ブレヒト版『アンティゴネ』の翻訳ノート⑷:第三エペイソディオンと第三スタシモン

第三エペイソディオン

父としての情にすがってアンティゴネの助命を求めるハイモンを嘲るクレオンの言葉

B591-594 Wenn einer freilich freche Kinder zeugte
Von dem könnt nur gesagt sein, daß er Mühe sich
Und viel Gelächter seiner Feinde zeugte. Saures
Ätzt Gaumen, und drum wird's geboten.
T「恥知らずの子供をもったら、/我が身には災難、敵には物笑いの種/辛いものを食べたら口がただれるぞ。/口をただれさせようとでも思っているのか?
「もちろん破廉恥な子供らをもった者は/自ら苦労して敵の物笑いになる/種子を蒔いたと言われるだろう。酸味の強い食物は/口をただれさせるが、余にそれを食わす気なのか。」
K:「確かに、生意気な子を生んだら、自分には苦労の、敵には嘲りの種を生んだとしか言いようがな い。酸は口を焼く。だから用いられるのだ。」

B591-594

クレオンは、助命嘆願に来るような生意気な子は自分には災難で、敵には嘲けりの種になるとして、ハイモンを黙らせようとする。その後の、"Saures / Ätzt Gaumen, und drum wird's geboten." 「酸は口を焼く。だから用いられるのだ」は拷問を暗示し、ハイモンが沈黙するようにとの脅しで、酸を用いる(と脅す)のはクレオンである。食べ物ではないし、ハイモンが用いるのでもない。C: "Sour things / Sear the palate. So they are necessary." M: "The bitter / pill cures. That's why it's prescribed."
それに対するハイモンの応答。

B595-600 Wenn etwa du liebst
Gerüchte lieblich immer zu hören, nicht
Mühe zu sehr dich mit Aufwand : löse
Gleich wie ein nicht mehr steuernder Mann das Segel und treibe !
Furchtbar ist dein Name dem Volke. So, auch wenn Großes
Aufflammt, Kleines würde dir zugetragen doch höchstens.
T 「もしあなたが、/いつも喜んで人の言うことをお聞きになれば、/無駄な苦労はしないですみます。/舵をとるのをやめた船乗りのように/帆をたたんで、潮の流れにまかせて下さい!/あなたの名は、国民に恐れられております。/それ故、たとえ大変なことがおこっても、/あなたのお耳に入るのは、せいぜい小さなことばかり。」
「もし父上が好んで/つねに民の声に耳を傾けるようになさるなら、/夥しい労苦を省くことがおできです。もう/舵を操ることをやめた船人のように帆をひもどき、流れに身をお任せください!/あなたの名は国民の恐怖の的になっています。そこで大きな事件が/起こった場合ですら父上の耳にはせいぜい小さなこととして報告されるだけ。」
K: 「耳あたりの良いことだけを聞くのが良いのなら、そんなに 手間をかけて苦労する必要はないのです。舵取りをやめた水夫のように帆を畳んで漂えば良い 。 民には父上の名前は恐ろしい。だから、大きな火の手が上がっても、伝わるのはせいぜいボヤだと いう報告です。」

B595-600

大勢の人間を支配するクレオンが「人の言うことを聞けば」「苦労は少ない」。潮の流れに任せれば良い。クレオンは恐れられているので、大事が起きても、「耳に入るのは小さなことばかり」になると。何を言っているのかちょっとわからないのは、前件を「いつも喜んで人の言うことを聞けば」「民の声に耳を傾ければ」と捉えているから。そうではなく、「耳あたりの良いことだけを聞くのが好きなのなら」だとすると、ハイモンの理屈はわかる。C: "If what you like Is only listening to what you like to hear" 恐怖で支配しているのだから、放っておけば、人は耳あたりの良いことだけを語ってくれるのであると。大事件が起きても、耳障りにならないよう、些事として伝わるだろう。aufflammenという言葉があるので火事の比喩だろう。
でも身内であり、クレオン同様に残酷なメガレウスではなく、ハイモンが街の声をクレオンに届ける場合は事情が変わってくる。

ハイモンの台詞の続き

B601-605 
Doch ist's ein Vorteilhaftes bei Verwandtschaft
Daß alles so nicht nach Verdienst geht. Manche Schuld
Wird gar nicht eingefordert; und so können wir Von Anverwandten manchmal Wahres hören Weil wir, erzürnt, uns mäßigen für sie.
T「でも血縁というのはありがたいもの、損得なんぞ考えないからです/多少の罪も見逃してもらえる。/ 一時は腹を立ててもそのうち和んでしまう。/だから往々にして、血筋のものから真実を聞くことができるのです」
I「しかし血縁のものには、信賞必罰が/行なわれていないことを直言できる利点があります。多少の罪は/目をつぶってもらえます。身内のあ
いだでは/激怒しても怒りを抑えることがあるから、/真実を聞くこともできるのです。」
K「でも身内がいて得なのは、欲得ずくで動いてはいないということです。大きな借金でも取り立てはしない。だからこそ私たちはしばしば、親戚から真実を聞くことが出来る。怒っていても、親戚に対しては抑えることが出来るのですから。」

B601-605

manche Schuldはeingefordertとの関係でいうと、「罪を見逃す」ではなく「大きな借金 でも取り立てはしない。」という意味じゃないかしら(単数形だけれど)。「罪」だと直前の「欲得づく」で動かないこととうまく合わない気がする。Cは"Many a debt/ Is never called in" で負債。Mは"many faults are readily forgiven" でMは「過失」や「失敗」。怒っていても抑えることができるのが身内だから、本当のことを言っても許して欲しいという含意。
そう前置きしてハイモンが告げる「真実」は、「お聞きください。国 には不満が渦巻いています。」(B609) 

それに対するクレオンの応答

B611-616 Der unbestimmt ist
Und sich nicht kennt, noch findet, auch
Uneins noch im Verdruß, des Zinsens einer
Ein anderer des Kriegsdiensts überdrüssig
Gehalten beide aber unter mir und auseinander
Durch meine Speermacht.
「ふらふら腰で、身のほど知らず、/自分というものを持たぬ者、/あるいはてんでんばらばらに、/税か重いとか、兵役がいやだとか不平をもらす輩、/そんな奴らはわしがひっとらえて、
槍で引き裂いてやる。」
「優柔不断な者/己れを知らず立場も見つけられず/それぞれ違った不平不満を抱く者/ある者は税が重いといい/ある者は兵役を嫌うが/こんな者どもはすべて余のもとに引き据え余の槍の力で/ばらばらにしてやる。」
K「覚悟がなく身の程も弁え ず、税が嫌だとか兵役が嫌だとか、それぞれ勝手な不満のうちには国の分裂すら潜んでいることも 分からぬ輩、そいつらがまとまることなく儂に従っておるのは儂の槍のおかげだ」

B611-616

「わしがひっとらえて槍で引き裂いてやる」「世の槍の力でばらばらにしてやる」というクレオンの意志の表現ではなく、「儂の槍のおかげでばらばらなのだ」という現状の認識の表現だと思う。
前半は解釈の問題になるけれど、Der unbestimmt ist / Und sich nicht kennt,までは、どちらの訳も良いと思う。その後の noch findet が分かりにくい。両訳ともsichを目的語と捉えた。私は、findet の目的語をUneinsであるかのように訳した。コンマがあるので無理かも。
C: "Who are not definite / Who are unknown to one another, never meet; and even /In their grievances are not united, being sick of taxes these / And those of serving in the war/ And all held under me and held apart / By the power of my spear."「どっちつかずでお互い同士を知らず、出会わず、あるものは税を、あるものは兵役を嫌うが、その不平においても団結しない連中、やつらすべてがばらばらのまま儂に従うのは我が槍の力のおかげである」はfinden sichと捉え、meetと訳した。
M: "The uncommitted man / who doesn't know his mind tastes dissent/ in every small annoyance. One complains of taxes, / another wants to end conscription; / but I keep them both separated and in my power / because I have the weapons" の"tastes dissents in every small annoyance" 「自分の心を知らぬ覚悟なき人間はあらゆる小さな不満のうちに不和をかぎ取る」はfindetの目的語を私と同じように理解するが、noch findet auch Unseins im Verdruß を肯定文として捉える。でもこのnochはnicht A noch Bで「AでもBでもない」ではないかしら。

続くクレオンの言葉:

B616-620 Doch wenn
Da Lücken sind und auch die Herrschaft uneins Erscheint und schwankt und unbestimmt wird, dann
Find't sich der Kiesel zum Geröll und drückt
Sich an das Haus, das selbst sich aufgab.
T:「だが、支配者一族のどこかにすきができて、/支配が乱れ、よろめき、ぐらつきだしたら最後、/小さな石も大きくなって、ついにはわが,身を捨てたこの家全体を、押しつぶすのだ。」
I:「しかしもし支配する側に不和があって隙間ができ、弱体で優柔不断なところを見せてしまうと、/小石も転がり出して山崩れとなり、そして/自壊した家を押し潰してしまう。」
K:「綻びができて支配が乱れて見え、弱まり不確かになったら、その時にはさざれ石が巌となりて、委ねられた家を押 しつぶすことになる。」

B616-620

「我が身を捨てたこの家」「自壊した家」はどこなのか。自壊した家が潰されるとして、それほど大きな問題なのかしら。
この「家」がアルゴスだと考えれば、折角降伏したアルゴスがテバイの内部分裂のおかげで押し潰される、という比喩かしらね。selbst sich ausgabした家がテバイだとしたら、クレオンに「委ねられた家を」の意味かな。
C: "then The pebbles gather and become a slide and press Against the house that let itself go." 
M: "it threatens the house that's already surrendered." 

その直後、クレオンはハイモンに進言を許す。

B621-622
Doch ich hör den, den ich erzeugt und den ich
Der Speere Stürmen , vorgestellt, den Sohn
T: 「さあ、言ってみろ。わしが生んで、わが軍が誇る槍隊の隊長にしてやった、/そのわが息子の言うごとなら、聞こうじゃないか。」
I: 「喋るがいい 余が生んでやり、槍隊の隊長にもしてやった/息子の言い草を聞いてみるとしよう」
K: 「だが話せ、聞いてやろう。儂が生み、槍兵突撃隊の先頭に立たせてやった息子の言葉だ」

B621-622

Stürmeをブレヒトは五箇所で用いている。3回はハイモンに関するもの。ハイモンは"Der Stpeere Stürmen" (B621)の指揮官とされる。また、"die Stürme der Speere/ Hier dir führt"「こちらであなたのために突撃槍部隊を率いる」(B1039)から、ハイモンの部隊がアルゴス侵攻軍ではなくテバイ守備部隊であることがわかる。ハイモンは、B1230-31では、"Hämon, welchen der Vater/ Vor die rettenden Stürme gestellt hat"「救助のStürmeを父親が委ねたハイモン」と呼ばれる。他方、アルゴスに攻め入ったメガレウスの部隊については、伝令が、"Die Stürme, von dem Blutbad in den eignene Reihn noch nicht ausgeschlafen: 「我がStürmeは、自 軍での血の海を眠りで忘れることもできぬまま」(B1130)と語る。メガレウスの死を聞いたのちに、クレオンはコロスに"Sammle die Stürme!"(Stürmeを集めろ!)(B1167) と怒鳴りつけられ、「ないものを集めろだと!ザルで掬うのか!」と怒鳴り返す。
Sturmは、ナチスの突撃隊Sturmabteilungの意味も持つが、アンティゴネでアルゴス攻撃のイメージがのちにスターリングラード市街戦と大きく重ねられていることは、ここのStürmeに、市街戦のためにナチスが組織した「突撃工兵部隊(Stürmepionieren)」のイメージが重ねられていることを示唆する。die Stürm der Speere はそうすると、「突撃槍兵部隊」とするのが適切かしら。岩淵訳は一度「突撃隊」(B1130)という言葉を用いるが、谷川訳は用いない。

ハイモンはクレオンに、もっと民衆の言うことを気にするようにとの諫言する。その中の二つの比喩はソフォクレス(S712-717)のヘルダーリン訳をほぼそのまま用いる。
一つ目

B657-660
Sieh, wie am Regenbache, der vorbeistürzt
Die Bäume all ausweichen, allen denen
Erwärmet ihr Gezweig; die aber gegenstreben
Sind gleich hin.
T:「大雨のあとの濁流に洗われる木は、/流れにまかせて若い枝を守ります。/だがあえて流れに逆らえば、/すぐに根こそぎにされる。」
I: 「大雨で大地に激流のような水が流れると/すベ
ての木々はそれを避け、枝々が/そういう木々を保ってくれる、しかし流れに抗う木は/根こそぎ流されてしまう。」
K:「ご覧ください、雨で膨れた川が傍らを勢 いよく流れてゆく時、撓む木を枝が暖かく守ってくれますが、抗うならば直ちに倒れてしまいま す。」

B657-6660

ソフォクレスではὅσα δένδρων ὑπείκει, κλῶνας ὡς ἐκσῴζεται. 「木々のうち撓むものは、自らのために枝を守る」(S712-713)だが、ヘルダーリン/ブレヒトはallen denen erwärmet ihr  Gezweig とGezweigを主語にしてerwärmen(暖める)という動詞を用いている。難解。岩淵訳が良いかしら。私ここ間違えて「木が枝を」にしてた。
Constantineの英訳 "The trees give way, and all of those / Leaf up warmly"は「暖かく葉を出す」かしら。

二つ目の比喩

B660-663 Weiter, wenn ein habhaft Schiff
Sich breit macht und nicht weichen will in etwas :
Rücklings hinunter von den Ruderbänken ,
Muß das zuletzt den Weg und gehet scheitern.
T: 「荷物を山ほど積んだ船は、/帆を精一杯はってがむしゃらにつき進めば、/艫のほうからひっくり返って、ついには難破してしまいます。」
I: 
「それにまた性能のよい船は/帆にいっばい風をはらみまっしぐらに突進すれば、/最後には漕ぐカで船はひっくり返り/難破することになってしまいます。」
K:「積荷を満載した船が帆をきつく張って決して緩めないならどうなりましょう? 転覆して漕ぎ手の席を下に旅を続け最後は難破するしかないでしょう。」

B660-663

帆をいっぱい張って突進したら「艫からひっくり返る」のも、「漕ぐ力でひっくり返る」のも、なぜかよくわからない。breit machtは帆をいっぱい張る比喩だとして、nicht weichen will in etwas 「決して譲ろうとしない」は帆を決して緩めようとしないという比喩で、Rücklings hinunter von den Ruderbänkenは、「漕手席を下にひっくり返って」というニュアンスかしらね。ソフォクレスではὑπτίοις κάτω στρέψας τὸ λοιπὸν σέλμασιν ναυτίλλεται.「漕手席を下にひっくり返って残りの航海を続ける」だが、τὸ λοιπόν に難破のニュアンスが込められているとJebb (1900: 134)は指摘している。

B667-668
K:
Und den Gäulelenker
Lenk das Gespann! Das willst du wohl?
I 「では馬車の馭者に/車の行く方までまかせろというのか! そう言いたいらしいな?」

これは谷川訳は私と同じ理解なので省略。馭者に車の行く方までまかせるのは当たり前なので面白かった。「さすれば馬が馭者を馭すわ、それが望みか?」
それへのハイモンの言葉。

B669-673 Und das Gespann
Wenn in die Nüstern ihm vom Aase ein Geruch schlägt
Schindanger-her, könnt sich aufbäumen wundernd
Wohin's getrieben, also scharf getrieben
Und in den Abgrund wirft es sich mit Rad und Lenker.
「戦場という皮剥ぎ場から腐肉のにおいが流れてくれば、/どこへ連れていかれるのかと、馬だってためらいます/それを無理に鞭打てば、棒立ちになるかもしれません。/馬車、駁者もろとも断崖にとびこんでしまうでしょう。」
「馬車を牽く馬でさえ/戦場という皮剥ぎ場から流れて来る腐肉の臭いが/鼻を打てば、どこへ向
かわされるのかを訝しんで/無理に駆りたてれば棒立ちになり/車も馭者ももろともに深淵に落ちていきます」
K:「車を引く馬も、動物の皮剥ぎ場から腐った肉の臭いが鼻をつけば、どこへ向かわされるかと疑い 棒立ちになるかもしれません 。それを激しく駆り立てれば、車も御者も道連れに断崖に飛び込ん でしまいます。」

B669-673

不平分子への苛酷な刑罰への不安の比喩だから、「皮剥ぎ場」に「戦場という」を付け加えるのは原文とは異なる補足になると思う。「棒立ちになるsich aufbäumen」のは「無理に駆り立てる」前なのに、両訳とも後にしている。匂いを嗅ぎつけて不安になって棒立ちになる→無理に鞭打つ→断崖に飛び込むという順序。

クレオンがハイモンに、アンティゴネのことは忘れるよう求める言葉。

B689-693 Doch du Könntest du nicht, wenn ich dich bät Vergessen die, um die du dich so aussetz'st Daß alle, die mir übelwollen, raunen:
Der, scheint's, ist von dem Weib ein Waffenbruder.
T:「だがお前なら、わしが頼んだら、/あの女のことを忘れられるのではないか。/あの女のために、お前は身を危険にさらしているのだ。/そのせいで、わしに悪意をもつ者どもがささやくのだ、/こいつはあの女の味方らしいと。」
I: 「だが若いおまえなら/余が懇願すればおまえが危険をおかしてまで救おうとている/あの女を忘れられるかな。/余に悪意を抱く者はみな噂している、どうやら/おまえがあの女の同志らしいとな。」
K:「だが、お前は、儂が頼んだら、あの女を、儂に悪意を抱 くものがみなこそこそと、「こいつはあの女の戦友らしい」と言うほど露骨にお前が入れ込んでいるあれを忘れることはできんか?」

B689-693

ここでハイモンは「身を危険に晒している」状況にいるわけではない。aussetzestは「晒す」というか、「あからさまに示す」かしら。C: "for whose sake you have gone so far out" M: "whom you're defending"

それに対するハイモンの応答。

B694-698
H: 
Ich bin's dem Recht, wo sich's auch weist.
K: Und wo's ein Loch hat.
H: Auch beleidigt schweigt nicht
Mir meine Sorg für dich.
K: Noch blieb' dein Bett dir leer.
Tハ:私は、正しいものに味方するのです。/ク:穴があるものにな。/ハ:何と言われましても、父上のためにこそ、心配せずにはいられないのです。ク:自分のベッドのためにこそ、/心配せずにはいられないのです、だろう?」
Iハ:正しいとわかったことには味方します。/ク:欠陥だとわかったことにだ。/ハ:侮辱なさっても私の父上を憂うる/発言はとめられませんよ。/ク:おまえのベッドの相手も決まっていないしな。」
K:ハ:私は正しさが示されている側にいます。 ク:穴がついてる側にな。 ハ:侮辱されても黙りません。父上が心配なのです。 ク:それでもお前の閨は空だぞ。」

B694-698

「正しい側に味方する」に対して「穴のついてる側」と返すのは性的な当て擦り。「父上が心配なのです」に対する、"Noch blieb' dein Bett dir leer"「それでもお前の閨は空だ」は、相手が決まっていないことではなく、相手(アンティゴネ)を殺すという揶揄。ソフォクレスは男女のヒエラルキーを『アンティゴネ』の重要なテーマにしていたが、ブレヒトではそれはほぼ消えている。

第三スタシモン(B720-743)

ソフォクレス版の第三スタシモンは「エロス讃歌」と呼ばれ、エロスが「戦いでは敵なし」とされる。ここでエロスは性愛と美の女神アフロディテの子で、アフロディテ同様性愛を司る。ブレヒトはヘルダーリン訳をかなり利用しつつ、讃歌の対象をエロスから「バッコス(Bacchus)」に変更している。岩淵訳は固有名詞を基本的にドイツ語的発音に即して転記(ヘーモン、アンティーゴネ)し、谷川訳はギリシア語に従ってカナ書きするが、ここでは両者ともに「バッカス」と英語風に転記。

B729-731
Geist der Lüste im Fleisch, dennoch
Sieger immer im Streit! Die blutsverwandt selbst
Wirft er untereinander, der mächtig Bittende.
T: 「肉体に宿る快楽の、その神髄のバッカスよ、/戦争のさなかでさえも、己れを貫くバッカスよ、/快楽を求めてやまぬその神は、血筋のことさえ忘れさす、」
I:「肉体に宿るもろもろの快楽の神バッカスよ/争えばつねに勝者! 彼の強力な誘いを受ければ/血族の関係さえ乱れに乱れてしまう。」
K:「肉欲の精霊、それでも争いではいつも勝利するお方! 抗えぬほどの力で誘い /身内同士ですら重ねて投げ捨てる方。」

B729-731

B729の"Geist der Lüste im Fleisch"のGeistは、ソフォクレス(S781)の῎Ερως(エロス)をヘルダーリンがGeist der Liebe(愛の精霊)と訳し、ブレヒトがバッコスに変更して「肉欲の精霊」としたもの。ヘルダーリンはソフォクレスの神(θεός)を基本的にGeistと訳すが、ブレヒトはGottもGeistもあまり用いず、バッコスをGeistと呼ぶのはB729が最初である。B730-731の"Die blutsverwandt selbst / Wirft er untereinander"はブレヒト全集版の注にInzest-Motiv(近親相姦モチーフ)とあり、岩淵訳もそう注記している。ソフォクレスの S791-794"σὺ καὶ τόδε νεῖκος ἀνδρῶν ξύναιμον ἔχεις ταράξας·"(「男たちのこの骨肉相食む争いを駆り立てもした」)のヘルダーリン訳"Sie flüchten, hältst dich hier auf, im Männerzank, Im blutsverwandten, und wirfst es untereinander." は、むしろ美しい女性を巡って兄弟たちが血みどろの争いを行うことだろうが、ブレヒトは、Männerzank(男の争い)を抜いて近親相姦モチーフの表現にした。

参照文献

⑴~⑺共通で⑴を見ること。

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