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まさはるのプロフィール

ご覧いただき、ありがとうございます。

この記事では、自己紹介を兼ねて、僕の職歴や人となりを示す経歴などを紹介します。

まずは職歴など。

昭和42年4月生まれ。東京都出身。現在も東京都在住です。
最終学歴は、日本大学文理学部卒。

都内の中規模IT企業を経て、31歳でフリーランスSEに転身。
33歳で法人成し有限会社を設立しました。
その後、紆余曲折が有りまして、37歳の時に自分の会社は一旦閉じて、
都内の大手IT企業に中途入社します。
ここでは、主に自社製アプリケーション開発や自社サービスの企画と開発、プロモーション、提案などを行っていました。

その後、システム基盤製品の開発や構築を行う部署の組織長を経て、現在は早期退職し2回目の創業に向けて準備中です。


次は経歴などのご紹介。

自分語りっぽいことはあまり好きではないのですが、僕の人となりのご紹介ということで。
もし興味がありましたら読み物としてお付き合いください。


1.自我の目覚め

高校は都内の公立高校に通いました。一応、進学校と言われています。
でも調子が良かったのは1年生の1学期だけ。以降は見事に落ちこぼれました。勉強はあまり好きではなかったのです。
小学校、中学校と違って、進学校での高校生活って成績が悪いと結構辛い。
少々孤立してしまい、屋上に寝っ転がって1日過ごすなんて黒歴史もありました。

自分は何者になりたいのか・・なんて、いつも考えていた気がします。

そして辿り着いた答えが、

俺は「社長になる!」

世の中に役に立つ事業を起こすとか、得意なことで会社を興すとかではなく、

「社長になる!」 

今考えると、あまりの単純さに笑ってしまいますが、でも、その時に抱いた夢が以降の僕の人生のベースになったのは間違いありません。

2.最初の就職

「社長になる!」が目標の僕は、大学卒業後の最初に就職先として東京都内の中規模IT企業を選びました。
理由は初任給が良かったから。
いずれ何を始めるにしてもIT(当時はITという言葉では無かったですが)なら潰しが効くし、短期間で資金を貯めて起業の準備に取り掛かるつもりだったのです。

この会社で6年の経験を積み、いよいよ起業に向けた活動を模索し始めます。
目を付けたのは、社会福祉(介護)業界です。
当時から日本の急速な高齢化と高齢者介護問題は、社会的な課題になっていました。
それに研究してみると、介護業界は情報化が遅れていて、そこかしこに非効率が散在しているように思えました。
その結果、介護される側の高齢者にも介護する側の介護職員にも大きな負荷がかかっている。

そこで僕は、会社を辞めて社会福祉系の大学院を受験し、介護の専門的な知識を身に付けようと考えたのです。

ところが時同じくして、それまで様々な理由でなかなか進まなかった婚約者との結婚の話が動き出します。
嬉しい反面、難しい判断。
結婚するのであれば、そうそう会社は辞めるわけにはいかない。

そこで
・大学院に合格したら、卒業するまで結婚は延期
・大学院が不合格なら、結婚し起業する夢は先送り
と決め、婚約者と、彼女のご両親にも了解を貰いました。

そして背水の陣で大学院の受験に挑みます。
面接をしてくれた教授の反応も良く手ごたえは十分に有ったのですが、結果は不合格。

甘くは無かった・・
でも振り返ってみれば、これはこれで良い結果だったと思っています。

3.フリーランス、そして起業へ

結婚し子供も生まれ1年が過ぎたころ、僕はフリーランスとして独立を決意します。
子供がまだ小さく、仮に失敗してもやり直しが可能なうちに独立しておきたかったのです。

独立後は会社員時代にお世話になっていた取引先から契約をいただくことができました。
滑り出しは順調です。
しかしフリーランスの契約条件は厳しく、取引先の社員や、他の協力会社と比較して圧倒的な結果を残し続けないと、次の契約が貰えません。

フリーランスを2年続けて限界を感じ、法人成りして事業拡大を目指す決心をします。

独立から3年目に有限会社を設立。
自身もエンジニアとして働く一方で、協力者(契約エンジニア)の募集と新規取引先の開拓にも着手しました。
会社を設立したといっても超零細企業です。フリーランスの頃の取引先から安定的に仕事が貰えている間に、なんとか事業規模を広げなければなりません。
この時はもうガムシャラでした。働いて働いて働いて・・

そして入院。

応援してくれた取引先、協力してくれた多くの方々に大変な迷惑をかけてしまった、僕の人生における最大の失敗です。

4.2度目の就職

あまりにもお粗末でした。
当時の僕はまだ若く、いくら無理をしても大丈夫!と思っていたんです。
でも、越えてはいけない限界線はあるのですよね。

お金を頂く仕事を引き受けるからには、当然、責任が伴います。
「病気になりました。ごめんなさい」は通用しません。
一度失った取引先の信頼を取り戻すのは容易ではなく、さらに、僕自身と家族の生活も守らなければならない。

途方に暮れていた時に、取引先であるIT企業の理事の方が声をかけてくださいました。有難いことに、その会社の社員として緊急避難(中途入社)させていただけることになったのです。

この会社では、入社した当初から割と自由に働かせてもらいました。
僕を入社させてくださった理由として、異文化的な風を入れることを期待された、という背景も有ったのだと思います。
SEでありながら、製品やサービスを企画し、開発もし、プロモーションもして提案もする。

「社長になる!」という目標からは外れていましたが、仕事は楽しかった。
もちろん失敗もあり挫折も経験しましたが、僕が企画し10年かけて育てた製品は、今でも多くの企業で利用されています。

5.仕事人としての選択

その後、組織長として一つの組織を持たせてもらいました。
新たな仲間を得て、役割も担当する製品も仕事の幅も広がります。
ただ・・
組織長として見る景色は、これまでの僕が見ていた景色とは少し違う。
大きな会社故の制限というか不自由さ・・も見えてきて。
そんな葛藤を抱えるようになっていきます。

それでも、組織長として仲間たちの成長を見守り、一緒に困難を乗り越え、結果に結び付けていくというプロセスは、やりがいもあり楽しいものではありました。
ただ、それは僕の求める「働く」のイメージとは、少し違っていたのかもしれません。

そんな日々の中で、両親の介護の問題が起こりました。
両親2人を介護し、突発的な事態にも対処する。
ただ、仕事では組織長としての責任を果たすことが次第に難しくなり。

結果、上司と相談し組織長を辞任することにしました。

そして、今の僕にとっての理想の「働く」とは何か、ということを改めて考え始めたのです。

6.現在

「社長になる!」を目標にスタートした僕の仕事人の人生。
節目節目で、”僕にとっての「働く」とは”、という問いを繰り返し、そして選択してきました。

人は人生の多くの時間を「働く」の中で過ごしています。
好き嫌いに関わらず、人生の中心は「働く」にならざるを得ない。
そうであるならば、誰もが自分にとっての ”より良い「働く」” を手に入れられる社会であって欲しい。

現在の僕は最後に所属したIT企業を退職し、
「働く」をテーマにした事業で「社長になる!」の実現を目指し、
創業に向けた準備を始めています。

前職で一緒に苦労してきた信頼できる後輩も賛同してくれて、一緒に活動しています。

僕と同じように「働く」ことが好きな人が、より良い「働く」を手に入れる手助けをしたい。

そして僕自身も、この事業を通して僕が求める「働く」とは何か、 を追求していきたいと思っています。

ここまで読んでくださった方々。どうもありがとうございました。

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