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太陽の申し子


夏の日、山頂の溜池から勢いよく流れる灌漑用水(かんがいようすい)の、獰猛な生き物のような勢いが好きだ。
晴れた午後、火傷しそうな自転車のサドルにまたがって、開放された学校のプールに向かう高揚感。ぬるい消毒液に浸かった後、シャワーの新鮮な水が日焼けした身体と水着の間を這う感触。歩く度に、足の形に濡れては乾くコンクリートの床をつま先立ちで走る子供。
完璧な夏の日!
哀れなわたしは、ひとりその様をプールサイドで想い描く。
身体を冷やすとお腹を壊す体質のわたしは、プールに入ったのは低学年の数回だけだ。
二十五メートルプールの終わりにある、のぼり梯子を椅子替わりにして、足だけの水浴び。
二つ歳上の姉が、背泳ぎでプールの真ん中をずんずん進んでいくのを観察する。すると、プールサイドで同じように姉の伸びやかな肢体に見蕩れていたマサシと目が合って、すぐに水中へと逃げられた。
輝く水面を黒い影が姉とは反対側へ、潜水してゆく。
わたしの眼力に恐れをなして。
弱虫め。
わたしは太陽の申し子。
まだこころの不自由さに気づいてもいなかった。

ふいに、監視台にいた先生の笛が鳴る。
辺りを見渡すと、低学年用の浅いプールで、1年生のマリコが鼻血を出して人垣を作っている。
おかげで、こちらのプールが少し空(す)いて、こころなしか、足元にも冷たい流れがくるような気がした。
わたしは、プールサイドに腰掛けたまま、仰向けに寝転んでみる。
入道雲は空の端に追いやられ、太陽が空を占拠する。目を開けていられない眩しさ。
マサシはまた、プールサイドに上がっては、背泳ぎの姉を探しているだろうか。
馬鹿みたい。馬鹿みたいだ。ヘンタイだ。
ぼんやり目を閉じて暑さに身を任せていると、両目を押えていた腕に、一瞬冷たく刺すような衝撃を覚えて、飛び起きる。
そこには、マサシの悪戯っぼい、照れくさそうな笑顔があって、手にした小さな水鉄砲の銃口で2発目を狙っている。
わたしは、思わず笑い返しながら、水面を蹴って起き上がる。
わたしは太陽の申し子。
走り出してる頃には、胸のモヤモヤがいつの間にか消えてることに、気づきもしなかった。

しばらく早歩きでマサシを追いかけていたのは、先生によって走ることを禁じられていたからもあるが、なにより、このもどかしい追いかけっこが滑稽で楽しかったからだ。水鉄砲なんて持っていることが見つかったら、ただじゃ済まないのはわかっているはずなのに、マサシはそれを細い腰と水着の間に挟んで隠し持っていた。
ややもすると、水着の中にすっぽり入り込んでしまうその武器を、器用に左手で抑えながら、わたしが追いかけてくるのを嘲笑うマサシ。そんなほんの戯れが、いつもひとりぼっちのわたしには、特別スリルある瞬間に思われて、胸がドキドキした。
マリコの鼻血が止まらなければいいのに、とさえ思った。
ふと、足を止めて浅いほうのプールを見やると、ようやく人垣が散らばって、先生がぐったりするマリコを裸の背中におんぶして退場するところだった。
それを追う1年生の集団と、興ざめして帰る女子のグループが、プールから消えてしまうと、これ幸いにと、マサシが水鉄砲で攻撃を始めた。でもそれは、わたしにではなく、同じく水鉄砲を隠し持って来ていた、同学年の男子相手にだ。
わたしは、突然また炎天下に取り残されて愕然とする。
奇声をあげながら騒ぐ少年たちのくだらない集団に、一瞬でとけ込んだマサシを恨めしく思う気持ちが、蝉の音や木々のざわめき、遠くで鳴るヘリコプターの旋回音、金網につながれた小型犬の吼える声、背泳ぎの姉、そのすべてに平等に降り注ぐ太陽の身勝手さに重なって、わたしは我慢ならなかった。
少し下がって助走をつけると、焼けそうなコンクリートを蹴って、服のまま、ひときわ大きな飛沫をあげて、輝く水面に飛び込む。
わたしは太陽の申し子。
この息の続く限り、光に揺れるプールの底で叫び続ける。自分の耳にすら届かない泣き声で、寂しい!寂しい!寂しい!と。

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