宮台真司を知ったあの頃。

テレビを眺めつつ家族で夕飯を食べていると、あるニュースが流れてきた。

東京都立大で教師のひとりが何者かに襲われ首から血を流しているという。アレ?東京都立大て宮台真司が講師をやっているとこだっけ?まさか宮台?いやたしか首都大だったような。
殴られたの?切られたの?情報が錯綜してるのか?そんなことをぼんやり考えつつ、また食べることへともどっていった。

数時間後、Twitterのタイムラインをみて襲われたのが宮台真司であったことわかった。

(首都大と東京都立大は同じだった)


宮台真司を初めて知ったのは高校生の頃だった。

親が単身赴任だったため、高校から自転車で15分ほどにある個人の寮にお世話になっていた。部屋は四畳半。洗面所、洗濯機、風呂場は共同。風呂場は外にあり、一旦寮の建物をでて外に行かなくていけない。庭のすみにある大人三人が入れるかどうかの掘建小屋、、そこが風呂場であった。

シャワー料金は100円で10分。10分たつと自動的にお湯は止まる。ああ無常…

時間が限られているため、まず、全裸になりそれからお金を投入する。上から下まで急いでガシガシっと洗い温まるまでもなくでてくる。冬場のつらさはいうまでもない。

ある日シャワーを終え、寒い寒いと寮のある玄関に向かうと、むにゅむにゅむにゅ。細木数子似の寮母が飼う名前だけがラブリーな柴犬?(犬種と名前を忘れた)の糞がサンダルにめり込む。ぅおっふ。。。

話が横に逸れた。
当時、ぼくはいわゆる病みという状態の入り口へ立とうとしていた。第一希望の高校を偏差値が高いからと親に受けることすらも許されなかった僕はどこか不貞腐れていた。いや、不貞腐れていたからといって高校に入学するころには、高校で10番以内ぐらいにはなってやるという気概くらいはあった気がする。

が、最初こそ模試で数英の成績校内一位をとり、どこか得意げになったものの、高校を卒業する頃には見事に赤点を量産するようになっていた。(32点が多かったので自分でミニーちゃんと呼んでいた。)

勉強もダメ。運動もダメ。容姿もコミュニケーションもダメ。

高望みはしない。ふつうになりたい。せめてふつうになりたい。

ぼくは高校生活でサバイブするなか、ふつうになる為の打開策、一発ホームランを放つのに、自己啓発本というものに救いを求めてはまっていくことになる。

勉強の能率をアップを目指すものやコミュニケーションの上達方法。成功の法則を知ることで成功者になれるというもの。夢を手帳に記すことで夢が叶うという夢手帳。果ては右脳を活性化させることで人間の使われてない超常能力が目覚めるというもの。

どの本にも人生は逆転可能であり、あなたの今ある状況は、真のやり方を知らないからか、はたまた潜在能力が活性化されてないからか、環境がわるいかなど、そういったことが書かれていた。

ある一日のことをしるす。

朝、布団からでるといの一番に屋上へいき、朝日を浴びる。

え?気持ちいいからだって?

否!!


松果体を活性化させるためである。どうやら人間の脳は普段3%しか使われてないらしく後の97%は眠っている。これはその、能力を開発させるのに必要なトレーニングである。

日の光を全身に浴びながらそっと目を閉じる。目の裏に太陽光の残像が残っている。その残像をイメージ通りに動かせるようになるとまずまずらしい。

部屋に戻ると今度は本の付録についているCDをセットし、イヤホンを装着。そっと目を閉じる。

「ヴオ〜〜ン」

音に身を委ねていると、青いモヤのようなものが目の裏にみえてくる。f/1のゆらぎ、変性意識状態、脳からアルファーファがでている証拠だ。

うん、なんかいい感じがするかも?ヴオオ〜ン

新しいメソッドや法則を見つけては興奮して冷めるを繰り返した。興奮することが生きている感覚と結びついていた。逆にいえば興奮がない時は生きている感じがしない。そんな鈍さを身につけていった。それは辛いもの好きな人が更なる辛さを求めエスカレートさせていくのと似ている。前の辛みでは足りない。辛さを感じない。更なる興奮!刺激が欲しい!

うまくいく感覚、できてる感覚、誰かに承認されてる感覚、自分を肯定できている感覚、幸せの感覚、ある種の万能感で自分を満たしたかった。現実よりそういったリアリティー感に浸かってられたらよかった。部屋で夢想するぶんには期待も膨らむ。が、日常のなかでその期待はあっという間に解体される。

教室の窓からぼんやりと空をながめる。青空だ。でもどこか薄ら曇ってみえる。子どもの頃はぬけるような青空だったのに。環境問題の影響なのか。

世界とぼくの間には隔たりがある。もやのような膜のような、、そしてどごまでも平坦であった。

そんななかある事件が起こる。秋葉原通り魔殺人事件である。ぼくが宮台真司を知ったのはこの前後だったと記憶する。

彼の本を何冊か購入した。殆ど理解できなかったがワクワクした。
彼がいう、”代替可能性”という言葉や”終わりなき日常を生きる”という言葉達が、自分の生きているリアリティーの実感とリンクした。

それまで漠然と生きづらいと思っていた。自分特有のものだと思っていた。いや、生きづらいとすら思ってなかったかも知れない。世界はそもそもそういうものだと思っていた。そこにメタ的な視点、言葉を与えられた。

社会的な構造が関係しているのか!社会学という分野があるのか!宮台真司おもしろい!

事件を引き起こした加藤智大はどこか自分と重なってみえた。抱いているだろう気持ちを勝手に推察した。

彼も”代替可能”でしかない自分という存在、”終わりなき日常”というリアリティーをヒシヒシと感じていた1人に違いない。いや、彼こそ社会的構造により追い詰められ、逃げ場をなくしてしまった人間だ。境遇が違ったのならあそこにいたのは自分だったに違いない。

今はもうそのリアリティを僕は感じられない。が、当時は切にそう感じていた。

社会的構造により起こっているということがあるというのは朧ながらわかったが、宮台真司がどういうことをいってるのかは正直よくわかっていなかった。

資本主義と自己啓発本の親和性に全く気づいてなかった。

自己啓発により自己変革を、社会と自分との間の摩擦を減らして滑らかな関係を築くこと。社会のようなものへと従順になること=ふつうになること=宮台真司が言うところの”小賢しいクソ”になる道を、身体の変調と共につき進むことになる。



〜おまけ

自己啓発本による脳の魔改造も順調に進んでいた。

ある晩、寝ようと布団に入りウトウトしていた。すると身体が硬直して全く動かないことに気づく。金縛りだ。

硬直を必死に解こうとするがびくともしない。 うごけ!うごけ!

金縛りがはじまって20秒ぐらいたったあたりだろうか。脳にイメージのようなものが流れ込んできた。

白い光である。ヒラヒラふわふわしている。頭上から降りそそぎ僕を包んでいく。
ぁあ〜気持ちィイ〜

気持ちよさに浸かっていると、突如一転!
光は掃除機のごとく僕を天上へと吸引しだした。グァッ!ガ!ガギュィイイーーン‼︎‼︎‼︎

必死に抵抗を試みるも身体は硬直したままだ。やばい!やばい!やばい!
吸い込まれる!吸い込まれるゥ〜‼︎‼︎

格闘のすえ、なんとか金縛りが解ける。身体全体は脈うち、びっしょりと汗をかいていた。

天井に何か蒼白いものが徐々に浮かびあがってくるのがみえた。

なんだろうと思ってると、そこには巨大な曼荼羅模様が広がっていた。


             つづく。(のか?)










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