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ちょっとした風向き、ボタンの掛け違いで。『ムーン・パレス』ポール・オスター/著

あとから振り返ってみて「もしあのとき、ああしていたら(していなかったら)死んでいたかもな」と思うことってありませんか?

普段、「死」なんてものを全然意識しない僕だけれど(疲れちゃうので)、あるときふと、何かの成り行きで僕は消えて無くなってしまうんじゃないかと背筋が凍ることがある。食べているハンバーガーが喉に詰まったら、横断歩道に暴走した自動車が突っ込んできたら。まあ、その程度のことなら予期できるものの、ちょっとした風向きの変化やボタンの掛け違いで簡単に消滅してしまう存在なのではないかと思わされます。


僕で言えば、昔、家族で行った海水浴でそういう体験をした。僕の家族は両親と兄妹と僕で5人。比較的仲は良い方で毎年のように夏は海に山にでかけており、そのときも毎年恒例の海水浴に行こうと家族で茨城の北の方にある海岸へ出掛けた。時期は多分、夏も終わりに差し掛かっていた頃だったと思う。だから天気は良くても波は高く、風も強い日だった。それが良くなかった。案の定、僕は波にさらわれた。


一瞬、フワッと浮き上がる感覚があったあと、浮き輪1つで海に投げ出される僕。太陽のまぶしさに目がくらんだけれど、それどころではない。さっきまで両足で踏みしめていた砂浜はそこにはなく、どれだけ足を伸ばしても触れさえもできない。普通の人なら足がつかないエリアで泳ぐことぐらい訳もないだろうけれど、泳げない僕にとっては不安でしかない。しかし、そうしてもがくうちに、はるか向こう、太平洋上には太陽の光で反射した波の水しぶきたちが寄せては引いてを繰り返しながら輝いていた。青い飛沫もあれば、真っ白なもの、海藻を含んだ深緑の色もある。非現実的なほどに美しいその光景に、自然と直に僕もそのしぶきの一員になってしまうのだろうと思った。次第に浜辺を目指してもがく僕の足が止まる。すーっと自然に、潮の流れに身を任せるかのように。自分でも驚くほどに冷静に、その光景だけを見つめていたことを覚えている。

でもやがて父が泳いでやってきて、僕の浮き輪を掴み、浜辺へと連れ戻してくれた。身長170センチになろうという大きな子どもを抱えながら。父は特に怒るでもなく、叱るでもなく、ただ黙っていた。今でも死を思うとき、僕は海で見たあの光景が浮かぶ。たぶん、あのとき少しでも父が来るのが遅かったら僕は波の水しぶきに変わっていたと思う。というか実際のところ、あのときの僕はそれを望んでいたのかもしれない。それほどまでに海で見た光景は、美しかったから。

僕は崖っぷちから飛び降り、もう少しで地面と衝突せんとしていた。そしてそのとき、素晴らしいことが起きた─僕を愛してくれる人たちがいることを、僕は知ったのだ。そんなふうに愛されることで、すべてはいっぺんに変わってくる。落下の恐ろしさが減るわけではない。でも、その恐ろしさの意味を新しい視点から見ることはできるようになる。僕は崖から飛び降りた。そして、最後の最後の瞬間に、何かの手がすっと伸びて、僕を空中でつかまえたくれた。その何かを、僕はいま、愛と定義する。それだけが唯一、人の落下を止めてくれるのだ。それだけが唯一、引力の法則を無化する力を持っているのだ。

『ムーン・パレス』P.63

ポール・オースターの『ムーン・パレス』の主人公マーコ・フォッグは僕とだいぶ違う環境なんだけど、彼も同様に何かの偶然で幸せを見つけたかと思えば、思いもよらぬ方向へ、それも悪いほうに話が展開していく。まさに、一寸先は闇。始まりは些細なことかもしれないが、それが喜劇にも悲劇にも転ずることがある。物事は決して一本調子ではなく、右にそれることもあれば左にそれることもあるし、ときには後ろ向きに進むこともある。常に様々な可能性、いわゆる「死」も身近にあり、ちょっとした風向きの変化、ボタンの掛け違いで僕らは消滅もするし、生まれもするのだ、と。

いいか、物事にはつねに続きがあるんだ。好むと好まざるとにかぎらず。

『ムーン・パレス』P.183


後々になって父親に、僕が波にさらわれたときのことを聞いてみたんだけど、あまり覚えていないようだった。でも、一言「自分でも思ってもみない力が出たんだよね」と話してくれた。本当に、不思議なことの連鎖で、僕は生かされているのかもしれない。そしてそれはこれからも続いていくのだろう。つくづく、僕はそう思う。

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