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職業人としての柿本人麻呂

柿本朝臣人麻呂の家族と祭祀
柿本朝臣人麻呂の妻たち
依羅の妻

 万葉集に載る集歌一四〇や集歌二二四などの歌で知られる依羅娘子は「ヨサミノヲトメ」と訓むのが習わしです。これは河内での地名「ヨサチ」を「依綱」と表記していたのが、ある時代から「依羅」へと変化した。ただ、地名の訓みは旧来のままであったことに由来するようです。また、古語の「ヨサチ」は中世の「ヨサミ」に相当します。これが「ヨサミノヲトメ」の訓みの由来とされています。なお、奈良県葛城市の柿本神社や大和高田市の八幡神社の伝承からは「イサラノヲトメ」と訓みます。
 『万葉集』にはこの依羅娘子に関わると表記された歌が三首あります。それが次の歌です。『万葉集』では、その内の集歌二二四の歌に先行して「柿本朝臣人麿在石見國時臨死時自傷作歌一首」の標題を持つ集歌二二三の歌が置かれています。そのため、集歌二二四の歌の標題「柿本朝臣人麿死時」の「死時」の言葉に注目して、人麻呂が死亡した、ちょうど、その時に依羅娘子は石見国に居なければならないとの説があります。和歌人の感性から、集歌二二四の歌は遥か彼方から追悼の挽歌を詠ったのではないとの鑑賞からです。これを論拠にしたものが「石見国那賀郡恵良郷(島根県江津市二宮町神主付近)の里の娘」説です。なお、この説では依羅娘子は「エラノヲトメ」と訓むようになります。
 一方、石見国で死んだ人麻呂の死亡通知を受けてから、奈良の都の関係者がその死を悼んでも不思議ではないとの論拠から、古代の風習に従い、娘子の出身地や所属する氏族の名を「本名」ではなく「仮名」として与え、呼称したのではないかとの説があります。これが「河内国丹比郡依羅郷(松原市天美地区付近)の娘」や「依羅連の娘」説です。この場合、河内での地名や豪族名称から「ヨサミノヲトメ」と訓みます。
 このように「依羅娘子」の呼称・訓みは、推定する出身地や伝承で、いろいろと違います。なお、万葉集鑑賞での呼称は伝統的に「ヨサミノヲトメ」を採用しています。
 
柿本朝臣人麿妻依羅娘子与人麿相別歌一首
標訓 柿本朝臣人麿の妻依羅娘子の人麿と相別れたる歌一首
集歌一四〇
原文 勿念跡 君者雖言 相時 何時跡知而加 吾不戀有牟
訓読 な思ひと君は言へども逢はむ時何時と知りてかわが恋ひずあらむ
 
柿本朝臣人麿死時、妻依羅娘子作謌二首
標訓 柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時に、妻の依羅娘子の作れる歌二首
集歌二二四
原文 旦今日ゞゞゞ 吾待君者 石水之 貝尓 交而 有登不言八方
訓読 今日今日とあが待つ君は石見し貝に 交りてありと言はずやも
 
集歌二二五
原文 直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲
訓読 ただ逢ふは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつしのはむ
 
 ここで、その追悼の挽歌を奉げられた人麻呂の死亡の状況は、どうだったのでしょうか。その死亡原因については諸説ありますが、集歌二二四の歌を挽歌として生かすには水死しかないとされています。水死説以外を採用した時、集歌二二四の歌を標題抜きで鑑賞すると、歌での「貝」や「谷」は女性の陰部を意味する隠語であることから、石見の女と同衾しているとの意味合いが生じてしまいます。つまり、倭の女からすると、石見の女に惹かれて、(歌の詠い様は女の教養よりも肉体に惹かれてとの意味合いが強い)、人麻呂の上京が予定より遅れている状況となります。そのため、古くから人麻呂は石見国で水死(または海難死)したと推定されています。
 ところが、ここで困ったことが生じます。先に紹介しましたが、集歌二二四の歌に先立ち「自傷作歌」の標を持つ集歌二二三の歌が置かれています。ただし、この人麻呂作歌の歌は、直ちに水死(または海難死)を暗示しません。山の岩陰に人麻呂が横たわっている(または、野宿している)風情です。しかし、和歌人は集歌二二三の「自傷作歌」と依羅娘子が詠う歌とを一つの歌群として鑑賞し、さらに人麻呂が挽歌を奉げた「讃岐狭峯嶋、視石中死人」の歌を重ねた時、そこに水死者の姿を見ます。(なお、注意すべきは、これは標題や他の歌群からのイメージの誘導で、集歌二二三の歌自身がそのように示しているわけではありません)
 
柿本朝臣人麿在石見國時臨死時、自傷作歌一首
標訓 柿本朝臣人麿の石見国に在りし時の臨死(みまか)らむとせし時に、自ら傷(いた)みて作れる歌一首
集歌二二三
原文 鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有
訓読 鴨山し岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹し待ちつつあらむ
 
「讃岐狭峯嶋、視石中死人、柿本朝臣人麿作歌一首」より短歌抜粋
集歌二二二
原文 奥波 来依荒磯乎 色妙乃 枕等巻而 奈世流君香聞
訓読 沖し波来よる荒磯(ありそ)を敷栲の枕と枕(ま)きて寝(な)せる君かも
私訳 沖からの波が打ち寄せる荒磯を夜寝る寝床のようにして横たわっている貴方です。
 
 ここで万葉集の編纂からの誘導に従い人麻呂の詠う集歌二二三の自傷作歌に水死者の姿を認めるとしましょう。すると、そこには、どのような状況で人麻呂は集歌二二三の歌を詠ったのかと云う問題が現れて来ます。
 何らかの事故で岸辺から水中に転落、または、海難事故に遭遇したが、人麻呂は救助された。しかし、その救助の甲斐無く死亡した。このような状況でしょうか。事故の水死や海難死は予定された死亡ではありませんし、特に海難死であれば、誰が見取ったか、また、どのように自傷作歌を記録したかが問題になります。そこを突き詰めると「予定された水死=刑死説」が浮かび上がります。やはり、人麻呂の死は「予定された死」なのでしょうか。
ここで、万葉集には「自傷」と標を与えられた歌が、人麻呂以外にもあります。それが有間皇子の「自傷」の歌です。ただ、今日では、この二首は有間皇子の自作歌ではなく、有間皇子の説話を下にした「為り代わりでの追悼の献歌」と解釈します。つまり、想像からの創作和歌ですし、歌の整い方、表記方法などが時代に対し先行し過ぎているのがその根拠です。
 
有間皇子自傷結松枝謌二首
標訓 有間皇子の自ら傷みて松が枝を結べる歌二首
集歌一四一
原文 磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
訓読 磐白(いはしろ)の浜松し枝(え)を引き結び真(ま)幸(さき)くあらばまた還り見む
私訳 磐代の浜の松の枝を引き寄せ結び、旅が恙無く無事であったら、また、帰りに見ましょう。
 
集歌一四二
原文 家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛
訓読 家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎し葉に盛る
私訳 家にいたならば高付きの食器に盛る飯を、草を枕に寝るような旅なので椎の葉に盛っている。
 
 有間皇子の「自傷」の歌を例として人麻呂の「自傷」の歌に戻ります。有間皇子のものが為り代わりでの追悼の献歌であるならば、人麻呂の「自傷」の歌もまた追悼の献歌ではないかとの推定の可能性はないでしょうか。島根県益田市戸田や山口県長門市油谷に残る伝承、柿本朝臣一族の昇叙の状況、万葉集や古今和歌集での扱い、これらの状況から推定して人麻呂が刑死したとは考えられません。それに水中への投下による刑死は律令にない刑罰法ですから、そのような処刑方法を人麻呂が刑の執行前に予測していたとする前提にも無理があります。逆に、先に「柿本朝臣と柿本朝臣佐留の子孫」で推定したように、人麻呂には朝廷への功労により死後贈位を贈られた可能性の方が強いと思われます。
 参考に、有間皇子の「自傷」の歌は刑死を悼む歌であるとの指摘があります。万葉集にそのような歌が存在するのは、予定されない突然の不慮の死亡で、その時、挽歌も奉げられなかった出来事に対して、その死を悼んで、為り代わりとして歌を詠うことで挽歌が奉げられたと解釈します。およそ、「自傷」の歌に対する解釈と括り方が違うと了解を願います。
 従いまして、人麻呂の「自傷」の歌が追悼の献歌であるならば、予定されない突然の水死(または海難死)であっても、辞世の歌が存在することは可能です。関係者が人麻呂に相応しい歌を人麻呂歌集の中から選択するか、為り代わりで作歌すれば良いことになります。集歌二二三の歌は「磐根之巻有」と表記するように岩陰で横たわっている姿を詠う歌です。献歌であれば横たわる人を水死者と考えても良いのですが、本人が死んだ本人自体を観察してそれを詠うことは出来ません。死に逝く本人の歌としては、どうも、緊迫感が無いように思われます。辞世の歌かどうかの鑑賞ですから、どこまでも議論は水掛け論になります。そのため、ここでは、集歌二二三の歌は追悼の献歌であるとさせていただきます。
 この推論が成立するとしますと、関係者が葬送の挽歌に相応しい歌を為り代わりで準備したと云う延長で、依羅娘子もまたその葬送の挽歌を本人自身で詠ったのかと云う問題に突き当たります。個人の感想ですが、人麻呂と依羅娘子との間に相聞歌がないこと、人麻呂の死後に依羅娘子が歌を詠った形跡がないこと、などを勘案して、依羅娘子の歌三首もまた為り代わりの歌と考えます。強引ですが、帰結として依羅娘子には「依羅の娘子」と云う呼称しか、残らないことになります。奈良時代、河内国丹比郡依羅郷には大和川を合わせた石川が北流していましたから、為り代わりとして準備された歌としても集歌二二五の歌の情景は河内の依羅娘子には相応しいものとなります。およそ、奈良時代に人麻呂の妻と認定された依羅娘子は、歌の設定条件からも、その時代の人々の了解では河内国丹比郡の依羅連の娘が相当となります。
 ここまで人麻呂の妻たちを見てきましたが、依羅娘子以外の女性は、人麻呂がその死を見送ったか、遥か以前に縁が切れた人です。唯一、依羅娘子が人麻呂の死を見送った女性です。それも若い妻です。その依羅娘子を河内国丹比郡の依羅連の娘として、もう少し、推理してみます。
 依羅連について、インターネットで調べてみますと、次のような記事に出会います。
 
新撰姓氏録には依羅連は日下部宿彌と同祖、彦坐命の後、百済人の素彌志夜麻美乃君より出ずる、また饒速日命十二世の孫の懐大連の後とある。大阪府松原市天美は依羅連が居住した依羅郷で、現在も依羅宿禰を祭神とする田坐神社、酒屋神社、阿麻美許曽神社がある。
万葉歌人の柿本人麻呂の妻は依羅娘子と云い、万葉集に短歌三首を載せているが、依羅娘子もやはり百済系渡来氏族の出である。
 
 一方、人麻呂は河内国丹比郡付近を題材にした歌を、次のように詠っています。
 
集歌一七一〇
原文 吾妹兒之 赤裳泥塗而 殖之田乎 苅将蔵 倉無之濱
訓読 吾妹児(わぎもこ)し赤(あか)裳(も)ひづちて殖ゑし田を刈りて蔵(おさ)めむ倉無しし浜
私訳 私の愛しい貴女の子供が赤い裳服を泥で汚して種を播いた田で、穂を刈って納めましょう。もう難波大蔵が焼け失せてしまった、その倉無の浜で。
 
 人麻呂歌集での「吾妹兒」と「吾妹子」での「兒」と「子」との用字の違いに注目すると、歌を詠った時、人麻呂と女の間には幼い子が居ます。それも幼子が赤い裳を付けています。そこから、幼子は女の子で、幼子が裳を着る衣装・風習(チマ=巻スカートと思われる)から百済・新羅系の風習を下にした一族に関わると思われます。歌で詠う「赤裳」は、「兒」の詞から想定する女の子の年齢を踏まえると、裳着などの倭の成女の祝いで着けるものや宮人が着る朝礼服である漢服からの裳裾とは違います。強引ですが、依羅娘子が新撰姓氏録に云うように百済系渡来氏族の出であれば、集歌一七一〇の歌の景色は相応しいものとなります。すると、やはり、人麻呂と依羅娘子との間に女の子が生まれていたと推定が可能となります。
 奈良県葛城市柿本の柿本神社と大和高田市根成柿の八幡神社とが、およそ一キロメートル半ほど離れた場所にあります。この柿本神社には人麻呂の恋人、依佐良姫が石見で没した柿本人麻呂の亡がら(およそ遺髪)をこの地に葬り祀ったとの伝承が残り、八幡神社にはその依佐良姫が埋葬され祀られているとの伝承があります。そして、この柿本神社と八幡神社とには、旧暦三月十八日に法要会式の際に打ち鳴らされた鉦の音「チンポンカンポン」を擬し、それを呼び名とした「チンポンカンポン」祭が行われています。不思議なことにこの旧暦三月十八日は石州益田の戸田柿本神社と武州川越の氷川柿本人麻呂神社の祖神柿本人麻呂を祭る縁日と同じ日です。ほぼ、「チンポンカンポン」祭は柿本人麻呂の慰霊祭と考えて良いと思います。
 ここから憶測に妄想を重ねますが、官人柿本朝臣人麻呂は石見国で公務において海難死したものと考えます。官人の遭難死ですから、遺髪・遺品がその証として朝廷に事故顛末書と共に届けられたと思われます。朝廷の検証後に、その遺髪・遺品は朝廷からの賻物とともに嫡子の柿本朝臣建石に下し置かれ、一部の遺髪が最後の妻である依羅娘子に分け与えられたと推定します。それで遺髪を収めた天理市櫟本の柿本廃寺と葛城市柿本の柿本神社とが存在する理由と考えます。
 依羅娘子は人麻呂の死後、子と共に葛城市柿本に引き取られたか、女の子が柿本一族と婚姻し、依羅郷から葛城市柿本へ移り住んだと思われます。依佐良姫の「姫」の語感からは母親依羅娘子ではなく、贈従三位柿本朝臣左留(人麻呂)の娘、依佐良姫の姿が想像されます。
 

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