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そうこなくっちゃと、言えなくて。

「え、そうなの?」
「うん、ぜーんぜん、わからなかった」
てっきり映画好きの可奈には全部簡単に解釈できるものとばかり思っていた。彼女に気取った感じはないけど、平たくいって賢いのは間違いない。

何度か一緒に映画を見たけれど、私が泣けない映画で泣いていたし、可奈が笑っているシーンでも私はポカンとしてしまっていた。

プライベートだけでなく、会社でだってなんでもスイスイこなしていく可奈をみて、私は嫉妬したり羨ましがったり憧れたりしていた。

「まあ、でも、知らないものがあるっていいじゃん」
可奈がそう言ってくれるとほっとするというか、嬉しく思った。私だって可奈だって知らないことがある。一緒だ。

「そうこなくっちゃ、って思わない?」

ああ、じゃあ私とはぜんぜん違う。

ちょっと歩くペースが落ちて、彼女の伸びている背筋を見ながら、この子はきっとおばあちゃんになっても、真っ直ぐ立って、軽快に歩いているだろうと思った。まだ20代。私の猫背は老化のせいじゃないだろう。

わからないことや知らないことに遭遇したとき、私には「そうこなくっちゃ」とは思えない。できれば、もう知っていることしか起こらないでいいとさえ思う。

まだ知らないことや、出来事がたくさんある。
それは可能性ではなくって、恐怖だと思ってしまう。

可奈と別れて電車に乗っている間も、ずっとそのことを考えていた。
最寄りの西宮北口を起点にして、西は三宮、東は梅田が私の人生のほとんどの行動範囲だ。それ以上先に足を向けた思い出がほとんどない。

駅から自宅までの道に知らない店ができていた。
「そうこなくっちゃと思うでしょ。ぜひいらっしゃい」と試されているようなプレッシャーと勝手に感じた。ずっと前から帰りに寄ってみようと思っていた。実は今日こそと思って家を出た気がする。

だが、結局はそのお店を横目にいつものスーパーに足を向けてしまう。
決まりのルートを回ると、カゴには目当てのものがすんなり揃った。

まあラストオーダーまでもうすぐだったし、また今度いけるよね。
別に悪いことしてるわけじゃないけど、可奈には今日のことは言えない。
「気になっている店があったけど、寄らずに帰った」なんてこと彼女は理解してくれないだろう。悪くは言わないだろうが、きっと共感はしてくれないだろう。

レジでポシェットの中から折り畳みのビニールのトートバックを取り出すと、「最初からあのお店に寄る気なんてないじゃない」と言われている気がした。

トートバックを取り出すと、かばんの底に今日の映画のパンフレットが見えた。それが引き金になって、心がざわついた気がした。

あれ、私、ちょっとワクワクしている?

そういえば今日の映画、話の筋はぜんぜんわからなかった。でもずっと画面に綺麗な映像に、おしゃれな音楽に、表情の力にのめり込んだのは事実だった。
BGMを思い出すと、自分の中に余熱のような興奮を見つけることができた。

「すいません。お会計やっぱりなしでもいいですか?」
ミネラルをーターを店員の女性がレジに通す寸前、咄嗟に声をかけていた。
私は何を言ってるんだ。後悔しかけたけど、最初は目を丸くして驚いていた女性もにっこり笑ってくれて。
「はーい、またいらっしゃいね」
と言ってくれた。何度も通っているスーパーで、レジの女性は私のことを覚えてくれていて、「もうお客さんもほとんどいないから、私が直しておくわ」と言ってくれた。
普段なら絶対断るのだが、今日はその優しさに甘えてみようと思える図々しさがあった。

帰り道、やっぱりあのお店に行こうと思った。
躊躇うと一生その暖簾の向こう側にはいけないと思って、足を止めずに引き戸を開けると、優しい和風だしの香りがした。私だって思い切れば、こういうことができるんだ。こんなことだけど、私には大したことだ。

「いらっしゃい」という声が聞こえたとき、ああ、こられてよかった。と思った。

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