまたやりたくなる時まで、箪笥の肥やしにしておけば良いのだ。

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