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職業人としての柿本人麻呂 第一章 氏族社会の和珥族と柿本臣

職業人としての柿本人麻呂を考えるにあたって
 この覚書は、万葉集と云う日本最古の詩歌集の中で重要な位置を占め、また、その後の和歌の発展に大きな影響を与えた柿本朝臣人麻呂の人物像を考察するものです。
 巻頭「はじめに」でも紹介しましたが、今日においても万葉歌人、柿本人麻呂の人物像は定まっていません。そのために人麻呂歌を鑑賞する立場により、その人物像は変化します。職業を例としますと、遊女を伴う旅の遊行詩人を生業とする一族の一人ではないかとする説、石見国の下級官吏ではないかとする説、諸国を巡り行政監査を行った朝集使の随員やそれ相当の下級官吏ではないかとする説、持統天皇御付きの宮廷歌人ではないかとする説、さらには従四位下柿本朝臣佐留が人麻呂の本名ではないかとする説など、諸説があります。このように身分や職業においても市井の遊行詩人から朝廷の高級官僚まで大きな幅があります。
 万葉集 巻二に「従石見國別妻上来時謌二首」と題名を持つ歌群があります。この歌を例に取りますが、この歌を詠った背景と推定年齢でも諸説があります。立場により、詠った時期の推定は青年期、中年期、晩年期と分かれます。人麻呂の死没は、おおむね、江戸期以来の伝統的に文武年間から和銅年間の間のことであろうと推定されていますので、青年期説であれば持統年間の早い時期、中年期説であれば持統年間の遅い時期、晩年期であれば和銅年間となります。当然、それに合わせて石見国の妻の年齢推定も変わりますし、人麻呂の職務の推定も変わります。
 このように身分や職業においては遊行詩人から高級官僚まで大きな幅があり、歌一つをとっても、その詠われた時期の推定に青年期から晩年期まで幅があります。人麻呂が詠うこの万葉集歌だけに限ってもこのように時代認識に大きな振れ幅がありますと、壬申の乱から平城京の造営・遷都までの、その激動の時代において的確にその歌が詠われた時代や社会的背景を想像して、それぞれの歌の鑑賞ができているのかと云うと疑問が浮かび上がります。先ほどの「従石見國別妻上来時謌二首」でも、歌の背景として、青年と若妻、中年と若妻、中年と長年連れ添った妻、老人と若妻、老人と長年連れ添った妻など、複数の夫婦関係の組み合わせが想定され、その組み合わせにより歌の感情は微妙に違うはずです。さらに、地方を本拠とする人物の都への上京か、大和を本拠とする人物の帰京かによっては、その上京の心情もまた違うはずです。およそ、歌を鑑賞する人の時代解釈と人麻呂の人物像により歌の解釈は違うのが本来です。それに都自体も飛鳥浄御原宮なのか、飛鳥藤原京なのか、それとも奈良平城京なのか、解釈者によって違うことになります。
 なお、この歌群の解釈において、ここでは大和人である人麻呂が詠う「従石見國別妻上来時謌二首」とは、二度に渡る飛鳥浄御原宮の都への上京の旅で作歌された二種類の歌の集合と解釈し、一つは職務途中の上京、もう一つは職務完了での帰京と推定します。それも、それは天武年間に起きた青年と若妻との離別の歌と解釈します。
 このように歌を鑑賞する人の立場により人麻呂歌の背景は大きく動きます。そのため、柿本人麻呂とはどのような人物であったかを定義しないまま、それぞれが行う歌の鑑賞結果を提示しただけでは正しい鑑賞になりません。また、その鑑賞での人物像や時代背景への基準があやふやであるのなら、それに対する論評もまたあやふやであり、論として成り立たないと考えます。従いまして、人麻呂の歌を鑑賞する時、人麻呂とは何者であったのかとの考察と定義が要求されると考えます。
 そうした時、この人麻呂とは何者であったかと考察する上で、その職業を推定することは避けては通れないテーマです。そこで、最初に人麻呂の職業としては最有力な宮廷歌人説について、少し、考えてみたいと思います。
飛鳥・奈良時代に施行された律令体制の記録などから奈良時代の宮廷での雅楽寮や歌舞所と云う役所の存在を確認することが出来ます。従いまして、その役所に宮中儀礼や宴会で奏楽や歌詠いを行う事を職務とする人々が構成員として所属していたことは確かです。そのため、人によって人麻呂は歌舞所に所属する「歌詠い」のような職務の人ではなかったかと推定します。それも万葉集に載る人麻呂が詠う歌は持統天皇に関係するものがもっぱらですので、持統天皇専属の歌詠いの人ではなかったかとします。つまり、ここに宮廷歌人説の根拠の一つがあります。
 正史に歌舞の記録を求めますと、続日本紀に天平六年(七三四)二月や宝亀元年(七七〇)三月の歌垣御覧の記事、また、天平勝宝四年(七五二)四月に東大寺の開眼法要での歌舞奉納の記事を見つけることが出来ます。その中で天平六年の記事を見てみますと、次のような注目すべき記述があります。
 
原文 五品已上有風流者皆交雑其中。正四位下長田王、従四位下栗栖王・門部王、従五位下野中王等為頭、以本末唱和、為難波曲・倭部曲・浅茅原曲・広瀬曲・八裳刺曲之音。
訓読 五品より上の風流の者、皆、交雑し其の中に有り。正四位下長田王、従四位下栗栖王・門部王、従五位下野中王等を頭とし、本末を唱和するを以って、難波曲・倭部曲・浅茅原曲・広瀬曲・八裳刺曲の音を為す。
 
 この記事からすると、風流心のある五品より上の皇族や王族が歌垣に参加していることが判ります。そして、風流人の中でも浄冠正四位下長田王、従四位下栗栖王・門部王、従五位下野中王たち、王族が歌詠いの音頭取りを行い、その音頭取りが歌の上句を詠い、他の参加する人たちがその下句を詠い唱和したようです。こうした上句を音頭取りが詠い、それに従って下句を他の参加する人々が詠うと云う姿からは、詠われた歌は皆が良く知る伝承された歌だったと思われます。この記事は天皇御覧の歌垣の記事です。その大切な音頭取りを王族出身であり、かつ、身分は臣民では正冠三位以上に相当する高い官位である皇族官位の浄冠正四位下長田王や従四位下栗栖王たちが行っています。この人たちの振る舞いは朝廷の一部署である歌舞所に所属する身分の低い専門の歌詠いの者が命じられて歌垣の音頭を取るような姿ではありません。また、詠われる歌は伝承された歌ですから神事奉納などの恒例の祭礼で行われる歌垣で良く詠われる歌がこの歌垣でも取り上げられ、天皇御覧の許、詠われ演舞されたと思います。
 ここで注目すべき事ですが、この歌垣に参加する人たちは「五品已上有風流者」です。およそ、生まれながらにして身分と経済基盤を有する貴族階級の人たちで、職業として歌舞の技を研鑽することを求められる人たちではありません。彼らはあくまで個人の好みの風流として歌垣を行っています。だれかに見せることを目的にこの歌垣が行われたのではないのです。参加する人々がまず先にそれを楽しむことが根本にあるのです。民衆が見学することは二次的な結果です。つまり、この歌垣は歌舞音曲をもっぱらとする職業人が行ったものではありません。
 およそ、当時、歌垣の歌を詠い、和歌を詠むことは「ある種の職業」として行うのではなく、貴族の教養ある風流として行うことではないでしょうか。この歌垣とは何かとの議論はありますが、万葉集での歌詠いの人々は基本的に氏族氏上制度や蔭位制度からの生来の身分を持つ貴族や官職を持つ官人たちと思います。多くの女流歌人もまた、宮中の侍従や女嬬のような官職を持つ官女でしょう。例えば、長忌寸意吉麻呂、高橋虫麻呂や田辺福麻呂は平安貴族の基準では小者や地下人ですが、奈良時代を通じ機能していた官人登用・考課制度の下で、七位から八位の官位を持ち、定められた職務に従事する官人です。このため、和歌の作歌や歌詠いをもっぱらとして生計を立てる人たちが社会に存在していたかどうかは不明です。なお、奈良時代の雅楽寮での職務における音頭取とは、大和歌を作歌・奉呈する「歌人」ではなく、伝承歌などを宮中儀礼で詠朗する「歌舞所の歌手」と考えます。およそ、奈良時代での「宮廷歌人」と云うような人々とは、近代の和歌詩人が作りだした幻ではないでしょうか。
 他方、飛鳥・奈良と云う時代と和歌の表記方法とを考えた時、平安中後期以降とは違い、和歌は漢字と漢語だけで表記しなければいけません。そこには行政文書を漢文で記す姿からの距離感はありません。ここで、その漢文が公式文書の言語であると云う社会的要請を踏まえて識字階層の人材と云う観点から考えますと、その時代、漢文を自由自在に駆使出来る人材が数多く存在し、朝廷が和歌を専門とするために漢字や漢語を自在に操る人材を割いたとも思えません。『続日本紀』は地方では漢文を自在に扱える人材は不足していると記しますし、不足する仏教僧侶もまた得度試験では漢語や漢文は必修でした。万葉集歌を原文から鑑賞すれば一目瞭然ですが、万葉集は漢語、漢字の素養が豊かでなければ、歌を詠うことも鑑賞することも出来ません。特に人麻呂たちが活躍した万葉集初期の作品はそうです。
 
万葉集 歌番号9
原文 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
 
万葉集 歌番号156
原文 三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍共 不寝夜叙多
試訓 三(み)つ諸(もろ)し神し神杉(かむすぎ)過(す)ぐのみを蔀(しとみ)し見つつ共(とも)寝(ね)ぬ夜(よ)そ多(まね)
 
 このような状況から、万葉集とは職業人が風流として詠った歌と公務での神事や儀式で詠われた歌とを集めた歌集と考えるのが正当ではないでしょうか。この視線から、万葉歌人である柿本人麻呂もまた職業人であったと考えます。なお、ここでの職業人とは、官職の官人であれ、民間人であれ、作歌を専業とせず、風流として作歌を嗜む人を意味します。職人や民間人などと、狭義に解釈をしていません。この立場から、ここでは「職業人としての柿本人麻呂」の姿を考察していきます。
 その職業人としての柿本人麻呂を考察するにあたって、最初に約束事を決めたいと思います。その約束事とは、次の事柄です。
 
1.柿本人麻呂は朝臣の姓(かばね)を持つ柿本の姓(せい)の人物である。
2.柿本人麻呂の時代は氏族社会が支配的で、個人の意思による職業選択や居住の自由は限られていた。
3.新撰姓氏録を氏族の主張する伝承として採用する。
4.延喜式神名帳に載る神社は個人の神社ではなく、氏族や地域が祀る神社である。
5.万葉集の歌から解釈できる柿本人麻呂の人物像を、柿本人麻呂の人物像として採用する。
 
 当たり前のような約束事と思われるかもしれませんが、普段に私達が目にする柿本人麻呂論では、ここで示した約束事が共通の認識とはなってはいません。
 例えば、遊行詩人説を唱える人は「柿本朝臣」と云う氏族の姓(せい)とその身分を示す「朝臣」の姓(かばね)を考慮せず、近江小野氏の子孫説や忌部系の猿田彦の子孫説を提唱します。また、石州益田柿本神社の関係者は益田小野氏の子孫説を提唱します。一方、新撰姓氏録と日本書紀からは柿本朝臣は和珥族(または、和爾の表記。以下、和珥の表記とする)の支族で敏達天皇の時代に庭に柿の木が生えていたことから和珥臣から柿本臣に改姓し、天武天皇の時代に特選されて朝臣の姓を頂いたことになっています。そして、この柿本朝臣は新撰姓氏録では和珥族の支族であることから柿本朝臣は天理市櫟本町治道山にある和爾下神社のゆかりの氏族となりますし、そこに柿本寺が存在したことから櫟本町付近は柿本朝臣や柿本人麻呂の本拠であろうと推定されています。
 このように先に示した約束事を認めるか、認めないかで、人麻呂論は大きく違ってきます。この約束事を認めない場合は、その立場により、いかようなる人麻呂の人物像を提供できることになります。ここでは、人麻呂論を進める上で、先に示した約束事を認める立場で議論を進めていきます。また、万葉集歌を考察する場合は、『萬葉集釋注』(伊藤博、集英社文庫)を書かれた伊藤博氏が、その萬葉集釋注で「万葉歌には、前後の歌とともに味わうことによって、はじめて真価を発揮する場合が少なくない。作者自身によってそのように組まれている場合と、編者の手によってそのように構えられている場合とがあるけれども、たった一首によって孤立するようなことは、むしろ稀である」(釋注一、五〇三頁)と述べられている観点から、万葉集の歌に歌が相互に連絡や提携を持つ可能性を認めることとします。
 ここで、先の遊行詩人説の根拠の一部となる猿田彦の子孫説について触れますと、近江地方を中心に一部の神社縁起には小野氏が忌部系の猿田彦の子孫となっているものがあります。この状況から益田小野氏の子孫説などと合わさり、人麻呂は小野氏に繋がる人物で人麻呂歌集に載る歌で詠われる全国にまたがる地名から遊行の詩人、それも古代からある遊女・踊女を伴った遊行の一員ではなかったかとの説が生まれたようです。しかしながら、歴史を調べますと、日本後紀 弘仁四年(八一三)十月丁未(廿八)の条(巻末に掲示)に見られるように、近江地方を中心に一部の神社縁起に小野氏が忌部系の猿田彦の子孫となっているものとは、桓武天皇の時代に藤原氏や桓武系百済王族が行った、桓武天皇の延暦十八年の勅命を下にした氏族の本系図の整備に伴う始祖簒奪やその結果での神田簒奪の流れに乗ったものであって、根源では和珥族である柿本氏や小野氏が忌部系の猿田彦の子孫に氏族として継がるものではありません。経済的背景をもった神田や社人略奪のために行われた先祖の改竄が由来です。それもそれが起きたのは平安時代桓武天皇の時代以降になってからと考えられるため、藤原京から平城京初期の時代に生きた人麻呂とは関係のないことです。この日本後紀の記事などを考慮すると猿田彦の子孫説は排除されることになります。

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