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夕陽の落ちる踊場

冗談半分で、12階のベランダの手摺に乗ったことがある。死ぬつもりなんて毛頭ないのに、なぜあんな真似をしたんだろう。ひどく気分がよかったのを覚えている。「こんなとき、後ろからちょんと押されたら、わたしは何の理由もなく謎の死を遂げるんだな」そんなことを思ってしばらくひとり悦に入った後、しずしずと手摺から降りた。それからそんなことをしたことすら、忘れてしまっていた。

しかし、思えばその日を境に、少しずつ日常が崩れていったのだ。ひとりきりになると、誰かがわたしの肩を後ろから強く押してくるときがある。それが、最初は人混みの中を歩いているときだったり、職場のデスクに座っているときだったりしたので、不快に思いつつ、誰かとぶつかったのだろうと鷹を括っていた。しかし、ある日長い廊下をひとり歩いているとき、いきなり衝撃を受けて振り返ると、そこには誰も居なかった。一瞬の出来事なので、自分がおかしくなったのかと、疑いたくなる。疲れてるのかな、そんなことを思いながら帰路につくと、信号待ちしている背中を不意打ちで押された。危うく横断歩道に踏み出して車に轢かれるところだった。後ろを振り返っても、誰もいない。
そしてその「手」は次第にエスカレートして行った。
駅のホームで電車を待つとき、ひとりきりで車を運転しているとき、急な坂道の上に立ったとき。その手は絶妙な力加減でわたしを1歩前に押し出す。そして、ギリギリのところでわたしは助かるのだ。わたしはじりじりとゆっくり殺されていく思いだった。
そんなことが2年続いたあるとき、実家のある田舎に帰った。
わたしは思い立って昔みんなでよく遊んだ廃ビルに行ってみた。なんとなく足が向いたというか、終わりにするならここかな、という気がしていた。わたしが知る中で到達できる、一番手近な高層階だ。情けない話、あれ以来わたしは死を考えない日はなかった。そして、廃墟の最上階に登ると、暮れてゆく空は雲ひとつなく晴れ渡っている。わたしは、いまから謎の死を遂げるんだ。自らの意思で。そう思うとホッとした。
また後ろから不意打ちされないために、わたしは、屋上の真ん中に立って、息を整えた。そうして長い助走をつけると、空中へと一気に飛び出した。
「誰だわたしを殺すのは」そんな思いが脳裏をよぎったが、だれのせいでもない。初めからわたしの中にそういう願望とも言えない微(かす)かな望みがあったのかもしれない。
わたしの身体が完全に空中へ飛び出した瞬間、重力に従って、勢いよく落下し始めた。
わあっと目を回す暇もなく、わたしは全身に衝撃を受けて倒れ込んだ。
あれ?目を開けて上を見あげると、随分近くに屋上の端が見える。わたしは外階段の踊場に倒れていた。
このビルには登ってきた階段の他に、雨ざらしの外階段がついているのだった。
わたしは運良くその階段側に、飛び降りたらしい。
馬鹿みたいだ。
身体中痛かったし、足も捻挫したようだが、とりあえず生きている。
空が薄桃色から濃い紫へ変化してゆく美しさを、陽の当たる踊場でぼんやりと眺めていると、なにもかもが嘘みたいだった。
「ごめんよ」自分に謝ってみると、安堵からか涙が溢れてきた。傾きかけた夕陽を仰ぎながら泣いていると、ふっと、誰かが後ろから抱きしめる感触がした。
「ごめんね」耳元でそう聞こえた気がする。
わたしはまた、生きていくんだな。
どこまでも広がる陽の温もりに包まれて、自分がひとつに戻ってゆく快さを感じていた。

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