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浄と不浄のあわい 穢れと微生物

今月から、Deep Care Labが主催する「Weのがっこう」に参加しています。

ゲストによるトークセッション、参加メンバーとの対話を通して、「いま、ここ、わたし」だけでない、過去・現在・未来、自然物・人工物、わたし・わたし以外の生物、あまねく思いを馳せる学びの多い時間を過ごしています。

モジュール1のテーマは「わたしと自然・生き物」。アーティストの大小島真木さんのお話を伺いました。

海を渡り土に触れながら創られる大小島さんの作品はどれも印象的で、外部と一体になる拡張された自己を自覚させられるものでした。その作品に触れる中で、私たちが感じる「浄・不浄」は実は一面的なものなのではないか、という気付きを得ました。

http://www.ohkojima.com/top.htm より

動物の死骸や腐った食べ物を見た時、多くの人はウゲー汚い!気持ち悪い!と思います。私もまた、冷蔵庫で腐らせてしまった食材を捨てながら、暴発した息子のウン○を風呂場で流しながら、日々ウゲーなどと思っています。

神職は神様に仕えるために不浄(穢れ)を避け、清浄を保つことを非常に重視します。伊勢の神宮では斎戒中にはお手洗いに行くたびに水を浴びて身を浄めると聞きます。そんなに避けなきゃいけない穢れとは一体なんぞや、ということについては以前の記事をご参考に。

穢れを避け、心の平静を保ち、清浄な心と体で神様に奉仕する。神職の基本精神と言えます。

一方で、あまりにも清浄を意識しすぎると、相対的に不浄にカテゴライズされる様々なものに目が向かなくなることがあります。例えば腐ったものを分解する微生物、動物の死骸を餌にする虫や動物たち。重要なお供物の一つであるお酒だって微生物の活動の末に成り立つものです。

目線を変えてみると、私たちにとって不浄なものが実は微生物や他の生き物にとってこの上ないご馳走だったり、住処だったり、大地の栄養になっていたりするわけです。そうすると、あれ、不浄ってなんだっけ?これって本当に汚いんだっけ?たまたま今の自分にとって都合が悪いだけなんじゃないか?ということで、あわれ思考のスパイラルに陥ってしまったのでした。

浄と不浄のあわいに落ちこんでしまったので、じゃあ浄と不浄が絡まり合う円環に参加してみようじゃないか、というわけでこんなものを飲んでみました。

ウゲー!
文字通り、蚕の幼虫の糞のお茶。原材料、蚕糞。100%ピュアな糞です。
味はというと……なんとも爽やかな木の香り。
「糞」という字面と、ティーバッグの中も見た目そのまんまなのでインパクトはありますが、なんのなんの。普通に美味しい。

これをゴクゴクやっていると、やはり不浄って何だっけ、というのが分からなくなってしまうのでした。

不浄=避けるべき悪いもの、という概念が揺らいできたところで、神道の穢れに話を戻します。

「穢れ」は常に「祓え」とセットです。穢れは知らず知らずのうちに溜まっていくもの。穢れがつくのは仕方ないことなので、折を見てきちんと祓いましょうね、というのが神道の考え方です。

死は穢れですが、生きている限り死はいつか必ずやってきます。それを忌み嫌い遠ざけるのではなく、受け容れ、受け継ぎ、繋いでいく。穢れに触れたら祓えばいい。この穢れも、誰かの生として未来に繋がっていく。

穢れと祓えの繰り返しの中で、過去、未来と繋がっていく。一神道人として微生物に思いを馳せる中で、そんな考えに至りました。

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正直大小島さんのお話が示唆に富みすぎていて思考の整理が追いついていませんが、これからも各モジュールで学んだことを自分なりに咀嚼して、神職の視点で綴っていきたいと思います。

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