見出し画像

バルバッティン『脱走』編

1:0:1台本

役表
レイ♂:
バルバッティン不問:

レイM:
犬が苦手だった。
犬も、おれが苦手だった。
動物に嫌われるたちだった。

幼少の頃、飼っていた愛犬ペケに噛まれて以来、
あらゆる動物に近づくのが、怖くなった。

そんなことか、くらいに思うかもしれないが、
最近、妻が犬の写真ばかり見せてくる。

飼いたいのだろうか。
たぶん、そうだ。

おれとの生活に、飽きてきているんだろう。
目新しい、同居人がほしいのだ。

それは、それで、仕方ないか。
だっておれはずっと、仕事仕事と理由をつけて、
家を空けてばかりいるのだから。
さみしくなるのも、当然だろう。
父のように、熟年離婚も覚悟しとかないと、…かな。

いやだいやだ。
朝から、憂鬱なこと思い出してしまった。


バルバッティン:「その芸能人、終わりですね。」

レイ:「…は?」

バルバッティン:「あ、いえ。そこに出てる記事です。」

レイ:「ああ。…くだらない。
ひとの不倫なんて、興味ありませんよ。」

バルバッティン:「今日は、あの記事が一面だと思ったんですが。」

レイ:「あなた、ちょっと、なんなんです?」

バルバッティン:「ああ、いえ。すいません。」

レイ:「〈つぶやくように〉まったく、最近の若い者は…。」

バルバッティン:「わたし、そんなに若くはないですよ。」

レイ:「…なんなんだよ。」

バルバッティン:「あの記事が載ってるのか。
気になってのぞいてしまいました。」

レイ:「…気になるなら、電車に乗る前に自分で買いたまえ。」

バルバッティン:「そんな、冷たいんですね。」

レイ:「あのなあ。
こんなところで、話しかけないでくれないか。」

バルバッティン:「おっと?怒ってらっしゃる?」

レイ:「〈声をひそめて〉べつに、怒ってはないよ。」

バルバッティン:「あの記事、どっかに出てないですか?」

レイ:「あの記事、あの記事、って、それなんなんだ。」

バルバッティン:「あの、例の脱走事件ですよ。」

レイ:「そんな事件あったか?」

バルバッティン:「ありましたよ。つい、半月前ですかね。」

レイ:「それで、そいつ。捕まったのか。」

バルバッティン:「それが、一度捕まえたのに、逃げ出したらしいんです。」

レイ:「脱獄か…。脱獄…脱走…。
どれ…ふん…〈新聞をめくりながら〉?
どこにも載ってないようだが?」

バルバッティン:「え。本当ですか?」

レイ:「ほら、これ。
もう読み終わったらから、
自分で見てみるんだな。」

バルバッティン:「もう読み終わったんですか?
まだ電車に乗って10分ですよ?」

レイ:「ああもう、めんどくさいから、
くれてやるって言ってるんだよ。」

バルバッティン:「めんどくさいですか?
まだ一駅分もしゃべってませんよ。」

レイ:「こっちは朝から満員電車で変なやつにからまれてるんだ。
苛つくのも当然だろう?」

バルバッティン:「変なやつ…ですか?」

レイ:「ああ、変なやつじゃないか。
他人に話しかけてくるなんて。」

バルバッティン:「ええっと…。他人…ですか。
まあいいですよ。
昨日同じ部署に異動してきたものなんですけど。」

レイ:「…えっ!そうなのか?」

バルバッティン:「はい、まあ、同じような年代が
けっこう入って来てましたから。
まだ覚えてらっしゃらないか。」

レイ:「いや…そういうわけでは。」

バルバッティン:「いえいえ、いいんです。
もともとわたし、影が薄いって言われてますから。」

レイ:「そう…なのか?
きみ、けっこう一度会ったら忘れないような気がするけど?」

バルバッティン:「それにしても…、本当だ…。
あの記事、載ってないんですね~。」

レイ:「っふ、おまえ、おかしなやつだな。」

バルバッティン:「そうですか?わたしには、そう見えませんけど。」

レイ:「…っふふ。〈笑いをこらえながら〉おまえ。
だめだ、笑っちゃだめだ。」

バルバッティン:「笑ってもいいじゃないですか。
ほら、こちょこちょこちょ~。なんて。」

レイ:「おま、ちょ、しー!
〈声をひそめて〉やめろ!迷惑だろ!」

バルバッティン:「じゃあ、そこ、立ったらどうです?」

レイ:「え?」

バルバッティン:「目の前のお嬢さん、気分が悪そうですよ。」

レイ:「〈女性に対して〉あ、これは、気づきませんで。
すいません。
どうぞ。座ってください。」

バルバッティン:「〈女性に対して〉本当、この人、
鈍いんで。すいません。」

レイ:「〈声をひそめて〉おまえ、そう言いたかったなら、
最初から言えよ!人が悪いよ。」

バルバッティン:「わたし、そういうとこあるんですよね。」

レイ:「あるんですよね、じゃないよ。
まったくもう…。恥かかせるな。」

バルバッティン:「恥?どうして恥なんですか?」

レイ:「おまえ、本当にわからないか?」

バルバッティン:「いえ、本当はわかります。」

レイ:「なんだそれ!おれ、ここで降りて歩くわ。」

バルバッティン:「じゃあ、わたしもここで降りようかな。」

レイ:「会社まで、2駅だぞ?いいのか?」

バルバッティン:「いいんです。
あなたが他で失礼がないように、見張ってます。」

レイ:「馬鹿。おまえは保護者か。
…いい年して、なに言わせんだよ。」

バルバッティン:「へへへ…。冗談です。」

レイ:「わかってるよ、そんなこと!」

バルバッティン:「ねえ、そのカバン、重くないですか?」

レイ:「重いよ。だからって、手ぶらで行くわけにいかない…」

バルバッティン:「ほら、手ぶらです。」

レイ:「おまえ…カバンはどうした?
電車に忘れたのか!?」

バルバッティン:「ああ、会社に置いて帰りました。」

レイ:「はあ!?そんな会社員、聞いたことないぞ。」

バルバッティン:「でしょう?画期的でしょう?」

レイ:「おまえ、社会人として、どうかと思うぞ。」

バルバッティン:「だって、仕事を家に持ち帰りたくないじゃないですか。」

レイ:「そりゃ、おれだって、そうだけどさ。
資料とかあるし。急な連絡あったらどうするんだ。」

バルバッティン:「ええ?
そんな電話、出なきゃいいじゃないですか。」

レイ:「そういうわけにもいかないだろう…
っておまえ、どこ行くんだ?」

バルバッティン:「会社ですけど。」

レイ:「会社って、そっちじゃないだろう?
そこ、曲がってどうする。
どっか、寄るのか?」

バルバッティン:「え?わたしの会社は、こっちですけど。」

レイ:「え…だって、おまえ、おれと同じ部署なんだろ?」

バルバッティン:「はい。そうですよ。なに言ってるんですか?」

レイ:「いや…意味わかんないんだけど。
会社、こっちのほうが近道だぞ?」

バルバッティン:「そうなんですか?
わたし、まだ、道をよく覚えてなくて。」

レイ:「おまえ、あっちから行ったら、
かなり遠回りだっただろう?
昨日、何分歩いたんだ?」

バルバッティン:「20分くらいでしょうか。」

レイ:「20分…。意外に早いんだな。」

バルバッティン:「だって、カバン持ってませんから。」

レイ:「あのなあ。昨日も、カバン持って行かなかったのか?」

バルバッティン:「冗談ですよ。
さすがに、初日は持って行きますよ。」

レイ:「はあ…おまえといると、疲れる。
おれ、先に行くから、ついてこいよ?」

バルバッティン:「え、道、教えてくれるんですか?」

レイ:「ああ。行き先一緒なんだから。
ついでだよ。」

バルバッティン:「よかったあ。あなた、いい人ですね。」

レイ:「いい人なんかじゃないよ。
…今日だって、おまえに言われるまで、
目の前の女性に気づいてなかったんだからな。
情けないよ。」

バルバッティン:「本当、あれは、ひどかったですね。」

レイ:「〈大きなため息をついて〉…あのなあ。
おまえ、ちょっと、厳しいぞ。人として。」

バルバッティン:「厳しい…ですか。
『おかしな人』よりはましでしょうか。」

レイ:「『おかしな人』も、『人として厳しい』も、
同じような意味なんだよ。」

バルバッティン:「大丈夫です。わたし、バルバッティンなんで。」

レイ:「は?…なんだって?
…その、なんだそれ?」

バルバッティン:「ええ。
わたし、バルバッティンって呼ばれてまして。」

レイ:「誰に?…なんだよ、そのバル…なんとかって。」

バルバッティン:「誰…ってこともないですけど。
まあ、強いていえば、友人達にでしょうか。」

レイ:「知らねえよ!おまえの通り名なんか。
ってゆうか、そのネーミング、なんなんだ?」

バルバッティン:「まあ、いいじゃないですか。
わたしは、バルバッティン。だから、大丈夫なんです。」

レイ:「おまえ…やばいやつか?」

バルバッティン:「そう見えますか?」

レイ:「いや…そうは見えないんだけど。」

バルバッティン:「じゃあ、いいじゃないですか。
会社まで、連れてってくれるんでしょう?」

レイ:「それは、もう仕方ないことだが。
…会社で気軽に絡んでくんなよ?」

バルバッティン:「さみしいこと言うなあ。
もう、わたしたち、秘密を共有してるのに。」

レイ:「気持ち悪いこと、言うなよ。」

バルバッティン:「だって、わたしは重大な秘密を告白したんですよ?
それ相応に振る舞ってもらわないと。」

レイ:「おまえが勝手にバルバッティンとか
わけわかんないこと、言ってきたんだろう?
知らねえよ、おまえがバルバッティンだろうと、
ボルボットンだろうと。」

バルバッティン:「ボルボットンもご存知なんですか!?」

レイ:「たとえばだよ、たとえば!
ってゆうか、本当にボルボットンなんているのか?」

バルバッティン:「ああ。だめだ。また言ってしまいました。
これで、秘密を告白したのは、二個目です。」

レイ:「いい!もういいよ!
おまえの秘密を勝手に告白してくるな!」

バルバッティン:「あ、ボルボットン…!」

レイ:「え!?」

バルバッティン:「ああ、人違いでした。」

レイ:「びっくりさせんなよ。もう…。」

バルバッティン:「いたらいいなあ…とか、うわさ話なんかしてると、
本人が現れるって言うじゃないですか。」

レイ:「そういうのは、噂をすれば影が差すっていってな。
他人の噂はするもんじゃないって戒め(いましめ)なんだよ。」

バルバッティン:「…じゃあ、あれは…?」

レイ:「なんだよ、まだなにか…」

バルバッティン:「…わあ!かわいい!かわいいなあ!おまえ、どっから来た?」

レイ:「うわあああああ!ちょっと!
お、おまえ、それ!なんだよ!」

バルバッティン:「オオカミですけど?」

レイ:「頼む!!お願いだ!
そいつ、そいつをどっか、やってくれ!!」

バルバッティン:「ええ~いいじゃないですか~。
あんなにもふもふしてるんですよー?
かわいいじゃないですか~。」

レイ:「なんで、そんなもんが出歩いてるんだよ!?」

バルバッティン:「まあ、落ち着いて。
〈オオカミに対して〉こっちおいで~。
怖くないよ~。」

レイ:「怖えよ!!十分に怖えよ!!」

バルバッティン:「え、オオカミとか、ダメな人ですか?
ハイイロオオカミですよ?珍しくないですか?」

レイ:「どうすんだよー!こっち見てるよー!
早くなんとかしろよー!」

バルバッティン:「おなか減ってるのかなあ。
あのう。ぼくお弁当持ってきてないんで。
あなた、なにか、持ってません?」

レイ:「なにも持ってない!なにも持ってないぞ!
断じて、なにも、持ってな…」

バルバッティン:「ああ!お弁当、持ってきてるじゃないですか~。」

レイ:「なに、人のカバン勝手に開けてるんだよー!」

バルバッティン:「いいじゃないですか。
動物愛護です。愛護愛護。
ああ~こっちに来た!」

レイ:「ひぃぃいぃいいいい!やだ!
おまえ!なんとか…、しろ…ぉぉおおお!!」

レイM:
それから、なにがどうなったのか、おれにも、わからない。

おれは、50キロはあろうかと思われる、
そのハイイロオオカミに
真正面から、のしかかられて、
気を失った。

あんなに近くで動物を見たのは、何年ぶりだろう。
迫ってくる牙に、おれの恐怖は頂点に達したのだ。

夢の中で、俺はオオカミの群れの中にいた。
一番強い雄のオオカミが、年老いて、見捨てられていくのを、
白い息を激しくつきながら、
見守っていた。
それは、不思議と、かわいそうだとか、
哀れだとかいった感情にとらわれない、
美しい眺めだった。

気がつくと、そこは、救急車のベッドの上だった。

おれは、動物に嫌われてるんじゃなかったのか?
なんでおれは、オオカミなんかに抱きつかれたのか?
いろいろな謎はあるものの、身体をあちこち眺める限り、
なんとか外傷はないようだった。


バルバッティン:「あ…気がつかれましたか。」

レイ:「ああ…あれ?
どうなったんだ?おれ。」

バルバッティン:「なんとか、無事に捕獲されましたよ。」

レイ:「いや、おれ!おれのことだよ。」

バルバッティン:「ああ…あなたのことですか。
あなたなら、軽い脳しんとうってことでした。
これから、病院に向かうそうですよ。」

レイ:「なんでこんな街なかを、オオカミが歩いてたんだ?」

バルバッティン:「言ったじゃないですか。わたし。
朝の電車の中で。」

レイ:「電車…。
〈大きなため息をついて。〉…はあ。
覚えてねえ…。」

バルバッティン:「脱走事件ですよ。脱走事件。
気になるなあって、言ったじゃないですか。」

レイ:「脱走って、もしかして、動物園のことなのか?」

バルバッティン:「そうですよ?
なんだと思ったんですか?」

レイ:「そりゃ、一回捕まったとか、また逃げ出したとか
聞いたら、脱獄だって思うじゃないか。」

バルバッティン:「噂をすれば、影が差す…か。
その通りになりましたね。」

レイ:「おまえがよけいなこと、…言うからだぞ。」

バルバッティン:「あなたが、よけいなこと言うからですよ。」

レイ:「あのなあ…!
はあ…。もういいや。」

バルバッティン:「ねえ、知ってます?
オオカミって、ネコ目(もく)に属してるんですよ?
飼育員の人が言ってました。」

レイ:「ネコ?犬じゃないのか。」

バルバッティン:「ネコ目(もく)、イヌ科、イヌ属らしいです。」

レイ:「なんだか、ややこしいなあ。
おれ、イヌ苦手なんだよ。
なんか、かわいい見た目してるくせに、
牙をむいた顔が突然エグいじゃないか。」

バルバッティン:「そういうところも、含めて、
かわいいじゃないですか。」

レイ:「肉食なんだろ?
知らない間に、食われてたらどうするんだ。」

バルバッティン:「知らない間にって、それはないでしょう?」

レイ:「とにかく、イヌはだめだ、イヌは。」

バルバッティン:「じゃあ、あれは大きなネコだって思えば…」

レイ:「それじゃ、ライオンだろ?」

バルバッティン:「まあ、そんなに危険視するのも、どうなんですか。
動物園内で飼われてたんですから。
餌は豊富だったでしょうし。」

レイ:「脱走してから、
なにも食ってないかもしれないじゃないか。」

バルバッティン:「だって、あなたが、いよいよ餓死するってときに、
人間から食べようなんて、思います?」

レイ:「そりゃ、おれは人間なんだから、
同種から食べようなんて、思わないさ。」

バルバッティン:「だったら、イヌになったとして。
自分と同等か、それ以上の相手を、
わざわざ戦って食おうと思いますか?」

レイ:「そりゃ、…思わないか。」

バルバッティン:「でしょう?
あなたが犬がきらいなのは、
怖いからじゃない。」

レイ:「怖いさ。怖い。
…ってゆうか、憎い。」

バルバッティン:「え?」

レイ:「いや…いや、べつになんでもない。」

バルバッティン:「…なにか、あったんです?」

レイ:「その…純子が…妻が言うんだ。
犬が飼いたい、犬が飼いたいって。
…さみしいんだとよ。
おれと生活してるのに、さみしいんだと。」

バルバッティン:「そりゃ、まあ、わたしたちの仕事って、
何時に始まって、何時に終わる、
なんてルーティンの仕事じゃないですからね。
奥さんの言うことも、わかります。」

レイ:「だけどさ、早すぎないか?
まだ結婚5年目だぞ。
おれは、もう捨てられるのかって。
こわいんだ。」

バルバッティン:「犬に、奥さん取られるのが、怖いんですね。」

レイ:「…まったく、情けないよな。
情けないって、おまえも思うだろ?」

バルバッティン:「まあ、多少は思います。」

レイ:「きっと、母のように、愛犬ばかりにかまけて、
おれのことなんか二の次。
…みたいな女になるんだろうな。」

バルバッティン:「……お母さん、そんなひとだったんですか。」

レイ:「あーあ。
馬鹿みたいだろ。
この年で、母親持ち出すなんて、
大人げないよな!」

バルバッティン:「そんなことないです。興味深いです。」

レイ:「うそだ。おまえは嘘をついてるな?
真面目な顔しても、わかるんだぞ?
おれのことなんか、興味ないくせに。」

バルバッティン:「…。
なんでそんな、悲しいこと言うんですか。」

レイ:「恥ずかしいからに決まってるだろ。
おふくろの話は、なしな。
聞かなかったことにしてくれ。」

バルバッティン:「まあ、いいじゃないですか。
これで、おあいこです。」

レイ:「おあいこ?なにがだよ。」

バルバッティン:「わたしの通り名。わたしも、
あんなふうに言うはずじゃなかった。」

レイ:「え…?あれって、おまえ、
まだ本気だったのかよ(笑)」

バルバッティン:「わたしは、いつも、本気ですよ?」

レイ:「ふ…はははは!
本当に、おまえは、よくわからんやつだな。」

バルバッティン:「ねえ、お母さんは、たぶん、
言いたいことが、言いたいときに、
上手く言えなかっただけじゃないかな。」

レイ:「え…?」

バルバッティン:「うちじゃ、早期退職した父がね。
テレビに向かってしゃっべってるんです。
楽しそうですよ。
本当に、そこに人がいるんじゃないかってくらい。」

レイ:「ああ、うちの親父も、そうだったっけ。」

バルバッティン:「それと一緒ですよ。だれもそばにいなくなると、
少しでも、熱のあるものに、
理解してもらいたいって思うものじゃないですか?
…ペットとか。テレビとか。炊飯器とか。」

レイ:「炊飯器か…っふ…ははははは!
炊飯器は、ないだろう!」

バルバッティン:「一人暮らしのとき、よくやりませんでした?
寒い夜に帰ってきて、暖房がまだ効いてこないうちに、
炊飯器に手を当てて、『おまえはあったかいな』
って言うようなこと。」

レイ:「しない!しないってゆうか、したことないな!
あはははは!
おまえ、馬鹿じゃないか、本当に。」

バルバッティン:「そんなこと言うんだったら、あなたが
お母さん、怖かったよー!って泣いたことにしますよ?」

レイ:「そんなことしたら、おまえの通り名を…」

バルバッティン:「いいですよ。望むところです。」

レイ:「あのなあ…〈ため息をついて〉はあ…。
頼む。
それだけは、やめてくれ。」

バルバッティン:「ふふふ…。それでよろしい。
さあ、今から、病院に向かいますよ?
あなたが気づいたって、知らせてきます。」

レイ:「病院なんて、そんな大げさな!
おれは、〈起き上がりながら〉
早く、…会社に行かなくちゃ。」

バルバッティン:「だめです。動かないでください。
わたし、ちょっと、言ってくるんで。」

レイM:そういうと、やつは、
救急車の後ろのドアを開けて、出て行った。

はあ…なんなんだよ、今日って日は。
ふと、外を見ると、あたりには、
車のライトがちらつき始めていた。

おれは、どのくらい、気絶していたんだろう。
なんだか、夢のほうがリアルに感じられて、
今こうして救急車に乗っているほうが、
夢なんじゃないかってくらい、現実味がなかった。

なんて、美しい眺めだったんだろう。
あの、オオカミの群れは。
そんなことを思っていると、
ぱっと救急車のドアが開(ひら)いて、
そこには、小さな小さなバルバッティンが、
ウインクしながら、立っていた。

バルバッティン:「なーんてね!びっくりした?
言ったでしょう?わたしは、バルバッティン。

さあ、早く行こう?
もっと広い世界へ、あなたを連れてってあげる。」

おれは、救急隊が離れているすきをついて、
その、小さなバルバッティンを胸ポケットに隠すと、
暮れてゆく街並みを、全速力で、走り出した。

白い息が、リズムよく、わたしを取り巻いて、
まるであの夢の中のよう。

暮れ残る、空は淡く染まり、はぐれ雲だけが、
その行き先を知っているのだった。


END


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?