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聴こえてくるものに耳を澄ます

本文章は「対話の木の葉」の対話マガジン「The Dialogue Garden」の一環としての記事です。


私たちは、日々さまざまな存在とコミュニケーション(やりとり)をしながら生きている。

職場の同僚や上司部下、家族、友人、こどもといった人間とのやりとりはもちろんのこと、自然が身近にある人は、天気や昆虫、あるいは動物とのやりとりも日々の中に含まれるだろう。

人間同士でのコミュニケーション(やりとり)をイメージすると、そこには「話す」という行為と「聴く」という行為が混ざり合っている。
何かを発する存在がいて、何かを受け取る存在がいる。単純に捉えるとそれが交互に繰り返されているわけだが、実態としては常に発し、常に受け取っていると言えるだろう。

今回はそんなコミュニケーションの中でも、「聴く」という部分を切り取って今思うことを綴ってみたい。
あくまでも「部分を切り取ったもの」であるため、頭での理解を進めるための言葉として受け取っていただきたい。

私たちは「聴く」にどんなイメージを持っているだろうか?

聴くとはどういうことだろか。

傾聴、アクティブリスニングなど、さまざまな言葉が聴くにまつわる姿勢として示されているが、私自身、そして皆さん自身はどういうふうに捉えているのだろうか。

まず、ひとつ問いとして湧いてくるのは、聴くというのは主体的な行為なのか、受動的な行為なのか、(あるいは中動態的な行為なのか)、ということだ。(中動態についてはまだ勉強不足であるため今回は割愛する)

相手から発された言葉を聴いている、受け取っているわけだから、受動的な行為と思う方もいるかもしれない。
あるいは、積極的に相手に好奇心を向け、どんどん深ぼっていくから主体的な行為だと思う方もいるかもしれない。

私自身は、そのどちらもが「聴く」の一側面であると思っているが、どちらかというと聴くは極めて受動的な行為であり、それが転じて主体的な行為とも言えると思っている。

聴くとは、身を乗り出して一生懸命に耳を傾けることをイメージすることも多いが、 私のイメージはゆったりと力を抜いて、相手に開かれている状態をつくるこだ。

何かを掴もうと、聞こう聞こう、とするというよりは、 相手の存在から発されている、発話、空気感、トーン、感情などをただ感じている。

そういった姿でいることが多い。

つまりは何かを積極的にしているかというと、ある意味何もしておらず、
相手の存在を前にした時に、すでに自分の身体が受け取っていることを感じている。

自分から掴みに「聴こう」とするのではなく、力をぬいた時に「感じてくるもの」「聴こえてくるもの」に耳を澄ます。そんな行為が自分にとっては「聴く」ことなのかもしれない。

3種類の傾聴

「聴く」を捉えるにあたって、コーチングの文脈で参考になりそうなフレームがあったため少し持ち出したい。
コーアクティブ・コーチングという形式のコーチングでは、傾聴の種類を三つに分けている。『コーチング・バイブル第3版』によると、以下のように説明されている。

一つ目は、内的傾聴。それは自分自身に意識の焦点を当てる聴き方であり、相手の言葉は聴いてはいるものの、それがいったい自分にとって何を意味するかに意識が向いている状態。自分の気持ちや考え、意見や判断に意識が向いている。

『コーチング・バイブル第3版』キムジーハウス,H、キムジーハウス,K、サンダール,P

二つ目は、集中的傾聴。それは相手にしっかりと意識の焦点を当てる聴き方。相手の発する言葉だけでなく、声の調子や抑揚、ペース、あるいは滲み出る感情などにも耳を傾ける。相手から自分に向けて発せられる全ての情報を認識する。

『コーチング・バイブル第3版』キムジーハウス,H、キムジーハウス,K、サンダール,P

三つ目は、全方位的傾聴。それは自分の周りに360度すべてに意識の焦点を当てる聴き方。目に見えるものや耳に聞こえるもの、肌で感じられるもの、あるいは感情的なものなど、すべての感覚で感じるものが含まれている。聴く対象が相手に限定されていないことから、時に環境的傾聴と呼ばれる。

『コーチング・バイブル第3版』キムジーハウス,H、キムジーハウス,K、サンダール,P

もしかしたら先ほど言葉にした、自分から掴みにいくように聴こうとするのではなく、力をぬいた時に「聴こえてくる」ものに耳を澄ます、という聴き方は、三つ目の全方位的傾聴(環境的傾聴)に当てはまるのかもしれない。

自分の身体をある種の受信機として捉え、そこに身を置いている時に自分の中で感じるものを感じていく。
そういった聞き方がここで捉えようとしている「聴く」なのかもしれない。

「聴こえてくる(感じる)」ために大切な「自然体」というあり方

最後に「自然体」ということについて触れて、今回の記事を締めくくりたい。
教育学者であり、身体論者である斎藤孝は、『自然体のつくり方 レスポンスする身体へ』の中で自然体を以下のように定義している。

自然体とは、自分の中心は崩れないで、周りの状況に対して柔軟に「当意即妙に」対応できるような身体のあり方である。〈中略〉下半身は充実して力強く、上半身、とくに肩の力は抜けていて、柔軟に対応できるような構えである。

『自然体のつくり方 レスポンスする身体へ』斎藤孝

これはいわゆる「上虚下実」と言われる状態でもあり、臍下丹田は充実していて、肩や鳩尾といった上半身は力が抜けている状態とも説明される。

今回の記事で言語化している「感じるように聴く」あり方というのは、こういった「自然体」の状態であると言える。

肩の力が抜けており、ゆったりと肚の底まで呼吸が通っており、特定のものに掴もうと頭が前に出ているというよりも、上半身はふわーっと世界全体に漂っている感じ。

自然体というのは、丹田に重心があることだと思われるが、おそらく「聞こう、聞こう」しすぎることは力みを生み、重心が上がることにつながってしまうのではないだろうか

中動態、自然体、丹田など、まだまだ深掘りたい箇所はたくさんあるが、今回は一旦ここで締めくくろうと思う。

「聴く」という行為は受動的な行為であり、それが転じて主体的でもある、と述べたが、文化人類学者の川喜田二郎は、『創造性とは何か』という本の中で、以下のようなことを述べている。

絶対的受け身とは全体の状況が自分に要求するから立ち上がるというもので、この方が実は主体性が高い。主体性については、よく人に強いられてやるのは主体的ではないといわれるがそれは一般論であって、本当は全体状況が自分にやれと迫るから、やらざるを得ないという方が、じつは真に主体的だ

『創造性とは何か』川喜田二郎

このように相手との間に立ち現れている場に身を置いていた時に、自分から取りに行こうとせずとも、場から、そして相手から要求されるものがある。

それは言葉を変えると、なぜか感じてしまうことでもあり、その場において必然性、確信を感じる感覚でもある。

そういった感覚に身体を明け渡し、身体が勝手に受け取っていることを頼りに、相手の話を聞いていくこと。

そんな「聴く姿勢」をこれからも深めていきたい。

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