見出し画像

『Drive!!』(ボート x 小説)

もういいって。放棄する気持ちとは矛盾して鐘の音が鳴る。
嫌味なくらい機械的な音がひとつだけ。なんか工場で商品が出荷されるときみたいじゃないか。高校生のランナーが5000mのラスト一周に向かおうとしているって言うのに。もうすこし人間味のある音は出せないものか。先頭集団が通過したときには、抽選で一等が出たみたいに派手に何度も音を鳴らしてたくせに。それにしても呼吸がきつい。顎を上げると、灰色の雲が無愛想な観客のように陸上競技場を見下ろしていた。太陽の位置がわかるくらいに薄いこの雲が、先ほど唾を吐くみたいに雨を降らせた。短時間だけ降った夏の雨が地面から蒸発して、今走っている俺たちは蒸し焼き状態にされている。元々赤茶で一色だったトラックのタータンは濡れて濃い部分と、乾き始めて薄い部分でまだらになっている。まとまらない自分の頭の中みたいだ。

「ひゅっひゅっ」
情けない息遣いは自分のものだった。体がこんなに酸素を欲しているのに、深く息ができないのはなんでだろう。レース用の平べったいスパイクが地面を叩く弱々しい音も響いている。なんか視界がぼやけて狭い。自分の目で直接見てる感じがしなかった。なんとなくカメラのファインダー越しのように四方が暗い。いきなりホームストレート側の観客席が沸いた。先頭集団がゴールしたのだろう。自分はまだバックストレート側にいて、出場している選手なのに見ている観客以上に蚊帳の外って感じだ。また視界が暗くなっていく。

ホームストレートに向かうコーナーに差し掛かると、客席が目についた。その中に俺を応援する人は誰もいない。

揺れながら動いている景色を見て、かろうじて自分が前に進んでいるんだということを確認している。足の感覚がほぼなく、自分の足で走っていることを自覚するのは難しかった。コーナーを曲がり切る。速くというより、早くと意識が叫んでいた。足だけでなく腕も肺も限界だった。記録なんかどうでもいい。早くこの苦しみから解放されたい。

ふと後ろからバタバタと足音がする。その瞬間、背筋に冷たい電気が走った。諦めたはずなのに、もうどうでもいいとか言っておきながら、その音を聞いた途端に、だめだ、走らなきゃと反射的に腕の振りを強くする。最後のストレートに入る頃には「追いつかれたらおしまいだ」と焦っている自分を発見する。ゴールまで残り100m。追手の足音はまだ遠いが確実に明瞭さを増していた。

「ひゅっひゅっひゅっ」
無様だろうがなんだろうが、走り続けなければいけない。ゴールが迫るにつれて、さらに重たく感じられる足をなんとか動かし続ける。まるで坂道でも登ってるみたいだ。そう思ってゴールを見た瞬間自分の目を疑った。
確かに傾斜がついている。ありえない。ここは陸上競技場だぞ。傾斜のついているトラックなんて聞いたことがない。それにさっきこの位置を通過したときには傾斜なんてついていなかった。
でも確かに目の前では地中から巨大な生き物に押されたみたいに、走路がゴールラインを頂点にして盛り上がっていた。なんだこれ。前を行く選手の中には手をついて頂上を目指しているものもいた。

その山の頂上に男がひとり立っている。さっきラスト一周の鐘を鳴らしていた補助員とは明らかに服装が違う。夏だというのに分厚いグレーのハーフコートを羽織って目深にフードをかぶっていた。顔は見えない。

「もう無駄だ。やめとけ」
コートの男がそういうと傾斜がさらに増して、立っていられなくなった。傾斜をずり落ちないように両方の肘と膝で踏ん張る。しかし傾斜がきつくて後退してしまう。頂上付近から選手が何人も落下していった。訳がわからない。でも自分は落ちたくないと思って身体中に力を込めている。膝が擦れてそこから血が滲んできたのがわかる。
"こいつ何がしたいんだ"と混乱していると「お前のためじゃないか」と返事がある。

顔を上げるとコートの男は手に回転式の拳銃を持っていた。その銃のシリンダーの中に気怠そうに弾丸を詰め込んでいく。そして目の前で手をついている選手に銃口を向けると、短く咆哮があった。選手の背中から血が噴き出すと、支える力を失い落下していった。
傾斜を伝って血が流れ落ちてくる。
"何してる、やめろ" 理解が追いつかないが男を止めようと必死に念じる。息がきつくて声にはならない。
「なんでだよ、いつもお前が願ってることじゃないか」
男は心底おかしいといったふうに笑っている。

「まあ最終的には俺を殺すか。俺以外を全員殺すかだよ」
そういうとコートの中に銃を収め諭すように言う。
「いつか選ぶときがくるさ」
その言葉の後、男はサラサラと砂の粒になって地面に落ちていった。さっきまで這いつくばっていた傾斜も砂になり、あたり一面は夜の砂漠になった。訳がわからないはずなのに、先ほどの数分間がずっしりと自分の中に堆積していくのがわかる。
辺り一面の砂と星のない空の下で「ひゅっひゅっ」という息遣いだけが聞こえる。
俺は残り50m地点だった場所で、無様な呼吸の音が収まるのを身を縮めてじっと待っていた。
さっきまで真夏にいたのに、執着していた何かが去ると体はたちどころに冷えていった。

*****

「今だ」と思ったときにはもう遅い。ボートはそういうスポーツだ。今だと思うその少し前に、動作を開始すると動きがつながり流れが生まれる。膝の屈曲が最大になる少し前に溜めていた体の力を解放する。コンクリート打ちの壁に向かってエルゴのホイールから風が噴射された。艇庫の端の空間には合計八台のエルゴが配置されていた。エアロバイクのボート版に当たるこの器具は、効率よくボート選手の体を苛め抜くのに効果を発揮する。そして今の実力を忖度なく測ることにも長けている。俺は実際のレースと同じ距離である2000mのトライアルを実施していた。艇庫には俺以外誰もいない。音楽もかけていない。薄暗い空間の中で、エルゴのホイールから出る風の音だけが一定のリズムで繰り返されていた。どんなに激しく漕いでも六月の湿った空気がまとわりついてきて、痕跡を残さない熟練のスリのように通りすがりに体力をじわじわと奪っていく。
 目の前には無表情な灰色の壁があって、その少し手前にはさらに無表情なエルゴのモニターがある。骨盤を起こしてセットポジションをとると、シートをスライドさせ膝を曲げていく。そしてまた膝が曲がり切る直前に漕ぐ動作を開始する。勢いよく息を吐きながらグリップを鳩尾まで引き切ってフィニッシュする。セットポジションにグリップを戻し体を起こしてシートを前にスライドする。
個々の動きはいたって単純だ。しかし流れるようにこれらを行うには長い期間鍛錬が必要で、ボートをやると決めた人はそのたったひとつの一連の動きを、何年も何年も磨き続けている。
 フィニッシュポジションで息を吐いてタイムを確認する。モニターは目標のアベレージである1'39"をきちんと表示していた。表示されているタイムは、500m換算でどのくらいのスピードが出ているか表している。このままいけば、2000mを目標の6’40”以内で漕ぎ切ることができそうだ。大丈夫、呼吸や筋肉の疲労度もまだ限界ってわけじゃない。今日はここまでリラックスできている。このまま漕ぎ切ればベストタイムを更新できるだろう。1000mを通過した。

ペース配分は完璧だった。今日こそ6'40"を切れそうだ。二回生の中で先駆けて40"カットを達成したい。いや、達成しなければいけない。そうすることで、また俺は堂々とした気持ちを保つことができる。自分の全力を捧げた記録が自分自身の代わりに威厳を発してくれる。空っぽな自分自身の代わりに。自分自身に価値がないのだから、自分から出る実績に何か価値がないと存在意義を失ってしまう。

突然、頭の中でカンと鐘がなった。

またか。そう思った途端に呼吸が苦しくなり体から力が抜けていく。ここまでの疲労度とは明らかに別のものが体を襲った。さっきまで出来ていたことが何もできなくなり、ドライブが弱々しくなっていく。セットから立て直そうとするが焦りが増すばかりでうまくいかない。
「ひゅっひゅっ」と呼吸の音が聞こえる。こうなったらもう抗うことはできなかった。特にオーバーペースというわけでもなかったはずなのに。「セットして、スライドして、膝を曲げ切る前に・・・」と前半のリラックスした動きを取り戻そうとするが、どうにもならなかった。
意識が薄れていき、視界の四方が黒なり狭まっていく。頭がおかしくなったのだろうか。エルゴを漕いでいるはずなのに、目の前に陸上競技のトラックが見える。「ひゅっひゅっ」という自分の呼吸の音。ホームストレートの先にあるゴールライン付近で、コートを着た男がいた。顔は見えないが肩を震わせてどうやら笑っていることがわかる。六月に艇庫でエルゴを引いているはずなのに途端に背筋が寒くなった。
「やめとけ、やめとけ」
男にそう言われると、さらに吸い取られるように体から力が抜けていく。呼吸ができない。
「それに悪いようにはしないさ。お前を分かってやれるのは俺だけだぞ」
その囁きを聞くと、目の前は全て砂の粒に変わり砂漠になった。それから徐々に呼吸が戻ってきて、視界が明瞭さを取り戻していく。体の感覚も戻ってきた。自分は座っている。何に?そうだエルゴだ。そのことを思い出したら、エルゴのメーターが目の前に見えた。残りの距離は0になっている。そしてモニターには不本意なタイムが映し出されていた。記録は6'48"。嘘だろ、と声が漏れた。

エルゴのグリップを置いて両足のストラップを外す。シートに座ったまま地面に両足をつき、太ももの上に肘をついて俯くとレールの上に顎から汗が落ちた。
「杉本、お疲れさん」
背後から翔太さんの声がした。よりによって一番醜態を見られたくない人だ。
声を出さず俯いたまま、一度だけ頷いて返事をする。
「最後どうしたんだよ。惜しかったのに」
最後どうした。ということは初めから見てくれていたのか。単に応援したいって気持ちできてくれたのだろうか。いやきっと主将としての義務感に違いない。
「どうしたって、俺が一番聞きたいですよ」
翔太さんの「お疲れさん」に対するお礼は出ないのに、皮肉だけが口から飛び出してきた。
「悪い悪い」
顔を上げない俺の心中を察してか、翔太さんはその場を離れていった。
 あーあ、まただよ。こんな自分見せちゃいけないのに。特に俺みたいなやつは人とうまく絡めないんだから、結果くらいはずっと出してなきゃいけないのに。こんなヘボいタイムだったら、また逆戻りじゃん。高校の時の自分に。

にわかにコートの男が現れる。今度は声だけだった。
「結果なんて出しても一緒さ」
「うるせえ、お前に何がわかる」
「おー怖い怖い、でもお前に俺は殺せないよ」
気でも触れたのか俺は。なんだこの妄想は。外から見れば、大学の体育会でスポーツに励む健康的な学生だろう。でも実態はそれとはかけ離れていた。トライアルの度に変な妄想が頭に浮かぶ。妄想の中の世界は断片的には俺が知っている景色だが、つながりはよくわからなかった。意識を覚醒させながら不条理な夢を見ているようで気味が悪かった。

ストレッチマットがわりに艇庫の床に毛布を敷いて、その上に仰向けに倒れ込んだ。空間に対しては頼りない光しか発しない天井の蛍光灯だが、真下から覗くと無遠慮に白い光を浴びせてくる。視界の両端には流線形の黄と白の艇がいくつも見えた。俺たちが練習やレースで使っている船で、新人勧誘用のナックル艇とは全然違う。水上での速さを追求した形だ。八人の漕ぎ手と舵手が乗るエイトは全長17mほど。シングルスカルという一人乗りの艇でも全長8メートルほどの長さがある。シングルは艇を上から見て中央の一番膨らんでいる部分で40cm。そこから左右に60cmほどずつアウトリガーが突き出している。オールを固定するための場所だ。この艇庫にあるものは、ほとんど3点式のアルミリガーが主流だが、最近ではカーボン性のウイングリガーというものも登場している。艇はひとつずつ神棚に祀られるように堂々とそこに置かれていた。この空間においては、人間の自分の方が道具であるはずの艇より小さい存在で、見下げられている罪人のように思えた。最近はこの艇庫が自分の居場所だと感じられない。なんでこんなことやってるんだろう。もっと華やかなんじゃないの、大学生ってさ。
でもまあどうでもいいか。どうせ全部いつか終わるんだし。

*****

俺の所属している阪和大学ボート部には、現在二回生〜四回生までで合わせて十人の漕手がいる。今俺は二回生。日本ではボート競技を大学から始める人が多く、今年は男女合わせて15人の部員が入部した。入部間もない一回生組は夏が終わるまではボートそのものに慣れるため、俺たち上回生組とは別メニューで練習をしていた。

上回生組は今日はエルゴで2000mのタイムトライアルを行う。俺がさっきやっていたやつだ。俺は先日の関西選手権で俺は三回生の橋本さんとダブルで出場した。橋本さんは温厚な性格だから、俺たちのクルーは終始軋轢も衝突もなく淡々と練習していた。髪が短くて眉毛が太い。細い目はいつもニコニコしていた。通例では直前のレースに一緒に出たクルーは一緒にトライアルを行うのだが、今日は橋本さんが大学の講義の関係で艇庫に来るのが遅くなるので、先に俺だけがトライアルを行った。
残りの八人の漕手と、COXの川田さんはエイトで出場し見事に優勝を飾った。準優勝した六甲大学のクルーに10秒以上の差をつけての快勝だった。六甲大学は俺たち阪和大学のお隣の大学で、来月七月には両校の一騎打ちでレースを行う対校戦を控えていた。両校は土地柄隣り合っている大学ボート部ということでお互い過去からライバル関係にある。一度他のチームも含めて関西選手権では阪和大学が勝利したものの、一騎打ちのレースになれば展開が変わってまた勝敗はどうなるか分からない。次のレースに向けての戦いはもう始まっていた。レギュラー組はこの後、二組に分かれてトライアルを行う。

そのなかには同期の岡本と井上もいた。
二人は俺と同じ二回生だが、今シーズンのレースは全てエイトのメンバーとして試合に出ており、すっかりレギュラーに定着していた。

ここから先は

43,006字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?