インタビューア、、尹 雄大 REMIX

インタビューアである、尹 雄大にまつわることについて書いた。が結局どこにも載せなかった。
それは彼が語っていたと思われる事を多分にわたしが語り直してしまっており、ほんとに彼がそのように語ったのかをプロなら調べるところ、わたしはプロでないしと開き治っているからである。そのように告白するのが精一杯である。
ただ消すにはもったいないと思い、断片だがのせておく

No1
去年、インタビューアである尹雄大の主催するWSに参加したとき、「自分の輪郭てわかります?」「どういう時に自分の輪郭だと感じます?」と、たしかそんな風なことを仰っていた。その時は輪郭という言葉にピンときていなかった。言葉から連想されたのは、固定された性格、本性ようなもの。そういったものがあると考えているのだろうか?だとすれば、それは自身を居つかせる事につながっていないだろうかと、首をひねりつつ聞いていた。
が、今読んでいる本の輪郭という言葉の使われ方をみて、僕の捉え方が全然違ったと気づいた。
輪郭という言葉を調べてみると、視界からみたものと背景の境界線とでてくる。だとすれば、自身と人、モノ、環境など。交差するところに発生するもの、浮かびあがるものを、輪郭と呼んでいたのではと思う。幼いころ好きなキャラクターを真似し描いていた私にとって輪郭という言葉のリアルさは、顔の輪郭を描くこと、顔の一番外側の線、アウトラインを描くことであった。それはキャラクターと背景のあわいに表出するものでなく、形を形たらしめるためのラインを描くことであった。(背景は描かれなかった)


No2
尹 雄大がオンラインインビューセッションをLive中継する代わりに無料で受講できるようだ。とても興味がある。
が、どういったことを話をしようか、そもそもインタビューセッションなるものがどういったものかよくわからない。(し、彼自身も説明は難しく、受けてもらうしかないと言っていた。)
それはHPをみても要領をえない。
彼が何処かでこんな風な事をいっていた。僕の勝手な語り直しだが主旨はそんなに外れてないと思う。(僕はめんどくさがりである。誠実に書いているつもりだが、自身のめんどくささを優先する誠実さがあるだけである。ね、誠実でしょ 笑)

カウンセリングという場なら、簡単に言ってしまえばカウンセラーとクライアントという関係性のもと問題があるという捉え方のもとで対話がなされる。クライエントは問題なるものを通して自身を言及することを要請されていることを理解し、自身のなかに問題なるものを発見しそこに沿うように応答するだろう。クライアントという物語を生きてしまう。また、言葉だけを取り扱って何かが解決される、、それって不自然ではないか?もうそろそろそういったことをやめていいのでは?
尹雄大のインタビューという場には、カウンセリングである、いわゆるインタビューであるというわかりやすい足場は用意されない。
彼は聞き方にハウツーはないという。なら話し方にもハウツーもないだろう。
あるのは、言葉のやりとりではなく、わからなさのなか身を投じるように場に参加することだろう。

No3
その人の話をその人の話として聞くこと。と尹雄大は言った。最初どういう意味だろうと思ったが、ツイキャスなどを聞いているうちに文字通り、その人の話をその人の話として聞くことであったとわかってきた。それは、逆にいえば、その人をその人の話として聞いていない場合があるという事である。
それは一体どういうことだろうか。彼は基本中の基本としてジャッジをしないことという。また、彼/彼女らが言うことがどんなに間違っていると聞こえたとしても、そのような語りになるのは語りになるだけの必然性、過程があるという主旨のことを言っていた。
ジャッジすること、何が正しく正しくない(好き嫌い、解釈など含まれる)という聞き方は、その時点で他者の語りを離れている。私からみた物語、、解釈により歪曲されている。
ジャッジや解釈はレッテルとも似ている。レッテルを貼った瞬間から、レッテルを通して他者をみてしまう、、扱いだしてしまう。レッテルが他者を遠ざけるように貼られる時、互いの間に流れる時間は凍結される。溶解されるとしたら、レッテルから離れて自身の見解や関わりが変わってしまうことをよしとして、再び共にあるときだろう。

私のアレクサンダーテクニークの先生は、ヤクザという例をだして話を聞かせてくれた。ヤクザっぽいと自分が思った人にでくわしたとする。が、そういう時に危険なのはヤクザだと思うなり、怖いモノであるという対象として扱い、全身でみないようにしまうことだ。
その瞬間からその人の身体から伝わってくる情報のは遮断されてしまう。ただヤクザっぽいだけかも知れないし、ほんとに危害を与えようとするかも知れない。ただどちらにしろ、それっぽさに基づきシャットアウトはしないほうがいいというような事を言っていた。全身でみること。(全身でみるというのは言葉で説明することは難しい。が、語弊を恐れずいえば、巫女的な在り方。他者の身体の内部で起こっている情報のようなものが自身の身体を通して知られるという事である。それはきわめて感覚的なものである。レッテルを貼りそこに居つくとき他者に開かれるでなく自身に閉じている。そのとき他者の情報は入ってこなくなる。(ちなみにアレクサンダーテクニーク もジャッジをしないことを大事にしてる。また自他共に変えようとしないこと。変えようとすることはそこにあるものをあるものとして ただ受け取る事を難しくしてしまう)

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