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バルバッティン『破壊』編

0:1:1台本

レイ♀:
バルバッティン不問:


春がくるのが、憂鬱だった。
矢継ぎ早に行事をこなしていく1月2月3月が、
たまらなく億劫だった。

4月になるのが、怖かった。
新しい年度、新しい季節、新しい人間関係。
そのすべてが我慢できないのだった。
変化していくもの。移ろいゆくもの。消えていくもの。
全部に、「置いてかないで」って言いたかった。
わたしを置いていかないで。

明け方、目が覚めると白々と空が明るいのも、
近所の公園が花々で色づき始めるのも、
コンビニの棚からイベントの告知がなくなるのも、
なんだか悲しい気持ちになった。

わたしは、こんな弱い女だっただろうか。
いつからだろう?
新しい服を買わなくなったのは。
今期の流行(はやり)を追わなくなったのは。
おばさんになったのは。
いつからだろう?
夫と肌を重ねなくなったのは。
盛りを過ぎたなんて、簡単に片付けないで。
勝手にわたしを通り過ぎていかないで。

バルバッティン「こんにちは~いらっしゃいますか~?」

レイ:「は~い?今、行きます。」

バルバッティン:「あのー、ちょっとだけ、お時間いいですか?」

レイ:「はい…。かまいませんけど。」

バルバッティン:「わたし、隣に引っ越してきた者なんですけど。」

レイ:「え、そうなんですか!あ、すいません、気がつかなくて。」

バルバッティン:「いえいえ、突然お邪魔してはご迷惑かと思ったんですが
これ、引っ越し蕎麦と、ちょっとした気持ちです。」

レイ:「ええ~いいんですか?なんか…悪いですね。」

バルバッティン:「いえいえ、たいしたものじゃないんです。」

レイ:「あの。よかったら、お茶でもって言いたいところなんですけど、
散らかってまして。」

バルバッティン「あ、そうなんですね。すいません、お忙しいときに。
ご主人様は、ご在宅ですか?」

レイ:「主人は…ちょっと今留守をしてまして。
後日改めてご挨拶に。」

バルバッティン:「そうですか。同じ会社の社宅仲間、
がんばっていきましょうね。」

レイ:「はい。ぜひ今後とも、よろしくお願いします。」

バルバッティン:「あの…引っ越して来てそうそう、
こんなこと聞くのもどうかと思うんですが、
303に住んでらっしゃる方って、どんな方なのかなあって。」

レイ:「ああ、…潮谷(しおたに)さんですか?いい方ですよ?」

バルバッティン:「そうですか…?だったら、気のせいかなあ…。」

レイ:「なにか…あったんですか?」

バルバッティン:「なんだか慌てて荷造りされてるみたいだったから。
もしかして、入れ違いに引っ越しされるのかな~なんて。」

レイ:「そんな話は、なにも聞いてませんけどねえ。」

バルバッティン:「まあ、大きな家具をただ捨てただけかもしれませんからね。
わたしもよくわかんないんです。」

レイ:「潮谷さん、お会いになられました?」

バルバッティン:「いえ、それがまだなんです。
今朝お伺いしたときは、中で物音がしたような気がしたんですが、
出てこられなかったんで。」

レイ:「今朝、物音が?」

バルバッティン:「ええ。今日は日曜日でしょう?
もしかしたら、まだ眠ってらっしゃったのかも。」

レイ:「そうですか。わたしも、さっきまで寝てたんで、
人のこと言えませんが。」

バルバッティン:「ふふふふ…どこも日曜日は一緒ですね。」

レイ:「あなた、これから、他も回られるんですか?」

バルバッティン:「ええ。とりあえず同じ階を一通り回ってみようかと。」

レイ:「大変ですね。社宅は人間関係大事ですからね。」

バルバッティン:「そうなんですよー。
わたしはまだ独り身だからいいですけど、
家族ぐるみのお付き合いになったら、いろいろあるでしょうね。」

レイ:「ええまあ。いろいろありますよ。」

バルバッティン:「あれ?奥さん、ここ、なにかついていますよ?」

レイ:「え…?」

バルバッティン:「ほら、エプロンに、赤いのが。どうしたんですか?」

レイ:「え…ああ、これですか、なんでもないんです。」

バルバッティン:「それ…もしかして血ですか?」

レイ:「まさか。ほんと、気にしないでください。」

バルバッティン:「それ、…血ですよね?けがされたんですか?」

レイ:「いや、ほんと、なんでもないんです。」

バルバッティン:「ちょっと見せてください。」

レイ:「いや、これは、ほんと、不注意で。」

バルバッティン:「あーあ、指が切れてますよ。どうしたんですか。」

レイ:「ほんとやめてください!」

バルバッティン:「包み、開けてください。」

レイ「え…?」

バルバッティン:「さっきわたしがあげた、包みですよ。」

レイ:「お蕎麦と…これ、なんですか?」

バルバッティン:「絆創膏です。」

レイ:「は?」

バルバッティン:「一家にひとつ、あったら便利かな~って。
あったら安心かな~って。」

レイ:「でも、なんでこんな、…なにかあなた知ってるんですか?」

バルバッティン:「なにも知りはしないですよ。」

レイ:「じゃあ、この絆創膏、ありがたく使わせてもらいます…。」

バルバッティン:「その手じゃ、ひとりでは無理ですよ。
傷口も洗わないと。(靴を脱ぎながら)
ちょっとお邪魔しますよ。」

レイ:「あ、ちょっと勝手に上がらないでください!」

バルバッティン:「しーっ!まだお隣さん、寝てるかもしれませんよ。」

レイ:「(声をひそめて)そんな、あなた、なんなんです?」

バルバッティン:「わたしですか?ただのバルバッティンですよ。」

レイ:「はあ?なに…その…え?何語ですか、それ。」

バルバッティン:「何語ってことじゃないんです。
わたしは、バルバッティン。やりたいようにしますよ。」

レイ:「いや、困るんですよ、勝手に上がってもらっちゃ。」

部屋の中は壊れた家具や装飾品が散乱している。

バルバッティン:「…へえ~。これはこれは、派手にやらかしましたね。」

レイ:「あの…これは…。もう!
人の家の事情なんて、どうだっていいでしょう?」

バルバッティン:「いいわけないじゃないですか。わたし、お節介なんで。」

レイ:「ほんと、余計なお世話なんですよ!」

バルバッティン:「ほら、そこ、ガラスの破片だらけです。危ないですよ。」

レイ:「聞いてます?人の話、聞いてます?」

バルバッティン:「まあまあ、そう興奮しないで。落ち着きましょう。」

レイ:「あなたのせいですよ!あなたが勝手に入ってくるから!」

バルバッティン:「大丈夫。わたし、だれにも言いませんから。」

レイ:「…ほんと、こんなつもりじゃなかったのに…!」

バルバッティン「わたしもそんなつもりじゃありませんよ。」

レイ:「じゃあ、なんで見て見ぬふりしてくれないんですか!」

バルバッティン:「だって、あなた、とても痛そうでしたから。」

レイ:「痛いって…こんな傷、たいしたことないでしょ。」

バルバッティン:「いや、こころが。」

レイ:「はあ?」

バルバッティン:「こころが、なんだか、痛そうだな~って、思ったんです。」

レイ:「そ…そんなの、あなたには関係ないでしょ。」

バルバッティン:「関係あるんです。わたし。」

レイ:「どう関係あるっていうんですか!」

バルバッティン:「(ぼそっと)夢見が悪いんですよ。」

レイ:「え…なに?よく聞こえなかったんだけど。」

バルバッティン:「いやね、こういうの、見逃しちゃうと、夢見が悪いんです。」

レイ:「いや…知りませんよ。あなたの夢の話とか。」

バルバッティン:「あなたは知らないかもしれませんが、
わたしにとっては大事なことなんです。」

レイ:「おかしな人。…ってゆうか、もしかして、わたしのほうが危ない人に見えてません?」

バルバッティン:「なにがあったか、当てましょうか?」

レイ:「あなた、霊能力者かなんかですか?」

バルバッティン:「みたいに聞こえるでしょう?
今みたいに言うと、だいたいそういう反応返ってくるんですよ。」

レイ:「…おもしろがってます?」

バルバッティン:「あなたは、きっときちんとした人だって、思ったんです。
あるいは、きちんとしたい人なんだって。」

レイ:「…どうして?」

バルバッティン:「だって、日曜の午前中に、
突然訪ねてきても、ドアを開けてくれる。
そういう、周りからの目を大事にしてる人なんだろうな~って。」

レイ:「そりゃ、社宅ですよ?
変な噂立てられたら、たまりませんから。」

バルバッティン:「だから、家の中を破壊して、うっぷん晴らしてたんですか?」

レイ:「そう…言葉に出されると、
すごくわたし、馬鹿みたいじゃない。」

バルバッティン:「そんなことないです。
うっぷんは、どっかで晴らすべきです。」

レイ:「…ああもう!…そうですよ!
わたしはモノに八つ当たりして、すっきりしたかったんです!」

バルバッティン:「こんなになるまで、壊しちゃって、
旦那さんに怒られないんですか?」

レイ:「あの人が…怒る?怒ってくれるほど、優しくないわよ…。」

バルバッティン:「ほう…。それは悲しいですね。」

レイ:「だってあの人には優しい『彼女』がいるらしいですから?」

バルバッティン:「彼女…?」

レイ:「そうよ、わたしより若くて、わたしより美人で、
わたしより気の利いた彼女は
三軒隣に住んでますよ!!」

バルバッティン:「…それって、まさか?」

レイ:「不倫ですよ…!不倫!社内不倫。」

バルバッティン:「そうだったんですか。三軒隣って、潮谷さん?」

レイ:「そうですよ。よりにもよって、
上司の奥さんと出来てるなんて、思わないじゃない?
あんまりじゃない?」

バルバッティン:「それで、この有様ですか…。
なんだか、ドラマみたい。」

レイ:「人ごとだと思って。
あなた、やっぱりおもしろがってる。」

バルバッティン:「面白くはないですよ。とても可哀想だなって思っちゃいます。」

レイ:「…可哀想か。そんなふうに思われたくないから、今まで我慢してきたのにな…。」

バルバッティン:「可哀想なのは、潮谷さんもなのです。」

レイ:「…はあああ!?」

バルバッティン:「まあ、落ち着いてください。
潮谷さんだって、たぶん、一緒ですよ。」

レイ:「わたしとあの女を一緒にしないでもらえます!?」

バルバッティン:「一緒っていうのは、同じ気持ちってわけじゃないんです。
たぶん、同じことになってるんだろうなって。」

レイ:「どういうことよ?」

バルバッティン:「修羅場だったんじゃないですか?」

レイ:「なにか、知ってるの?」

バルバッティン:「うーん。わたしが見たのは、奥さんが、旦那さんに、家から追い出されるところかな。」

レイ:「え…なにそれ。」

バルバッティン:「きっと、潮谷さんちも、修羅場だったんじゃないですか。」

レイ:「っふ、あはははは!ざまあみろだわ!あの女、追い出されたんだ?」

バルバッティン:「あなたも旦那さん、追い出したんですか?」

レイ:「追い出さなくても、あの人、黙って出て行ったわよ。」

バルバッティン:「これから、どうするんですか?」

レイ:「さあね。…ここをどうやって片付けようって、思ってたところ。」

バルバッティン:「片付ける?そんなことしてなんになるんです?」

レイ:「だって…割れるものはたいがい割ってしまったし、
ソファは切り裂いちゃったし、椅子は壊してしまったし。どうしよう?」

バルバッティン:「あれ…?なんでこの鏡は割ってないんですか?」

レイ:「鏡か…気づかなかったわ。」

バルバッティン:「どうせなら、やっちゃいません?」

レイ:「はあ?」

バルバッティン:「こんな機会めったにないですよ?
こんな滅茶苦茶になった部屋、わたし見たことないんで、
ちょっとわくわくしちゃいます。」

レイ:「わくわく?なに言ってんの?わたしの家ですよ?」

バルバッティン:「あなたの家だけど、あなたがいなくてもいいんですよ。」

レイ:「もうわからなくなってきた…あなた、なにが言いたいんです?」

バルバッティン:「あのね、そんな旦那さん、
待ってないで、出て行くんですよ。」

レイ:「なんでわたしが出て行かなきゃいけないのよ!」

バルバッティン:「だって、ここ社宅でしょう?旦那さんの会社の。」

レイ:「そりゃ、…まあ、そうですけど?」

バルバッティン:「こんな狭い世界に集中してるから、いけないんですよ。
あなたが、いつもかいがいしく待ってるから、
旦那さん、調子に乗っちゃうんですよ。」

レイ:「…そう、なのかな。」

バルバッティン:「そういうものです。
絶対に、旦那さんは、一度戻ってきます。
戻ってきたとき、びっくりするような家にしちゃいましょうよ。」

レイ:「…これ以上、どうしたらいいの?」

バルバッティン:「…そう、ですねえ。
まず、そこの鏡、割ってみませんか。」

レイ:「割れるもの…まだ、あったんだ。」

バルバッティン:「ありますよ。ほら、玄関にも、鏡ありましたよね。」

レイ:「鏡、か。」

バルバッティン:「鏡という鏡を、とりあえず全部割ってしまいませんか?」

レイ:「っふ、ふふふふふ!あなた、やっぱりおかしい!」

バルバッティン:「おかしいですか?
なんだか、鏡って、すごく女性的だなあって思って。」

レイ:「女性的…かあ。そうかもしれない。」

バルバッティン:「この家に入ったとき、思ったんです。
すごく、女性が作り上げた世界だなって。」

レイ:「だって、昼間はあの人仕事でいないし、
夜は帰ってきてただ寝るだけ。
結局、わたしが暮らしやすいように作っちゃったのかも。」

バルバッティン:「そうですね。生活を作るって意味では、
主婦ってすごく想像力ありますよね。」

レイ:「そんな変な目線で褒められても…。」

バルバッティン:「ねえ、鏡を割ると、どうなるか、知ってます?」

レイ:「不吉なことが起きる…でしたっけ。」

バルバッティン:「そういう意味もありますが、わたしが好きな解釈は、
自分の身代わりになってくれるってほうです。」

レイ:「ああ、そういう意味もありますね。」

バルバッティン:「さあ。どうせここまで滅茶苦茶になったんです。
その全部を背負ってもらいましょうよ、鏡に。」

レイ:「ふふふ…それも、いいかもね。」

バルバッティン:「その意気ですよ!やっちゃいましょう!」


わたしは、玄関で夫のゴルフクラブを手に取ると、家の中を見渡した。

鏡がたくさんある家に暮らしていたんだな。

玄関には細やかなビーズの縁取りのある壁掛け用鏡。

雑然とした机の上の飾り気のない卓上ミラーが3つ4つ。

洗面台の曇りひとつない大きな鏡。

そしてお風呂場の壁一面にも防湿ミラー。

寝室には白粉(おしろい)の香りのする三面鏡。

洋服箪笥に作り付けられた姿見用。

もう一つ、木彫りの外枠が魅力的な
スタンドタイプの姿見用。

そして二十歳のお祝いにもらった金の手鏡セット。

わたしは、玄関の壁に向かって笑いかけ、
机に頬杖をついてしかめ面、
洗面台の前で泣き、
姿見にはポーズを決めて、
三面鏡で寝癖を直し、
金の鏡でルージュを直した。

それが、当たり前の日々だと思ってた。

今日、それをひとつひとつ割って歩くまでは。

ゴルフクラブで割れない鏡には、台所のアイスピックを持ち出した。

滅茶苦茶に暴れているわたしが、鏡に映っては笑い出す。

笑ったと思ったら、そこにヒビが入って崩れ落ちてゆく。

そしてそのすべてが、スローモーションで過ぎ去っていく。

部屋の隅に、知らない他人が
ニヤニヤしながらこっちを見ていることだけ、

頭の隅っこに置いておいたはずなのに、

わたしは、我を忘れるって、こうこうことかって、

なんだか爽快感すら覚えるのだった。


バルバッティン:「ねえ、気が済んだ?」

レイ:「はあ…はあ…、気が…、すん、…だ!!」

バルバッティン:「すごいねえ!鏡が割れる瞬間って、
とってもドラマチック!」

レイ:「ふふ…ふふふふふ!あーすっきりした!」

バルバッティン:「これでもう、だれもあなたを見ていない。あなた以外は。」

レイ:「ん?あなたがいるでしょう?」

バルバッティン:「わたしはバルバッティン。数に入らないのですよ。」

レイ:「…バル…バルバッティン?
…そうね、あなたはバルバッティンなのかもしれないわ。
こんなに誰かの前で暴れたのなんか、初めて!」

バルバッティン:「それは、光栄に思います。」

レイ:「ねえ、この後は?どうする?火でもつけてやりましょうか。」

バルバッティン:「迷惑をかけるのは、やめときましょう。」

レイ:「だって、わたし、今ならなんでも出来る気がするのよ。」

バルバッティン:「じゃあ、まず、自分を見てください。」

レイ:「自分を…?」

バルバッティン:「そう、自分を、自分で見てみてください。」

レイ:「わたし、…そうね、けがしてたんだったわ。」

バルバッティン:「あと、ひどい顔してますよ。」

レイ:「うそ…どんな顔?」

バルバッティン:「(変な顔をしながら)こんな顔。」

レイ:「そんな顔してませんよ!」

バルバッティン:「ねえ、鏡のなくなった部屋で、自分を確かめるには、
どうすればいいのでしょう?」

レイ:「あなたが言ったんでしょう?鏡割っちゃいましょうって。」

バルバッティン:「困りますよね。鏡がないと。」

レイ:「突然なに言い出すんですか。。
わたしは、やってよかったって思いますけど?」

バルバッティン:「わたしもやってよかったとは、思ってますよ。」

レイ:「じゃあなんで鏡がないと困るんですか。」

バルバッティン:「だって、あなたをここから連れ出さなきゃいけないでしょう?」

レイ:「…?連れ出す?なぜ?」

バルバッティン:「だって、こんなところにあなたを一人残して行けませんから。」

レイ:「あなたって、ときどきびっくりすること言すよね。」

バルバッティン:「あなたのほうこそ。」

レイ:「わたし、あなたがここに来るまで、なにをしていたのか、
今は思い出せないくらいよ。」

バルバッティン:「そう、そういうとこです。
あなただって、そうやってわたしを
びっくりさせてるじゃないですか。」

レイ:「っふ、ふふふふふふ!おかしな人ね、やっぱり。」

バルバッティン:「だから、わたしはバルバッティンなんですって。」

レイ:「そうかそうか、バルバッティンのあなた、好きよ。」

バルバッティン:「そうですか。よかった。あなたに嫌われたらどうしようかって。」

レイ:「…え?」

バルバッティン:「ほら、わたしなんだけどなあ。忘れちゃったのかなあ。」

レイ:「ちょっと、本気でなに言ってるんですか?」

バルバッティン:「まあ、いいじゃないですか。そういう夢を見たんです。」

レイ:「そういえば、夢見がどうとか、言ってましたね。」

バルバッティン:「夢見が悪いと、困るんです。わたし。」

レイ:「不思議な人ね。あなたといると、なんだか、落ち着いてくる。」

バルバッティン:「でしょう?おもしろいでしょう?」

レイ:「変な人。」

バルバッティン:「で、これからどうします?」

レイ:「そうね、わたしは家出の準備でもしようかな。」

バルバッティン:「そうですね。それがいいです。」

レイ:「あなたは、帰っちゃうんですか?」

バルバッティン:「あなたが、ここを出るまで、見守っていますよ。」

そう言うと、バルバッティンと名乗る不思議な人物は、

部屋の中を散策し始めた。

割れた鏡を興味深そうに手に取って眺めている。

わたしは、一番大きなスーツケースを持ちだして、荷造りをした。

そういえば、切れた指からの出血は、いつの間にか、止まっていた。

わたし、ここを出るなんて、思ってもみなかった。

出ることができるなんて、自分を信じられなかった。

だって、変化するのは大嫌いだったんだもの。


バルバッティン:「ねえ、割れた鏡って、きれいですね。」

レイ:「え…?」

バルバッティン:「あなた、部屋の模様替えとか大嫌いでしょう?」

レイ:「ええまあ、そうですけど。」

バルバッティン:「この鏡、割れてきっとせいせいしてますよ。」

レイ:「どうしてそんなこと思うの?」

バルバッティン:「だって、作り付けの鏡や、据え置き型の鏡って、
なんだか、いつも同じものばかり、見せられて、
うんざりしてると思いません?」

レイ:「うんざり…か。」

バルバッティン:「そうですよ。あなたがどんなに悲しくても、
玄関の鏡には、ちょっとすました顔しか見せなかったでしょう?」

レイ:「まあ、出かける前ですから。そうでしょうね。」

バルバッティン:「逆に、洗面台の鏡は、あなたの泣き顔ばかり映してきたんだろうなって。」

レイ:「なんでそんなこと、わかるの?」

バルバッティン:「ちょっとね、今、鏡とおしゃべりしてたんです。」

レイ:「おっと、また不思議発言?」

バルバッティン:「あなたも、潮谷さんも、ひとつの鏡だったんじゃないかな。」

レイ:「…ひとつの鏡?」

バルバッティン:「旦那さんは、きっと、
あなたに見せる顔は潮谷さんに見せなかっただろうし、
潮谷さんだって、旦那さんの一面しか、
見せてもらえなかったんじゃないかな。」

レイ:「そうだとしたら、夫婦って、なんなんでしょうね。」

バルバッティン:「人の孤独に入り込むって、難しいですね。」

レイ:「…あなた、本当に、何者なの?」

バルバッティン:「あなたが望む者、それがわたしです。」

レイ:「…じゃあ、あなたが本当にバルバッティンだったらいいな。」

バルバッティン:「信じてないんですか?」


わたしは、曖昧に笑うと、荷物を持って玄関のドアを開いた。

眩しい春の光に満たさせている外の世界は、限りなく変化していく。

そして、わたしも今日、新しい自分探しの旅にでるのだ。

季節は、わたしの早さに追いつけるかしら。

「ねえ、あなた、あなたとは、ここでお別れね。」

「どうして?」

「だって、あなた、ここで暮らすんでしょう?」

ふと、開いたドアから、玄関の暗がりを振り返ると、

そこには、小さな小さなバルバッティンが、絆創膏を持って立っていた。

「ね、あなたが信じてくれたから、わたしはもうバルバッティン。
連れてってくれるよね?
どこまでも一緒に。」

わたしは、バルバッティンをハンドバックに忍ばせると、

花々の咲き乱れる花壇の前を、意気揚々と通り過ぎていく。

わたしは、もう一度、自分の姿を探しに、旅に出るのだ。

バルバッティンを、道連れにして。

END


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