いる いない のあいだ
サンタクロースを妖怪だと思ってる節がある。だって、トナカイのソリを駆って一夜で世界を巡るとか、でかい図体なのに家の煙突から入ってくるとか妖力としか思えない。
モデルになった聖ニコラウスには申し訳ないけど、私のなかでは天狗・鬼・サンタの並びでしっくりきている。妖怪と思った方が、俄然「いる」気がしくるのはなぜだろう。
北欧ではキリスト教が伝わる前から「ユール」(冬至祭)という太陽の復活を讃える祭りがあって、今もクリスマスをこの名で呼ぶ地域もあるそうだ。火を焚いて生者と亡者が一緒にご馳走を飲み食いし、夜は精霊や魔物による狩猟団ワイルドハントが現れる。「西洋の百鬼夜行」なんて呼ばれているそうじゃないか。やっぱりね。
こんな調子の母に育てられた影響か、いま小6の娘は5歳のときからサンタさんに「お供え」をしてきた。最初は「寒い夜に来てもらって」とねぎらう気持ちから始まった「差し入れ」だったが、チョイスがお供えっぽい。
みかん→湯豆腐→白玉ぜんざい→おにぎり→卵焼き→味噌汁→かっぱ巻(ほら、妖怪でた)。彼女のメニューのこだわりは、温かい、自分の手づくりをお披露目できる、日本の食文化をお伝えできることの3点だ。
今年つくる予定のかっぱ巻は温かくないけど、新海苔を贅沢に使う(彼女は柳川随一の海苔屋さん・成清海苔店の自称アンバサダー)からいいのか。
私と夫はそれを夜中にいただく。冷え切っているけど、こんなものが自分で作れるようになったんだなと味わい深い。
結論から言うと、サンタクロースはいてもいなくてもいい。私が娘と楽しみたいのは、「この世ならぬ存在」がいるかもしれない世界のブレだ。
私の趣味に付き合わされて、鬼が山からおりてくる火祭りだの、あたりが一瞬真っ暗になる「天狗おどし」がおきる神社だの、恐山のイタコだのを訪ねる旅に娘は幼い頃から引っ張り回されてきた。ゆえに(?)彼女は、「いるかもしれないし、いないかもしれない」不思議にちょっと免疫がある。
*
この世ならぬ、で思い出したこと。初めて娘の歯が抜けた6歳のとき、私は自分が子ども頃に読んだお話『ねずみとおうさま』を語って聞かせた。
お母さまが幼い王様に語るこのスペインの昔話が好きだったが、私は冷めた子どもでもあったので、やろうとは思わなかった。でも、もしかしたら、という気持ちは忘れてはいない。今こそ一緒にやるべきじゃないか。
娘は嬉々として手紙らしきものを書き、歯と一緒に封筒に入れて「ねむれない〜」と言いながら落ちた。私は布団から起き出して、謎の筆記体で「いただきました」的なメッセージを書き付け、東欧を旅した時の硬貨と一緒に封筒に入れた。もちろん、歯はそっと取り出して。
翌朝、娘は歓喜した。
「ぺれすねずみが来たよ!!歯がなくなってる!!!」
「ええー!ほんまに!?気づかへんかったなあ。すごいやん。てことは、
あの本みたいに、ぺれすとねずみの国に行ったん?」
「それは覚えてないけど…行ったんかなあ。
これ、お金? お手紙なんて書いてある?」
「わからへんけど、ねずみの国のお金と言葉なんちゃう?」
私も彼女とともに興奮した。封筒に手紙と硬貨を入れたのは私だが、ねずみの国に行ったかどうかは彼女の身に起きたことだから私にもわからない。
あれから5年。いつぞや、娘が大慌てで学校から帰ってきた。
「はあああ〜、よかった……」
「どした?」
「あのね、ぺれすねずみのお金、なくしたと思ったけどあった。
ずっと、お守りにランドセルに入れてたんだよ。よかったあ。」
娘は手紙に包んだ硬貨を両手で挟んで、祈るような仕草を見せた。
ああ、彼女にとって「ぺれすねずみ」はいるんだ。
「いないかもしれない」という疑いをもひっくるめて、
彼女は世界を信じている。
いるかもしれないし、いないかもしれない。
目には見えないけれど、あるかもしれない。
世界は、いる いないに分けられない。
いる いないの輪郭には滲みやたわみがあって
その線は溶けあったり、離れたり。
変容し続ける世界の「あいだ」をこれからも彼女と味わっていくつもりだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?