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銀杏boyzと私

今でも、銀杏boyzを聞いている。

2003年にゴイステが解散したとき、私は大学2年生、20歳だった。そこから大学を卒業するまでの約二年間と、銀杏が2005年1月にファーストアルバム2枚同時発売するまでの2年間は重なっていて、人間関係につまずいて苦しんでいた私は、彼らに心酔し大学生で時間があったことを良いことに、関西や時には関東まで遠征しライブに通った。 

あれから20年経ち、私は41歳になった。以下は、2013年10月、31歳の時に私がネットに書いた文章だ。

銀杏ボーイズのサイトを久しぶりに見たら、PV撮影のニュースがあった。峯田のブログも9月に更新されてた。そういえば最近銀杏ボーイズのこと忘れかけてた。最後にライブ行ったのいつだっけ。社会人3年目の冬に戦争反対ツアーでZepp福岡に見に行ったのが最後。そもそも、ライブやってないし、東北ツアー?だっけ、スメルズライクアバージンツアーのライブ映像をCSで見たのがいつだっけ?東京メトロのCMソングに銀河鉄道の夜第2章が使われて、ドキドキしたのいつだっけ?車のカーナビのHDDにはアルバム入ってるし、シングルも、ゴイステも入ってる。最近聞いてないな。
2003年から2005年。当時大学生だった私は彼らに心酔してた。大学生活、人間関係につまずいてかなり苦しんでた。唯一の救いが銀杏だった。当時福岡に住んでたから、セッチューフリーのライブ見に行くために関西まで遠征してた、ひとりでマンガ喫茶泊まったな。ロッキンジャパンフェス行って、佐世保のセッチューのライブで死ねTに峯田がサインしてくれて、まだ大事にとってる。DVDについてたポスターは今でも部屋にはってる。平和祈願DVDがいつ出るかずっと待ってたけど、待ってることすら忘れてた。
銀杏のサイトのBBS見たら、イトキンの名前があって懐かしくなった。当時銀杏ボーイズはかなりの知名度はあったけど、一定数の人間はヒリヒリした切実な想いで彼らを見てたと思う。私もそのひとりだった。イトキンとは面識はないけど、どこのライブ会場にもいたし彼の知り合は、銀杏のファンサイト作ってたりして私もよくそこにライブレポを見に行ってた。あたりまえだけど彼や彼女らも10歳年をとって、彼や彼女らの生活にまだ銀杏ボーイズが存在してるか、ふと思う。
私が銀杏ボーイズを知って10年。アルバム発売から8年半。大学生だった私は社会人になり結婚し子どもが2人。当時銀杏が載る雑誌は全て買ってたけど、その中で今でも忘れてない、ふとしたときに思い出す峯田のインタビューがある。ストリートロックファイルのアルバム発売直前に出た号で、「今、僕たちは報われなくていい。今、こうやって銀杏ボーイズを聞いている人が、社会に出てそれで世の中が、少しでも良くなってくれればいい。」そんな趣旨のことをいってた。当時、社会人としてやっていけるか不安だった私はこの言葉に背中を押された。
社会人になったら学生時代より、苦しいことが多かった。だけど自由になるお金も、増えてどうしても行きたかった童クリにヤフオクでチケット落札して行った。銀杏ボーイズを切実な想いで、救いを求めて聞いてた。いつから、だろう。切実な想いで彼らの音楽を聴かなくなったの。聴けなくなったの。待っても待っても、活動しないからか。31歳になって自分が変わってしまったのか。
でも、今でも満たされない気持ちがあってそれを埋めれるのは銀杏しかない。家族も他の音楽も趣味も宗教でもない。かつて、銀杏ボーイズに救われた多くの人がいてきっといまだに彼らの新譜をライブを何年も待ち続けてる。働いて毎日をやり過ごしながら待ってる。みんな峯田のロックを必要としてる。

上記の文章を書いてから、更に10年が経った。その間に銀杏はアルバムを3枚出し、メンバーが変わり、イノマーは亡くなった。

私は会社の異動で当時からは住む場所が3回変わった。毎日なんとかやっているが、仕事も家庭も上手くいかない。20歳のときから、30歳のときから、何にも変わっちゃいない。何もかも中途半端なままだ。通勤電車の中、聞いているのは変わらず銀杏boyzで、ボーイズオンザランを聞いて自分を奮い立たせたりしている。

かつて、峯田はこう言ってた。
「クラスで人気のある奴等にもなれないし、かと言って不良にもなれない。かっこいいロックの人にもなれないし、ヒップホップにもなれない。あの娘のことが好きのに、話しかけることさえできない。
そしてなんとなく、大人になっていく。本当は何も変わっちゃあいないのに。全ての中途半端な人たちに銀杏boyzの音楽を。僕はドアを叩く。開けてくれ。」

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