健康で文化的な最低限度の生活

「実際は…巻き込まれないと見えないことってあるんですよね。」
5巻 無力感に落ち込む主人公えみるに、上司である半田がかける言葉である。

#健康で文化的な最低限度の生活 のコマ https://alu.jp/series/%E5%81%A5%E5%BA%B7%E3%81%A7%E6%96%87%E5%8C%96%E7%9A%84%E3%81%AA%E6%9C%80%E4%BD%8E%E9%99%90%E5%BA%A6%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB/crop/TI8JkKEh651VIqE6X4NO

#健康で文化的な最低限度の生活 のコマ https://alu.jp/series/%E5%81%A5%E5%BA%B7%E3%81%A7%E6%96%87%E5%8C%96%E7%9A%84%E3%81%AA%E6%9C%80%E4%BD%8E%E9%99%90%E5%BA%A6%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB/crop/NQvEezGzWU4Nmd6sj3Oe

続いて半田はいう。
「そういう意味では…義経さんが特別仕事ができないとは私は思いません。」
「ただ傍観しているだけでは見えないことも、
対象者と一緒に悩んで、腹立てて、喜んで…
一緒に伴奏することによってできることがある
というのがこの仕事で。」
「義経さんはそういう、伴奏者になる力を持っている人……なんじゃないですかね…」
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 (ピックアップしたワンシーン)


初めてこの物語を読んだとき、ひとつの上質なコミュニケーション論として読んだ。
主人公の義経えみるは、福祉事務所の職員であり生活保護に関わる新人のケースワーカーである。彼女の職場には様々な内情を抱えた人がやってくる。 
義経えみるを筆頭に、同僚である仲間たちは日々業務をこなすべくそれぞれ奮闘するが、順調に進むわけなく、受給者の我がままに思える態度や行動、他者という理解不可能性に困惑する。
関係を続け、巻き込み巻き込まれていくなかで徐々に浮かび上がってくる(もしくは突如出現する)のは、受給者それぞれの現在に至った経緯である。
またケースワーカーと受給者、それぞれの傷、培ってきた固有の見方、やり方(対応の仕方)など、それらが互いが進もうとすることを妨げてしまう。
それぞれが自身に直面し、選択を迫られる。
このとき自身の殻に閉じて、いつもの見方や対応をしてしまえば互いの歩みは止まってしまうだろう。
巻き込み巻き込まれつつ困難な状況を共有し、偏りを持ちつつも自身に閉じるのでなく他者に開いていく。その過程で同じ地平にたちゴールを目指す伴奏者になっていくのではなかろうか。自己変容の物語でもある。


とここまで書いた。
文を書いていて気づいてはいたのだが、
コミュニケーション論を説明しやすくするために、大雑把に編集し、切り出し、まとめてしまったなというのが実情だ。
もっと話は複雑であり、登場人物、進みかたも様々である。(あえていうなら、義経えみると栗橋千奈の物語を中心に説明した)
またこの論じ方により伴奏者という在り方をしている人達が優れたコミュニケーターでありケースワーカーであるという風に伝わったかもしれない、、
著者自身全くそう考えてない…わけではないと思うが、実際は少し違うところにあると思う。

文章をかいているときインターネット記事にある著者のインタビューを読んだ。
彼女の描くものは題材は違ってもコミュニケーションが軸であるそうだ。また人間や社会は複雑だというのを改めて実感した。その複雑さをそのままこの漫画で描こうとしたという主旨のことを言っていた。またえみるは成長するのかわからないとも 笑
僕が思ったのは、著者が描こうとしているのはコミュニケーションが軸ではあるが、
それよりも複雑なものを複雑なままに描くこと、つまりそれは人間という存在や社会そのものを描こうとしているということではないかということ。
伴奏者という存在は、伴奏者それ自体を著者が描こうとして描いたというより、作品世界の中で彼ら彼女らの日々の暮らしを描いているうちに、結果的に伴奏者という存在が描かれたといほうが近いのではないだろうか。
またこれも想像だが、著者自身取材をする過程で、えみる達と同じように他者に耳を傾け、偏見や偏りをもちながらも、正解をだそうとするのでなく複雑なものをそのままに、自身と葛藤しつつ描いているように感じた。

毎巻発売されるのが楽しみな作品であり、
おすすめです!

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今回このキャンペーンにあたり苦手意識のある文を書くという作業をなんとか終えられた。(本日締め切り最終日)
が、本当に言いたかったのはこの一文だった気がする。。。

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