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涙日和 II

〜沙織と圭介〜

二十年間放置されたままのピアノを、なぜ捨てなかったか。
それはかつて「大切にされた女の子」が生きてここに居た証だから。

今朝早くに起き出した姉の沙織が、そっとその重い蓋を開くまで、ピアノは深い眠りの中にいた。二十年、ソフトクリームの香りのティッシュや、ピンクの髪結いリボン、虹色に光るキャンディの包み紙に、手を離すと天井まで浮かんでいった赤い風船なんかを詰め込んだ、小さな宝石箱を載せて、女の子の見る夢の中にいたのだ。
その深い眠りを破ったのが、沙織でよかった、と階下で気配を伺っていた弟、圭介は思った。
夢見がちだった姉が、家を出たのはまだ16の年だった。女子寮付きの高校に入ったのだ。
その後の二十数年、姉の生活を弟の圭介はほとんど知らない。今年の初めに抜き打ちで姉のアパートを訪れた母の話では、知らない男と鉢合わせしたとか、その男の靴が船ように大きかったとかなんとか。
ただ、姉は昨夜遅くに突然びしょ濡れで玄関に現れたかと思ったら、2時間実家のバスルームを占拠して出てこなかった。
こういうとき、どんな切り出し方をすればいいか、男兄弟はわからない。
とくに会話のないまま、それぞれの部屋で朝を迎えてしまった。

圭介がカーテンの隙間から外を窺うと、まだ夜明け前だった。蒼いフィルムの向こうの世界は、銀色のベールを被って凍えている。
今年初めて、霜が降りたのだ。
そのとき、二十年調律していないピアノから、ある一音が低く遠慮がちに流れ始めて、家中の空気を震わせた。
音が狂っていないかを確認してから弾くつもりだったのだろう。しかし、悲しいかな、ピアノは眠っている間に確実に劣化してしまっていた。しばらく鳴り響く澱んだ一音に、世界はゆっくり同化して、いつの間にか、沙織の発するその一音が新たな基準となる。
そして、彼女は音階の狂ったピアノを颯爽と弾き始めた。
不吉な出だしは、よく聞けば、「誰かが口笛吹いた」という有名な童謡だ。暗澹たる気持ちを掻き立てられる導入部分は、沙織の好きなパートだった。
そして歌い出しはこう続く。「誰かが口笛吹いた、楢木(ならのき)の影でさ。誰かが足音立てた、爽やかな朝だ」
誰なんだろう、この爽やかな朝にこっそり口笛を吹いたり隠れて足音を立てているのは。
圭介は小学生のとき通った音楽教室で、姉の伴奏に従って人前で歌わされた苦い過去を思い出していた。
しかし、曲調は途中で唐突にガラリと変わる。この曲は元々フランスの軍隊の行進曲なのだ。曲は中盤、雄々しく、猛々しくスタッカートを連打する。
唐突に強く弾(はじ)かれた鍵盤は、沙織の指についてゆけずに鈍く遅れて凹んだり出っ張ったりを繰り返し、その曲調に気味の悪い不和をもたらしていた。
沙織は暗譜してあるこの一曲をしつこく繰り返し弾いた。なにかに取り憑かれたように。
バラバラの音階が作り出す行進曲は、足元がおぼつかず、足並みも乱れて、横道にそれる奴や、並木にぶつかる奴、坂を登る奴もいれば、酒を飲み出す奴までいるかもしれない。上下左右がわからなくなった世界で、お揃いの軍服だけが、妙に悲しく統一感を保っている。そんな情景が、沙織の頭の中をいっぱいにして、周りに人の気配など全く感じなかった。

「なあ…朝陽、見に行かない?」
いつの間にか、2階に上がってきていた圭介が、ぶっきらぼうにダウンジャケットを差し出して言う。狂ったピアノの亡霊に取り憑かれていた彼女は、調子っ外れの演奏をピタリと終えた。
圭介は、身支度を整えながら、姉にもそれを強要する。
「誰かが口笛吹いたんなら、晴れてたんだな。」
ふっと沙織の身体から力が抜けた気がした。
「今日は、晴れ?」
ようやく出てきたか細い声は、かすれていて弱々しかった。沙織は相変わらずピアノに向き合ったまま、動こうとしない。
「狂った音、直してもらおうな。」
圭介がさりげなさを装ってたしなめるように言った。
沙織はゆっくりとした動作でピアノにフェルトの布をかけ、重い蓋を静かに閉じると共に、その上に突っ伏して動かなくなった。
「いつの間に、狂ったんだろうね?」
その言葉が何を指すのか誰に対して言っているのか、圭介にはわからないけれど、姉がしくしく泣いていることだけは分かった。
「わたし、幸せだったわよね」
何度も確かめるように、夢見る口調で沙織は繰り返す。
「ね?そうよね…」







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