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第9回:『好きにならずにいられない』(2015)

「この題材について、何か書かなくちゃな」と思いつつ、ずるずると時間だけが過ぎ去ってしまう経験ってありませんか? 僕はわりにしょっちゅうあります。大体は書き出しがうまく書けなかったり、時間に余裕があったりといった理由で後回しにしてしまうような。

一応これでも文章に関する仕事をしている人間だから、書くこと自体が不得意なわけではない(と思っています、自分では)。書こうと決めて本腰を入れれば、それこそ最初の一行をすんなりと書き始められれば、あとはそこまで苦労せずにすらすらと書くことができる。問題は「最初の一行」がなかなか決まらないことで。これまでもいろいろな方法を試して自分なりに挑戦してみたけれど、どれもあまりうまくいかず、いまだに自分なりの方法論を確立できずにいる。どうしてだろう。

思えば文章だけでなく、普通の会話も最初の一言が難しい。言いたいことがないのではなく、むしろ話したいことがたくさんあるにもかかわらず、最初の一言がなかなか出てこない。こういう流れで話したらスムーズだよなとか、変な表現になっていないかとか、いろいろと考えているうちに話題が変わったり、相手がどこか別の場所へ行ってしまったりということも。挙句の果てにはなんとかひねり出した言葉が話題と全然関係なくてそもそも会話が成立しなかったりといったこともよくある。「きっかけづくり」って本当に難しい。

大男の成長劇『Fúsi(邦題:好きにならずにいられない)』

2015年に公開された『Fúsi』という映画にも物事のきっかけを掴めず、とうとう40歳を過ぎてしまった男、フーシが登場する。彼のささやかな楽しみは馴染みのレストランでパッタイを食べ、ヘビメタをラジオ番組にリクエストし、小さなジオラマで戦場を再現すること。それでも十分幸せそうではあるものの、ある誕生日の夜、両親に無理やり行かされたダンススクールで物語が進み出す。

その日はひどい吹雪だった。結局フーシはダンススクールへ行く勇気が出ず、駐車場の車内で一人、ヘビメタを聞いていた。だんだんと吹雪はひどくなっていって、まさに「横殴り」といった状況。するとそこへ、風に煽られるニット帽を必死に抑えつつ歩く一人の女性がやってくる。彼女はフーシの座る席の窓を叩きながら、言う。「家まで送ってくれない?」と。彼女の名前はシェヴェン。フーシが参加するはずだったダンススクールの生徒の一人だ。

突然目の前に現れるシェヴェンに驚きを隠せないフーシ。そりゃそうだ、彼は今までロクに女性と会話したことがなかっただろうから。それもあって車内は気まずい雰囲気が漂う。ついにシェヴェンの口から「何か話してくれないと殺されそうで怖くなる」とまで言われてしまう始末。そこから会話が始まるのだがフーシの目の焦点は合わず、口調もたどたどしい。ただ、そこでの会話がきっかけで翌週のダンススクールに一緒に参加することに。そしてフーシは、だんだんとシェヴェンのことを気にかけるようになっていくのだ。

映画の瞬間:劇的に何かが変わるわけじゃないけれど。

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『好きにならずにいられない』

今回取り上げる映画の瞬間。それは、心に傷を負ったシェヴェンをその大きな体で受け止める瞬間。少しその場面の前後を説明すると、この少し前からフーシは彼女の心の異変に気づき、窓ガラスを割って家へ入り(この行為自体はどうかと思うが)、部屋に閉じこもったシェヴェンとドア越しで一緒に時間を過ごしていた。毎日のようにシェヴェンと猫に料理を作り掃除をし、シェヴェンの仕事を肩代わりしながら。そうして日々を過ごしたある日、フーシは両手いっぱいに抱えた花を持って、シェヴェンのもとへやってくる。

「シェヴェン、プレゼントだよ」。両手いっぱいに花を抱えたフーシがドア越しの彼女に声をかける。けれど声は帰ってこない。やっぱりダメか、と抱えていた花を近くの椅子の上に置いて帰ろうとするフーシ。すると一瞬、シェヴェンがドア越しにこちらを見ていたような動きが。おそるおそるドアに手をかけるフーシ。鍵はかけられていない。ゆっくりとドアを開き、座っていたシェヴェンを抱えあげる。彼女はうなだれたまま大男の胸に顔を埋め、涙を流す。フーシは、泣いている彼女を抱きかかえながら語りかける。「すべてうまくいくよ」と。とっさに口をついて出た言葉だった。

フーシは、その性格から現状を一気に変えるような大胆な行為は得意ではない。仕事だってずっと同じだし40歳を過ぎてもずっと実家暮らし。おそらく彼の好きなジオラマ作りのキャリアも何十年というものだろう。それほど、彼の流れる時間はゆっくりなのだ。

フーシはシェヴェンの環境を一気に変えようとはせず、ただただ一緒に時間を共有する、じっと待ち続ける。しかし、だからといって彼は臆病だったわけではない。彼女を喜ばせたい一心で旅行を計画したり、自分の仕事を休んでまでも彼女の仕事を肩代わりしたりと選択した行為には疑問の余地が残るものの(思考が急過ぎるというのは否めない)、ときに大胆な行為もとれる。
フーシはフーシなりに、彼女に寄り添いたいと思って「待つこと」を選んだのではないか。だからこそ彼は黙々と料理を作り、部屋を掃除し、待つ。全く先が見えない中でも、それが最善と信じて。

よく、問題を抱えたとき、自然と僕らは「解決しよう」としてしまう。つい最近も、同じようなことがあった。けれど本当に問題は「解決すべき」なのだろうか。本当に問題はシステマティックに分解できるのだろうか。そんなに単純なのか。

主にシェヴェンの問題は、とても複雑で言ってしまえばフーシが何かをしたところで簡単に解決はしないだろう。生まれ育ちの問題、教育やキャリアの問題、心の問題。物事が複雑に絡み合って「今の姿」を形作っている。ポジティブなものも、ネガティブなものも、表も裏も、すべてその人の「一部」なのだからフーシができることなんて正直、たかが知れているだろう。だからこそフーシは、直感的にそのことを理解し、解決ではなく「理解」をもって、解決するよりも待つことを選んだのではないだろうか。自分のためではなく「シェヴェンのために」、自分のこれまでの生活を変えながらでも、物事が前向きに進むかもしれないと思いながら、ゆっくりと時間をかけながら。

そうしたフーシの支えもあってシェヴェンはだんだんと快復へ向かっていく。しかし、物事はそううまく進まないと、後からフーシも気付かされるのだが。ここから先はぜひ、本編を見てほしい。

すべてうまくいくよ、きっかけはどうであれ。

言い方は難しいが、「痛み」そのものを共有することはできなくても、痛んでいる「状況」は共有できるような気がする。だからフーシにとっても、シェヴェンにとっても、あの暗い部屋で過ごした時間は意味のあるものだったと思う。結果はどうであれ、間違いなくその「プロセス」は、彼らのものだから。

だから最後は、「すべてうまくいくよ」。そうだよな、フーシ。ポジティブなものもネガティブなものもすべて、その人の一部なのだから。君がそのことを一番、よく知っているだろう。だから僕も「すべてうまくいくよ」とつぶやくながら、重い腰をあげてパソコンに向かうことにする。

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