諦めの華
*不快にさせてしまったらごめんなさい
考えるために、そして反省するために書きました
誰にも見せないこともできたけど、見える場所に書くことが反省になると思いました
話せることが減ってきた気がする。
最近、立て続けに高校の友達、大学の友達、中学の友達と会った。最後に会ってから数ヶ月ぶりの人もいれば、卒業以来6年ぶりの人もいた。
久しぶりに会う彼らは、ひと目でわかるような変化を遂げている人もいれば、話すことでその変化を感じる人もいた。全てが大きく変わって別人のようになっている人もいれば、なにも変わっていない人もいた。
良い意味でも、悪い意味でも。
それは、相手から見た僕も同じだろう。
色々な人がいた。
会いたかったから頻繁に会っていた人、会いたかったけど会わなかった人、僕だけが会いたいと思っていた人、会いたいと思われていた人、会いたくなかった人、存在自体を忘れていた人。
そして、彼らが経た変化にも様々なものがあった。
なりたい自分になれた人、なりたい自分になれなかった人、なりたい自分を探している人、本人も思いもよらない変化をした人、自分の意志で変わった人、誰かに変えられてしまった人、変わろうとして変われなかった人。
それがどうであれ、僕らは会ってから、互いの現在について話をした。
元気にしているか、今何をしているのかを手短に。
そして話題は過去のことへと移っていく、前回話してから今日まで何があったのか、その変化をもたらしたのは何なのか、まるで時間を共有しなかったこれまでを必死に取り返すかのように。取り返すことなんて出来ないのだけれど。いや、そもそも僕らは取り返したいと本当に思っていたのだろうか。共有しないことを選んだのは僕らなのに。
愕然とするような時間の壁に阻まれていることに気づいた僕らは、慌てて、昔、確かにあなたと共有していた時間について懐かしむ。今の僕らを繋ぎとめている唯一の古びた錨の存在を、互いに確かめ合うように。
「こんなこともあったよね。」
「あんなこともあったよね。」
「あれ、そんなことあったっけ?」
「覚えてないなぁ、、」
時間が流れるように会話は進む。
燃料は好奇心か愛情か、それとも義務感だっただろうか。
現在を把握し、過去を掘り終えると、残すは未来ということになる。
これからどうしたいの?何をしたい?将来は?
難しい質問だ。答えを考える時間が欲しい。
けれど時間はただでさえ足りないから、僕らはこれまでに振り返った過去と現在を手掛かりに、未来について話をした。急かされているように。
そこで僕は現状に満足していないといったことを話す。将来はここに行って、あれをして、こうなりたいといったことを話す。やっと人生が始まった、自分がどこまで行けるのか楽しみだ、と話す。ペラペラと。
本心だ。
次に誰かが話す。自分も、現状に満足していないと。そして望む未来について話してくれる。
また次に誰かが話す。少し言いにくそうにしている。そして絞り出すようにその人は現状に満足していると話す。
そうなんだ、いいね。
会話は進む。
そしてふと気づく。僕がさっき滔々と話した、現在に満足していないという話が、彼の望む未来や、彼女の満足している現在を否定してしまったかもしれない事に。あの人が話しにくそうにしていたのは、直前に僕がそれを否定したからだったかもしれない。人が否定したものを肯定するには覚悟がいる。他人の無意識で無自覚なクソみたいな暴力を跳ね返すには強さが必要だから。
どうしよう。
覆水は盆に還らず、傷跡は瘡蓋を残す。
一度口にした言葉を本当の意味で取り消すことはできない。
ある人の「これだけしかない」は
ある人には「これだけあれば」になることがある。
そのことは海外で痛いほど知った。
だから、気を付けていたはずなのに。
けれど、こうも思ってしまう。
じゃあなんで、「現実に満足している」と言ったあなたの顔はそんなにしんどそうなのかと。
まるで言い聞かせているみたいだ。
僕はあなたの心を読めないから、そうじゃないのかもしれない。満足しているから、満足しているといっただけ、それならいい。
勘繰っちゃってごめんなさい。
けれど、もし言い聞かせているのなら。
何かを諦めた結果のその顔ならば、言わせて欲しい。
「早くない?」と。
どうやらあと60年ぐらいは生きるらしい僕たちが、20代前半で何かを諦めるに足る、十分な理由とは果たして何なのだろうか?
数日考えてみたけれど、僕は思いつかなかった。
僕が無知なだけなのだろうか?
諦めは連鎖すると思う。ドミノ倒しのように。我慢して受け入れた小さな諦めや妥協は次の諦めを連れてくる。離婚や自殺、犯罪といった悲劇の集大成の原因を順番に遡れば、最初に受け入れた小さな諦めに辿り着くのではないだろうか。
無理やり飲み込んだ小さな、小さな、妥協の種は、次に飲み込む妥協を養分に、人生に深く、丈夫な、根を張り巡らす。種の時点で吐き出しておくべきだったけれど、後悔してもすでに遅く、あの時飲み込んだ小さな種は、最悪なタイミングで、見るに堪えない悲劇の華を咲かせてしまう。そしてそれは他の花同様、枯れて次なる種を落とす。そんなバカなという悲惨な結果を数十年後に引き起こす種は、今まさに植えられてしまったのかもしれない。
学生時代と違って、もう僕らは、違う国に住んでいるほどに、異なった世界を生きているのかもしれない。そう感じてしまったことが何度かある。
とてもつらく、残念だ。
僕の常識が通じない、あなたの世界。
まだ言葉は通じますか?
まだあのことや、そのことについて話せますか?
質問してもいいのでしょうか?
それについて僕の意見を話してもいいですか?
それとも、それには無条件の肯定しか許されていないのでしょうか?
多様性を無条件の肯定と捉えている人がいる。
なんでもOK。みんな違ってみんないい。だってダイバーシティでしょ?
そんなことはない。
それでは話せることが無くなってしまう。
それぞれの置かれている現実が、見ている世界が、あまりに違って、もう話せることがあまり残っていない気がした。無条件の肯定を、お世辞を、嘘を言わないと決めたら、口を閉じるしかないのだろうか。
「黙ることが正解」なんてことがあるのだろうか。
それとも、色とりどりの世界をみんなで頑張って漂白して完成させたダイバーシティの中で、声が枯れるまであなたを尊重していると叫べばいいですか?
真っ白の世界であなたを見つけられるかひどく不安だけれど。
話すことが好きだ。
話したい人も、話したいことも、いつもたくさんある。
けれど、大きく変化してしまった僕らの間を繋ぐ言葉をまだ見つけられていなくて、もう黙ってしまおうかと思ったことがありました。これが大人なのだと、仕方のないことなのだと、妥協の種を飲み込もうとしてしまった。
ある夜の帰り道、「さっき、ぼくは会話を諦めたな」と感じて落ち込んだ。本音を話さずに空疎な言葉を使ったほうが楽だからと、楽な方を選んでしまった自分にうんざりだった。弱いなぁ。
頭の中で聞こえる。
『お前の好きだった「話す」ってあれでよかったの?』
いいわけがない。
そんな華は咲かせない。
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