バルバッティン『靴下を買いに』編
1:1台本
レイ♀:
バルバッティン♂:
レイM:
ちょっと留守をするつもりだった。
忘れ物したら取りに帰ればいい。
書き置きひとつ残して行かなかった。
だって、そんな義理もない。
死にはしないでしょ。
子供じゃあるまいし。
休みが重なったら見ようねって言ってた、エヴァのDVD。
4巻まで読んだデュマの長編小説。
お気に入りのジェラート・ピケのガウン。
大事にしていたもの全部、あの部屋に置いてきた。
だって、帰る場所はそこしかなかったんだもの。
帰れなくなるなんて、思ってなかったんだもの。
バルバッティン:「あのう…。」
レイ:「…はい?」
バルバッティン:「傘。入りませんか。」
レイ:「あ、傘?いえいえ、大丈夫です。」
バルバッティン:「信号待ちの間だけでも、入ってください。」
レイ:「はあ…。すいません。ありがとうございます。」
バルバッティン:「雪だから、小降りなら大丈夫かと思って、
傘持ってない人、多いんですよ。」
レイ:「こんな季節に、しんしんと積もるなんて思わないですよね。」
バルバッティン:「けっこう降られましたね。ぬれてますよ。」
レイ:「あはは、大丈夫ですよ。ハンカチありますから。」
バルバッティン:「これ、よかったら使ってください。」
レイ:「いえいえ、本当に、ありますから。」
バルバッティン:「そうですか…。」
レイ:「そっち、ぬれてませんか?なんか、かえってご迷惑おかけして。」
バルバッティン:「どちらまで?」
レイ:「ああ、この先の、地下鉄まで。」
バルバッティン:「奇遇ですね。そこまでご一緒しますよ。」
レイ:「とんでもない!わたし、走るの得意なんで。」
バルバッティン:「じゃあ、わたしも走りますよ。」
レイ:「え…?」
バルバッティン:「…冗談です。」
レイ:「っふ、あははは、突然ですね。」
バルバッティン:「はい、わたし突然こういったこと言いますよ。」
レイ:「いいですよ。わたしだって、冗談くらい言いますから。」
バルバッティン:「あのう…。足、寒くないですか?」
レイ:「寒いですよ。裸足で出てきちゃったんで。」
バルバッティン:「そんなに急いでるんですか?」
レイ:「ちょっとした、家出です。」
バルバッティン:「そうですか…。」
レイ:「冗談です。」
バルバッティン:「え…?」
レイ:「っふ、あははは、びっくりしたでしょう。」
バルバッティン:「いえ。それならそれで、ちゃんとしないとなって。」
レイ:「どうしてあなたが?」
バルバッティン:「行きがかり上、放っておけませんよ。」
レイ:「地下鉄、間に合うかなあ。」
バルバッティン:「行くとこあるんですか?」
レイ:「家出なんて、冗談ですよ。」
バルバッティン:「…じゃあ、なんで泣いてたんですか。」
レイ:「あ、ばれてました?」
バルバッティン:「けっこう、こわいですよね。泣いてる人見るのって。」
レイ:「すいません。」
バルバッティン:「謝ることじゃありませんよ。」
レイ:「でも、それで声かけてくれたんでしょう?」
バルバッティン:「それもありますけど。なんか、こう、絵になるなあって。」
レイ:「雪の日に、泣いてる裸足の女が?」
バルバッティン:「はい。なんだか、春を待ち焦がれているようで。」
レイ:「…突然、ロマンチックなこと言うんですね。」
バルバッティン:「はい。わたしはそういうとこ、あります。」
レイ:「っふ、あははは、それ、口癖ですか?」
バルバッティン:「え…?そういうとこあります?」
レイ:「それ。それですよ。」
バルバッティン:「ああ、これですか。まあ、なにも言わないより、いいかなって。」
レイ:「なんだか、急に冷たいんですね。」
バルバッティン:「え?そうですか?」
レイ:「そこは、『わたし、そういうとこあります』でしょ!」
バルバッティン:「すいません。わたし、空気読めないんで。」
レイ:「あ、信号、変わりましたよ。わたし、もう行くんで。」
バルバッティン:「え、ついでに地下鉄までお送りしますよ。」
レイ:「そう、ですか…?」
バルバッティン:「…よかった。行ってしまわなくて。」
レイ:「どうしてです?」
バルバッティン:「わたし、走るの遅いんですよ。」
レイ:「あはは、だれも、本当に走って逃げたりしませんよ。」
バルバッティン:「だって、いまにも凍えそうじゃないですか。」
レイ:「たしかに、こんな格好ですからね。」
バルバッティン:「本当に、飛び出して来ちゃったんですね。」
レイ:「恥ずかしながら、家出は冗談じゃないんです。」
バルバッティン:「じゃあ、時間あります?」
レイ:「…ん?ありますけど。」
バルバッティン:「靴下、買いに行きましょう。」
レイ:「そんな、知らないひとに、そこまでしてもらえませんよ。」
バルバッティン:「知ってるひとなら、いいんですか?」
レイ:「あ、ケータイ。持って出るの忘れちゃった。」
バルバッティン:「取りに帰ります?」
レイ:「いやですよ!…あ、いえ、ちょっとそれは。」
バルバッティン:「…気まずいですよね。」
レイ:「こんなこと言えた義理じゃないんですけど…!」
バルバッティン:「あ、じつは、わたしもケータイ持ってないんです。」
レイ:「ええ!そうなんですか!?」
バルバッティン:「そういう習慣がないもので。」
レイ:「いまどき、珍しいですね。」
バルバッティン:「はい、わたし…いや、もういいですよね。」
レイ:「空気、読みましたね。」
バルバッティン:「ああ!今のが空気を読むというのですね。」
レイ:「っふ、あはは。おかしな人。」
バルバッティン:「たまに言われます。」
レイ:「あ、こっち、近道していいですか?」
バルバッティン:「それより、ちょっと、寄り道していいですか?」
レイ:「も、もちろん。」
バルバッティン:「ちょっと、靴下を買いに。」
レイ:「いやいや、本当に、大丈夫ですって。」
バルバッティン:「なんだか、…かわいそうで。」
レイ:「そんなにはっきり慰められるとは、思いませんでした。」
バルバッティン:「『靴下を買いに。』っていいですよね。」
レイ:「『手袋を買いに』より?」
バルバッティン:「そうそう、それ。
なにかに似てるなあって思ってたんですよ。」
レイ:「…手袋がないより、靴下がないほうが、悲しいですね。」
バルバッティン:「だから、買いにいきましょうよ。」
レイ:「…悲しい女に見えるのって、けっこういやですね。」
バルバッティン:「…また泣くんですか?」
レイ:「…泣きませんよ。」
バルバッティン:「決まりです。あなたは今から、少し、泣きますよ。」
レイM:
おいおいと、おいおいと、泣いた。
惨めで、情けなくて、申し訳なくて、
でもなにもできなくて、泣いた。
横殴りの雪の中、傘と、その人がいなかったら、
と思うと、ぞっとした。
ゆっくり、ゆっくり、わたしは、彼に近づいていた。
ゆっくり、ゆっくり、彼も、わたしに近づいていた。
何かで温まるしか、ほかにやりようがないまでそうしていて、
ふたり、びしょびしょにぬれながら、最終的には、
開いていた喫茶店に飛び込むことになった。
バルバッティン:「〈震えながら〉コーヒー。
コーヒーふたつでいいかな?」
レイ:「〈震えながら〉は…はい。はい、もう、なんでもいいです。」
バルバッティン:「まさか、こ…ここまで泣き止まないなんて、思わなくて。」
レイ:「すいません…。本当に、ごめんなさい。」
バルバッティン:「きみは、雪の精なのかなって、ちょっと思ったりした。」
レイ:「よ…余裕ありますね。
そんなものなら、とっくにあなたから去ってますよ。
恩人をこんな目に遭わせたりしません!」
バルバッティン:「ううう…寒い。寒いですね。寒いですね。」
レイ:「ああ、コーヒー、コーヒーがきましたよ!」
バルバッティン:「コーヒー飲みましょう。とりあえず、飲みましょう。」
レイ:「〈コーヒーを飲みこんで〉はあ…。ああ、生きてる…。」
バルバッティン:「〈コーヒーを飲みこんで〉よかったあ。ふたりとも、無事で。」
レイ:「…あなた、いつもこんな目にあってません?」
バルバッティン:「こんな目というと?」
レイ:「ひとがよすぎるんですよ。ここまで付き合う必要、あります?」
バルバッティン:「ありますよ。当たり前でしょう。」
レイ:「当たり前かあ…。世の中、捨てたもんじゃないですね。」
バルバッティン:「まあ、あれです。涙は、あったかいです。」
レイ:「…はい。…はい?」
バルバッティン:「なんか、わたしも、もらい泣きしちゃって。」
レイ:「…ええ!?」
バルバッティン:「吹雪の中で泣くと、目元だけ、熱いんですね。」
レイ:「…いま、胸も熱くなりました。」
バルバッティン:「ええ!大丈夫ですか?」
レイ:「っふ、あはは、ちょっとくさい台詞。あなたみたいでしょ?」
バルバッティン:「わたし、そんな台詞、吐きませんよ。」
レイ:「…でも、ありがとう。」
バルバッティン:「ああ、ちょっと、あったまってきましたね。」
レイ:「あなたのおかげです。わたし、ひとりだったらって思うと。」
バルバッティン:「ひとりだったら、たぶん、こんな目にあってないです。」
レイ:「どうして?」
バルバッティン:「あの信号から、走って地下鉄の駅に向かって。
いまごろ、あったかい電車のシートでうたたねしてるかもしれませんよ。」
レイ:「…なんか、無駄に前向きですね。
わたし、いちおう、さっきまで修羅場を演じて、
家出してきたんですよ?
うたたねは、ないでしょう。うたたねは。」
バルバッティン:「ああ、そうか。そういうとき、人は眠れないですよね。」
レイ:「なんでって、聞かないんですね。」
バルバッティン:「え…?聞いてほしかったですか?」
レイ:「こんな目に遭わせたあげく、もらい泣きまでさせて、
理由を聞きたくはならないんですか?」
バルバッティン:「そう、ですね。…なります。
なりますね。」
レイ:「その…無理矢理聞いてもらおうってわけじゃないんですよ?」
バルバッティン:「あなたが、話して楽になるなら、聞きますけど。
また泣き出すんだったら、やめときます。」
レイ:「泣きません、もう、泣きませんよ。
ってゆうか、ここは天国かってくらいあったかいから、
ニヤニヤしちゃいます。」
バルバッティン:「ニヤニヤですか。にっこり、とか、してもらえませんか。」
レイ:「うふふふ。」
バルバッティン:「やっぱりあなたは不思議な人ですね。
それで、どうして家出なんかしてきたんですか。」
レイ:「…そうだ。ニヤニヤしてる場合じゃないんだった。」
バルバッティン:「なにか、悲しいことがあったんですか。」
レイ:「ちょっとしたことなんです。でも、許せなかったんです。」
バルバッティン:「…子猫を殺された、とかですか。」
レイ:「それはちょっとしたことじゃないしょう。」
バルバッティン:「そうでした。…犬を殺され」
レイ:「〈かぶせ気味に〉たしかに、許せませんけど。
ちがいます。」
バルバッティン:「人…ではないですよね?…ね?」
レイ:「〈大きなため息をつく〉…もう。いいです。
なんか、そんな大それたこと持ち出されたら、
自分が怒ってることなんて、本当にくだらなく思えてきました。」
バルバッティン:「とりあえず、生き物は、死んでないんですね?」
レイ:「そこ?そこなんですか?気になるのは。」
バルバッティン:「一番大事なことでしょう。」
レイ:「…は、はい。」
バルバッティン:「命がなくなるのは、悲しいんです。
そんな恐ろしいことになるくらいなら、
百年の眠りにつきたい。」
レイ:「…なにか、あったんですか?」
バルバッティン:「いえ、わたしについては、なにもありません。
あんなに泣くってことは、
そのくらいの大事件が起きたって思うじゃないですか。」
レイ:「あなた、いちいちちょっとドラマチックなんですよ。
ドキッとしちゃいますよ。」
バルバッティン:「わたし、ときどき、想像しすぎてしまうんです。
どこか、おかしかったら、言ってくださいね。
現実をちゃんと生きたいんです。」
レイ:「そういうとこですよ。そういうとこ。
『妄想がふくらんじゃって。えへへ』ですむところを、
あなたが大げさに言ってるだけですよ。」
バルバッティン:「でも、こういうしか、ほかに言いようがないんです。」
レイ:「わかりました。…じゃあ、あなたの話し方でけっこうです。
わたしはね、あなたの言葉で言うなら、男に、捨てられ、つらかった。
…ってとこです。
あーあ。台無しだ。これ。あはは。」
バルバッティン:「彼氏と、喧嘩でもしたんですか。」
レイ:「そう!それ!そういうのを待ってたんです。
…普通にしゃべれるんですね。びっくりだ。」
バルバッティン:「…なるほど。彼氏に、女がいたとか?」
レイ:「そう。まさに、そのまんま。
しかも、なんでわかったかっていうと、
彼氏のケータイ見ちゃったんだよね。
あれは、見てはならないものだってわかってたのに、
わたし、馬鹿だよね。自分で墓穴掘っちゃった。
しかもね、わたしには一言も言わないくせに、
相手の女には好きだの愛してるだの、
さんざん送って。
きわめつけは、「彼女には別れ話をする」だって。
それ見ちゃったらさあ。
ドラマとかで、よくあるじゃない?
『あなた、これなあに?』って、ケータイ掲げてにっこり笑って、
それからおもむろにひっぱたくの。
現実に起きたら、それどころじゃなかった。
3年いっしょに暮らしたんだよ?
その生活全部、否定された気がした。
胸がはりさけそうで、じっとしていられなかったの。」
バルバッティン:「よくしゃべりますね。…ああ、よかったあ。
わたし、黙っちゃうひとと一緒にいると、自分も黙っちゃうんですよ。」
レイ:「じっとしていられなかったの!だから、家出してきたのよ!」
バルバッティン:「ええ!?」
レイ:「こういうときは、『それはさぞつらかっただろうね』って、
同意してくれないと。」
バルバッティン:「そっか。それは、…大変な思いをしたんだね。
そんな男、捨てちゃえばいいいのに。」
レイ「………。」
バルバッティン:「え、わたしまたなにか言いました?」
レイ:「っふ、あはははは!…そっか、そっか。」
バルバッティン:「よかったあ。笑ってくれて。また怒られるのかと思いました。」
レイ:「あなた、憎いと思った人いないの?」
バルバッティン:「…いませんね。いまのところ。」
レイ:「恋愛ってね、愛憎入り交じってるの。
憎ければ憎いほど、執着心ってわいてくるものよ。」
バルバッティン:「じゃあ、あなたは、
その男のところに、帰るつもりなんですか。」
レイ:「…たぶんね。
女には別れ話をするって送っておきながら、
あの人、わたしには、
そしらぬふりをして隠し続けてきたんだもの。
…どっちが遊びかは、はっきりしてるでしょう。」
バルバッティン:「そういうものですか。
わたしは、あなたをこのまま連れ去りたいと思ってたんですが。」
レイ:「…おっと、問題発言!」
バルバッティン:「いけませんか?
わたしは、裸足のあなたにどうしても靴下を買ってあげたい。」
レイ:「連れ去りたいって、そういう意味なの?」
バルバッティン:「ほかの意味のほうがよかったですか?」
レイ:「……!」
バルバッティン:「…あ。くさい台詞って、こういうこと言うんですね。」
レイ:「もう…なんか、あなたといると、調子狂っちゃう。
わかった。じゃあ、お別れに、靴下だけ、買ってもらおうかな。」
バルバッティン:「靴下だけで、大丈夫かなあ。」
レイM:
喫茶店の外に出ると、空は満天の星空。
銀世界に輝く月は、切なくなるほどきれいだった。
バルバッティン:「さて、わたしは靴下を買ってきます。
ここで待っててくださいね。」
レイ:「ええ?わたしも一緒に行っちゃダメなの?」
バルバッティン:「『靴下を買いに』ですね。
わたしはお使いに出るのです。
帰りを待っててくれますよね?」
レイ:「…うふふ。わかりました。
わたしは、ここで待ってます。
あなたの帰りを、今か今かと、待ってます!」
バルバッティン:「わたしはね、ほんとうは人間じゃないんですよ。」
そのとき、突風が吹いて、わたしは思わず目をつむった。
次に目を開けると、彼の後ろ姿が、街頭の向こうに消えるところだった。
聞き間違いかな。
わたしは、彼独特の冗談だと思って、空を見上げて少し笑った。
それから、どれだけ時間がたっただろう。
一面の銀世界に、こころは真っ白に静まりかえっていた。
あの身を焦がすような憎しみは、
炎のような嫉妬心は、どこへいったのだろう。
執着心をもたない、…か。
そんな生き方もあるのだろうか。
そんなことを考えていると、
わたしの凍えた足下に、ふと、あたたかいものが触った。
そこには、小さな小さな生き物が、赤い靴下を持って立っていた。
バルバッティン:「言ったでしょう?人間の姿は仮の姿。
わたしはバルバッティン。さあ、一緒に行きませんか?
どこまでも、一緒に。」
レイM:
こうして、わたしは、バルバッティンを抱きかかえると、
夜の静寂(しじま)の中を、
まだ誰も知らない土地へと歩き出した。
わたしとバルバッティンだけの、見知らぬ土地へ。
END
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