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岡本太郎って好きですか?

岡本太郎って好きですか?

実は言うと僕は、長い間この人が苦手でした。「自分の中に毒を持て」とか「怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ」とか、そういう言い回しや教訓めいた自己啓発的な雰囲気が馴染まないというか。だから個々の作品は知っていても展覧会に行って絵を見たりすることもなかった。なんとなく、違うテイストの持ち主なんだなという印象で。

なんだかんだいって本は読んでます。ただ、書店で買うのが恥ずかしくてKindleで買っちゃったり。


毒々しくて、刺々しくて、強烈。

なぜ岡本太郎を苦手になったのか。いろいろとその理由を考えてみようと思うんだけど、まずその色彩感覚が自分と合わないし、モチーフの描き方もやけに刺々しくて苦手だ。例えば『日の壁(1956)』は中心の顔が暗い緑色なのに対して周りはハッキリとした黄色、赤、オレンジ、その他多数。単純に目がチカチカしてしまうし、色同士が調和しているとも思えない。モチーフの話で言うと『燃える人(1955)』で描かれている炎のゆらめき、ギョロッとこちらを見下ろす目玉。その1つひとつが強烈で、まるでこちらを突き刺さんばかりの強さがあるようで。


『日の壁(1956)』
『燃える人(1955)』

僕はもともと、印象派のような淡い、輪郭がぼやけているような作品が好きだ。特に印象派の作品は「光」をモチーフに、複雑な色合いでもってそれを表現している。当時は印象派の絵を未完成と称する人々もいたと言うけれど、時代の一瞬一瞬の「光」を切り取ったその絵には、未来の可能性を好意的に受け取れて好きですね。その観点でみると、岡本太郎の作品は僕にとってはやっぱり毒々しくて、強烈すぎる。



展覧会 岡本太郎 2022 10.18-12.28

けれど昨日、友人と東京都美術館で開かれた『展覧会 岡本太郎』に行って考え方が変わった。なるほど、岡本太郎の絵は依然として苦手だけれど、彼が描こうとしたものそれ自体は共感できる、と。

特に共感したのが、岡本太郎がパリ時代に描いた『空間(1934)』と『コントルボアン(1935)』に示されている「対極主義」という考え方。対極主義とは、対立する2つの要素をそのまま空間に共存させることで高次元の表現が生まれるとした、岡本太郎が1947年頃から提唱し始めた概念だ。

『空間(1934)』

例えば、抽象と具体、静と動、美と醜のような相反する2つのものを対極主義は空間に同居させてしまう。本来、その2つの要素は存在してはならないもの同士だから不協和音が生じてしまうけれども、それによって独特な緊張感が生まれ、僕らに忘れがたい「印象」を植え付けてくれる。大阪万博の『太陽の塔』なんてまさに対極主義の象徴と言えるだろう。「進歩」を象徴する丹下健三の「大屋根」に、「反進歩」の太陽の塔を突き刺すなんて普通では考えもつかない。それも国家的なプロジェクトである「万博」という場所で、国のお金をつかっての一大プロジェクト。国の役人が岡本太郎の対極主義を知った上でプロデュースを依頼していたとしたら、その人は相当な策略家であり、皮肉屋だったろうと思う。

「未来への夢に浮き上がっていく近代主義に対決して、ここだけはわれわれの底にひそむ無言で絶対的な充足感をつきつけるべきだ」

「祭り」1970年

もともと対立する2つの要素に対しては、ヘーゲルの弁証法のような「アウフヘーベン(止揚)」が用いられることが多い。アウフヘーベンは、正/テーゼ・反/アンチテーゼ・合/ジンテーゼというように、現状に対して反対の立場を重ねることで、より高次元の結論を導くこと。たとえば、急に話が変わるけれど具体例として、現代の企業は経済的合理性を求めつつ、環境に配慮しなければならないことから「脱炭素」の取り組みを進めるような。意識的にか無意識的にか、僕らは弁証法的なプロセスをとることが多い。


しかし、弁証法はときに「合」ではなく「妥協」を生んでしまうこともある。例えば、先ほどの脱炭素にしても「カーボンリゲージ」といって排出規制が厳しい国の企業が規制の緩やかな国へ生産拠点を移すことで結果的に世界全体の排出量が増加するという問題もある。これでは当初の目的であった経済合理性と環境への配慮という2つの要素を「合」わせているとは言えない。

抽象絵画の合理主義とシュルレアリスムの非合理主義という、近代精神の裏表ともいえる二つの立場を、矛盾と対立を強調しながらぶつけることにアヴァンギャルド芸術家の使命があるのだという主張である。

展覧会 岡本太郎

その意味で岡本太郎の「対極主義」は、ヘーゲルの弁証法を進化させた新しい境地と言えるだろう。対立する2つの要素を同じ空間に同居させ、不協和音を生じさせる。「合」にあたるものはなく、単に空間を共存させるだけ。

しかし、だからこそ岡本作品を見ている僕らは、相反する2つの存在を見せつけられ意識させられ、そして何か得体のしれないエネルギーを生じさせられる。正反合とは違う、まったく別のジンテーゼがある。それこそが岡本太郎が晩年、唱え続けた「爆発」という表現なのではないか。


「生」と「死」の対極にあるもの

展覧会の帰り、渋谷駅のJRから井の頭線に向かう連絡通路に置かれている『明日の神話(1968)』を見に行った。この絵は原爆が炸裂する瞬間を描いていると言われ、真ん中には骨だけになった人間の姿が描かれている。もともとこの絵が渋谷駅にあることは知っていて、大学時代から何度も見ていたけれど、ずっとこの絵の意味がわからなかった。明日の神話?こんなに絶望的な状況で?

悲劇の世界だ。
だがこれはいわゆる原爆図のように、ただ惨めな、酷い、被害者の絵ではない。
燃えあがる骸骨の、何という美しさ、高貴さ。巨大画面を圧してひろがる炎の舞の、優美とさえ言いたくなる鮮烈な赤。
にょきにょき増殖してゆくきのこ雲も、末端の方は生まれたばかりの赤ちゃんだから、無邪気な顔で、びっくりしたように下界を見つめている。
外に向かって激しく放射する構図。強烈な原色。画面全体が哄笑している。悲劇に負けていない。
あの凶々しい破壊の力が炸裂した瞬間に、それと拮抗する激しさ、力強さで人間の誇り、純粋な憤りが燃えあがる。
タイトル『明日の神話』は象徴的だ。
その瞬間は、死と、破壊と、不毛だけをまき散らしたのではない。残酷な悲劇を内包しながら、その瞬間、誇らかに『明日の神話』が生まれるのだ。
岡本太郎はそう信じた。この絵は彼の痛切なメッセージだ。絵でなければ表現できない、伝えられない、純一・透明な叫びだ。

『明日の神話』によせて 岡本敏子

しかし昨日、展覧会に行ってみて、この文章を書いてみて、なんとなくのレベルだけれど、その意味が見えてきたように思った。まだまだ、ほんの一部分だろうけれど。

『明日の神話(1984)』

一瞬にして生き物全てを焼き尽くす爆発の中で高らかに笑う人間。その目はシッカリと天を見上げ、骨は世界に向いて伸びている。「生」と「死」の対極にありながら、明日への希望を抱く人間の姿が、たしかにそこにはある。


でもやっぱり、岡本太郎の絵はまだ苦手だなぁ。みなさんはどうですか?


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