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「危機意識に乏しい日本人〈前編〉」~それは何を意味するのか?

21世紀の日本。その現状を直視すれば、普通の日本人は日頃あまり意識していませんが、実は非常に厳しい将来がそこには待っています。

たとえば、切実に感じている人は多くはいないのですが、グローバルな目で見たときの私たち日本人の意外なほどの貧しさ、などもその兆候の一つです。グローバル企業では初任給は50万が普通。ところが、日本のことしか知らない私たちは20万が当たり前だと思っている、といった現実をあらためて指摘する本がここ数年次々に出版されています。

2年前に出版されたデービッド・アトキンソンの「新・生産性立国論」をはじめ、野口悠紀雄の「平成はなぜ失敗したのか」、さらに安宅和人の「シン・ニホン」という本などもそうです。つい最近出版された加谷珪一の「貧乏国ニッポン」もそれに当てはまります。

それぞれ取り上げ方や中身は違うのですが、どの本にも日本という国が、国際的地位の低下や経済成長の翳りなど、実は危機的な状況に置かれていて、このままでは非常に厳しくなっていく現実が具体的に描かかれています。

■日本人の危機意識の乏しさとは

先行きが楽観できないにもかかわらず、こうした状況に対する危機意識は日本人の間で意外に共有されていません。その事実に触れるだけで、だれもが危機感を持たざるを得ないような情報ですから、本来、人から人にもっと伝わっていってもいいはずです。

しかし、現実は違います。
一つひとつの事実ははっきりとしているのですが、すぐに痛みを感じるようなことが起こっているわけでもないからか、そうした厳しい将来を暗示する情報に触れたことがある人も含めて、何となく漫然と以前と変わらない生活を送り続けているのが今の私たちです。

新型コロナウイルスがもたらしてきた危機は、日本全体でかなりしっかりと受け止められている、と思います。それと同じように、私たちを待ち構えている近未来の危機を国全体で感じ取り、受け止める必要が本来あるのです。しかし、それとはほど遠い危機感のありようが今の日本にはある、いうことです。

■危機意識の共有を妨げるものとは

いろいろ情報は流れてきてはいるけれど、今は国全体が守りの調整文化に浸り切り、待ちの姿勢というか、現状維持の姿勢というか、急がねばならない新陳代謝には目もくれず、延命治療にのみに関心を向けている状態です。ですからどうしてもみんなで危機意識を共有するのは簡単ではないのだと思います。

とはいえ、為政者が現状維持の延命治療にかまけるのはまだわかるのですが、将来の危機が目の前に迫ってきているのは明らかであるにもかかわらず、現実を直視しようという声が日本全体で大きくなっていかないのはなぜなのでしょう。

考えられるのは、厳しい、厳しいとは言っても、それは将来のことであって、今現在はそれほど急を要しているわけでもない、というように見えているからかもしれません。確かに目の前には、決して楽とは言えないけれど、とりあえず少し我慢してさえいれば、楽しみも味わいながら生活できる、という現実があります。

■日本の危機を自分事にするには

新型コロナウイルス感染拡大の危機感が国中を覆ったのは、危機がけっこう身近に感じられたからです。しかし、深刻な状況を生むであろうことを頭では理解できても、身近には感じにくい「将来の危機」には残念ながらほとんどの人がそれほど関心を示していない。違和感は持っていても、取り立ててすぐに困るわけではないのです。

要は危機的状況とは言っても、多くの人にとっては結局他人事だということなのでしょう。

危機を他人事にしてしまっているもう一つの理由は、「どうせ何をやっても結局何も変わらない」という平成の調整文化が蔓延させた“あきらめの感覚”の存在です。
そういう意味では、危機を身近に感じ、自分事にしていくには、あきらめ感から抜け出ることを可能にする「打開策の見える化」が何としても必要です。

4月に私が出版した『なぜ、それでも会社は変われないのか」(日本経済新聞出版本部)は、まさにこの危機を私たち自身が身近に感じ、打開策を自分のものにするために書いたものです。
次回の〈後編〉ではそのあたりの話を書こうと思います。

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