見出し画像

職業人としての柿本人麻呂

NOTEのために
 今回、以前に面白半分に自費出版した『職業人としての柿本人麻呂』を、内容を修正した上でNOTEに載せさせていただきます。この文章は万葉歌人として有名な柿本人麻呂をその和歌歌人から見たものではなく、飛鳥時代から奈良時代を生きた人間・柿本人麻呂を生活・社会面から考察したものです。まず、標準の文学の世界からのものではありません。そのようなものとして扱って下さい。なお、『職業人としての柿本人麻呂』は自費出版として流通10部で出版していますからひょっとすると検索には当たるとは思いますが、流通10部ですので廃刊の類です。
 
はじめに
 この『職業人としての柿本人麻呂』は、万葉集を趣味とする者が作った『万葉集』に載る柿本朝臣人麻呂の歌及び人麻呂歌集の歌を理解するためのある種の覚書です。本来、特定の人物の大分な作品集を鑑賞する時、その人物の年譜と作品集とが定義されなければ作品集を下にした人物評論や作品鑑賞はそれを鑑賞する者が持つ主観や解釈により変動する可能性があります。およそ、その人物の人物像や作品集の定義と云う基盤が定まらない場合、作品集全体を俯瞰した人物像論議の出発点に立つことは出来ません。この覚書は、筆者が人麻呂作品の鑑賞を行う時、その人麻呂の人物像議論の基盤となる人麻呂年譜への基礎的資料の位置にあり、その理解の背景を示すものです。ちなみに筆者の推定で柿本人麻呂は天智五年(666)頃から和銅元年(708)三月までを生きた人物です。
 万葉集は日本最古の詩歌集であり、載せる歌が全四千五百首余と云う大分な詩歌集です。その詩歌集に載せる歌は仁徳天皇の時代から称徳天皇の時代までに渡りますが、万葉集の中心を為すのは天智天皇の時代から元正太上天皇までの時代です。その万葉集の前半部を代表する歌人が、ここで取り上げる柿本朝臣人麻呂です。柿本人麻呂は後年・『古今和歌集』では歌聖とも讃えられる人物ですが、正史である『日本書紀』や『続日本紀』などに載らない人物のため、その生涯も経歴も公式には正体不明な人物です。この『職業人としての柿本人麻呂』は、その正体が一切不明な歌聖柿本人麻呂に対する人物像の研究の一つです。
 柿本人麻呂の生涯や人物像については古くから多くの説が唱えられてきました。今日のインターネット環境を使うとそれらの説を閲覧することが容易・自由であり、ここで示すように一般の者であっても自説を述べることが可能となりました。この覚書は、そのようなインターネット環境において閲覧が可能な説の中から筆者の好みと判断で恣意的に選び出し、それを再編成したものです。従いまして、この覚書の中で使われる資料や説明自体に目新しいものはありません。それらは既に提案され、広く知られる柿本人麻呂の人物像への推定や仮説の一部です。そのため、ここにお詫びをいたしますが、引用したものや参考にしたものの原典の引用先を全ては紹介をしていません。この点については、それらは既に広知されたものであり、また、この覚書全体としてみたとき、そこにはオリジナリティーがあるものとして考えていることに因ります。
 ここで、この覚書の構成を紹介しますと、第一章では金銅仏である東大寺の大仏はなぜ存在するのかと云う疑問を下に金銅仏の素となる銅と云う金属とその製法や鉱山に多くの焦点を置いて、柿本人麻呂の人物像をその所属する氏族等を背景として考察を行っています。そのため、日頃、接する万葉集解説書で紹介するものとは、その考察の手法や方向性も異なり、帰結もまた常識的な柿本人麻呂の人物像とは違うものとなっています。その帰結が示す柿本人麻呂の人物像は、従来に考えられているような宮廷歌人のような和歌を詠うことを専門にするような姿ではなく、職業人として生きる人麻呂です。万葉集の中での宮中や御幸で和歌を詠う人麻呂の姿とは、それは、所謂、宮廷歌人のような職業としてではなく、高級官僚がたしなむ風流の発露と云う、当時の貴族が求められた教養の一面として和歌を詠うと云う姿です。それは、ちょうど、明治の教養ある政治家・官僚・実業家が欧米指導者の姿に従い、エリートとして位置付けられた人々の社会的義務として、美術館を建て、音楽学校を作り、小説を書き、文化の向上に寄与した姿の写しです。その姿を明確なイメージとして示すのならば、明治期では政府高官であった森林太郎であり、学者では夏目金之助です。同じように奈良期に求めるならば、日本国としての国語表記を模索した大伴旅人であり、山上憶良です。人麻呂が生きた飛鳥から平城京の時代は、青年たちが百済の役での白村江の敗戦の体験の下に自前の老朽化した基礎技術を唯一の頼りとして、国家が侵略される恐怖にかき立てられ、最新の国家運営法や科学技術を輸入し、新しい国家を作り上げた、ちょうど、明治維新や昭和の敗戦に匹敵する時代と考えています。この視線に立つとき、飛鳥から奈良時代とは明治時代と同様に国家が重工業化へと邁進する高度成長路線の時代です。その高度成長路線の結果として、奈良時代の天平勝宝年間には東大寺の大仏建立から推計される銅の生産能力は年間百トンを越え、それを支える全国的な物流網を持った世界最高水準の工業国家です。そして、飛鳥時代の貧弱な大和国をその世界最高水準の奈良時代の工業国家へと作り上げた礎を築いたのが、柿本人麻呂を含む飛鳥・藤原京時代の技術者たちだったとするのが、ここでの推論の帰結です。
 第二章では、第一章で推定した柿本人麻呂の人物像を下に現代に残される伝承や各地の人麻呂神社縁起について考察をし、推定した柿本人麻呂の人物像に対し検証を行っています。また、同時に、遊行詩人説の原因ともなった万葉集に見られる人麻呂の活動範囲が、当時の国守等の外官任官などではその任期や官位を勘案すると説明できないほどに広範囲であることの理由を考察しています。帰結において、第一章で推定した柿本人麻呂が鉱山関係の技術者だったとの仮説を立てると、これらは説明が可能であるとしています。
第三章では、第一章と第二章で得られた人麻呂の人物像に万葉集の歌を重ね合わせ、人麻呂の妻や児たち、家族について考察を行っています。また、同時に得られた人麻呂の人物像を下に全国に点在する柿本人麻呂神社や人丸神社との関連についても考察を行っています。人麻呂と人麻呂神社研究の先史の一部を紹介すると、人丸神社研究者にとって、ホームページ(HP)『防長人丸社新考』に詳しく載るように古くから人丸神社と古代の鉱山跡や鉱業関係遺跡との関連性は知られた事実です。そのため、考察した人麻呂と人丸神社との関連の帰結が新説となるかと云うと、そうではありません。それは、従来の柿本人麻呂の人物像への推定や仮説の再確認の位置にあります。
最後に、改めて確認します。
 ここでのものは万葉集を趣味とする者が作った覚書であり、学問ではありません。そのため、トンデモ研究と分類されるもの以外への引用や参照は、ご遠慮ください。これは娯楽です。ただし、ここでの仮説とその帰結を利用しますと万葉集の歌々から柿本人麻呂の年譜を二十二歳から六十二歳頃までに渡って組み立てることが可能になる希望があります。また、それがこの覚書を作った目的でもあります。
 なお、ここでの万葉集とは、『萬葉集(鶴久・森山隆編 おうふう)』に載る原文の万葉集歌をその脚注を使い、底本となった西本願寺本の元の形へ個人の作業として戻したものです。これをここでは『西本願寺本万葉集』と称し、万葉集のテキストとして使用しています。このため、広く流布する近代解釈の下、漢字交じり平仮名表記を中心としてそれに応じるように校訂された『校本万葉集』とは違うものです。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?