墨子を読む 大取・小取

墨子  第三類後二編 現代語訳
「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠
墨子の思想への理解を進めるために、第三類小取篇の現代語訳だけを紹介します。この第三類六篇は経篇上、経篇下、経説篇上、経説篇下、大取篇、小取篇の六編です。ここでは、大取篇と小取篇を載せます。なお、大取篇は言葉と論理を短文で解説するものですから、原文と現代語訳を対で紹介します。

《大取》:現代語訳
1.《原文》
天之愛人也、薄於聖人之愛人也、其利人也、厚於聖人之利人也。大人之愛小人也、薄於小人之愛大人也、其利小人也、厚於小人之利大人也。
《現代語訳》
天が人を愛しむことについて、聖人が人を愛しむことよりも広く覆い、天が人に利をあたえることについて、聖人が人に利を与えることよりも、隅々まで行き渡らせる。大人が小人を愛しむことについて、小人が大人を愛しむよりも広く覆い、大人が小人に利を与えることについて、小人が大人に利を与えるよりも、隅々まで行き渡らせる。

2.《原文》
以藏為其親也、而愛之、非愛其親也。以藏為其親也、而利之、非利其親也。以楽為利其子、而為其子欲之、愛其子也。以楽為利其子、而為其子求之、非利其子也。
《現代語訳》
「藏」、黃帝称歸藏をその人の親とするときに、この黄帝を愛しむからといっても、その人の親を愛しむことにはならない。「藏」をその人の親とするときに、この「藏」に利を与えたからといっても、その人の親に利を与えることにはならない。「楽」、晋大夫の樂王鮒に対して、その大夫である「楽」に利(賄賂)を与えるとして、利(賄賂)を求めるその大夫である「楽」に利(賄賂)を行えば、その大夫である「楽」を愛しむこととなる。「楽」に対し、その「楽」の子供に利を与えるとしても、しかし、利を求めるその「楽」の子供に利を与えても、その大夫である「楽」に利を与えることにはならない。

3.《原文》
於所體之中、而権軽重之謂権。権、非為是也、非非為非也。権、正也。断指以存腕、利之中取大、害之中取小也。害之中取小也、非取害也、取利也。其所取者、人之所執也。遇盜人、而断指以免身、利也、其遇盜人害也。断指與断腕、利於天下相若、無擇也、死生利若、一無擇也。殺一人以存天下、非殺一人以利天下也。殺己以存天下、是殺己以利天下。於事為之中而権軽重之謂求、求為之、非也、害之中取小、求為義非為義也。
《現代語訳》
「體」は、「併せた一体のものから、分割されたもの」と言う定義にあり、その分割されたものの中にあることがらに於いて、そのものごとの軽重を計ること、この行為を「権」と定義する。「権」とは、なにごとかを行うこと自体では無い。「非」と言うことがらは、ものごとを謗ることではない。「権」とは「正」、「義を行うことに相反することがらが無いこと」である。指を切断して、なお、腕が残ることは、利の中に大を選択し、害の中に小を選択したのである。害の中に小を選択したことは、害を選択したことでは無く、利を選択したのである。その選択したことがらのものとは、人が選択することがらであり、盗人に遭遇し、指を切断することで身が傷害から免れることは利であり、その盗人に遭遇すること自体は害である。指を切断することと腕を切断することについては、天下を利することがらとは似たようなものであり、選択するような話では無く、死生を選択する時の利のようなもので、どれも選択するようなことでは無い。一人の人を殺して天下に居ることとは、一人の人を殺して天下に利を与えることでは無い。己を殺すことで天下があることとは、これは己を殺すことで天下に利を与えるものである。ものごとを行う中において、そのものごとの軽重を計ること、この行為を「求」と定義するが、ものごとを行う中にこの「求」の行為を求めることは、(例えば、「正」を行う場合では、)「非」の行為となる。害の中に小を選択することとは、正義を行うことを願うが、その正義を行うこと自体では無い。

4.《原文》
為暴人、語天之為是也而性、為暴人、歌天之為非也。諸陳執既有所為、而我為之陳執、執之所為因、吾所為也。若陳執未有所為、而我為之陳執、陳執因吾所為也。暴人為我為天之。以人非為是也、而性不可正而正之。
《現代語訳》
暴力を人に行う、この天子の子孫の行いが是であるとして、その天子の子孫の生まれながらの悪の気質を語ることは、暴力を人に行う、この天子の子孫の行いが非であると唱えることである。いろいろなものごとに対して、それへの言論陳述で既に為された提案・主張は多々あるが、私自身で天子の子孫の性について言論陳述を行えば、この言論陳述を行ったことにより理由付けられ、私の論説がその天子の子孫の性について行った提案・主張となる。もし、その言論陳述について未だに行った提案・主張が無いのであれば、それについて私自身でそのことについて言論陳述を行えば、その言論陳述は私が行った提案・主張として理由付けられる。人に暴力を行うという行為が、それは天子の子孫の為に、私である臣下が行ったとすることは、他の人に行わせた行為を非とすることにより、天子の子孫自身が命じて行わせた行為は是とすることとなる。天子の子孫の生まれながらの気質は矯正することは出来ないが、生まれながらの気質からの悪の行いは正さなければいけない。

5.《原文》
利之中取大非不得已也、害之中取小、不得已也。所未有而取焉是利之中取大也、於所既有而棄焉、是害之中取小也。
《現代語訳》
利の中に大を選択することは止む終えないことではなく、害の中に小を選択することは止む終えないことである。未だ実現できていないことがらに対して、それを選択することとは、この選択は利の中で大を選択することであり、既に実現していることがらに対して、それを破棄することとは、これは害の中に小を選択することである。

6.《原文》
義可厚、厚之、義可薄、薄之。謂倫列。德行、君上、老長、親戚、此皆所厚也。為長厚、不為幼薄。親厚、厚、親薄、薄。親至、薄不至。義厚親、不稱行而顧行。
《現代語訳》
正義を行うことを隅々まで行き渡らせることが出来るのなら、これを行き渡らせ、正義を行うことを広く覆い被せることが出来るのなら、これを広く覆い被せる。「倫列」と定義するものは、德行、君上、老長、親戚、これらは、皆、行いを隅々まで行き渡らせることがらである。長のために行いを隅々まで行き渡らせるが、幼のために行いを広く覆い被せることはしない。親への孝の行いが隅々まで行き渡らせられるなら、隅々まで行き渡らせ、親への孝の行いが広く覆い被せるなら、広く覆い被せる。親しみは極まり、軽んじは極まらない。義を親に隅々まで行き渡らせることとは、義を行う、その高を量ることをせずに親を気に掛けるようなことを行うことである。

7.《原文》
為天下厚禹、為禹也。為天下厚愛禹、乃為禹之人愛也。厚禹之加於天下、而厚禹不加於天下。若悪盜之為加於天下、而悪盜不加於天下。
《現代語訳》
(禹王は)天下の為に、禹の国にものごとを隅々まで行き渡らせたこととは、禹の国の為にしたことである。(禹王が)天下の為に、隅々まで行き渡らせ禹の国を愛しむのは、これは禹の国の人々を愛しんだためである。禹の国の為に天下になにごとかを施すことを隅々まで行き渡らせることとは、禹の国に隅々まで行き渡らせるのだが天下に施すことを為すことではない。これは、盗賊の為に天下になにごとかを施すことを嫌うが、だからといって、盗賊を憎むことを天下に施さないようなものだ。

8.《原文》
愛人不外己、己在所愛之中。己在所愛、愛加於己。倫列之愛己、愛人也。
《現代語訳》
人を愛しむ行為に己自身を除外せず、己自身も愛しむことがらの中にある。己自身が愛しむことがらにあり、愛しみは己自身に施される。「倫列」にあって、己自身を愛しむこととは、人を愛しむことなのだ。

9.《原文》
聖人悪疾病、不悪危難。正體不動、欲人之利也、非悪人之害也。
《現代語訳》
聖人とは、己への疾病を嫌い、己への危難を嫌うわけでもなく、己の身体を正しくして動ぜず、他人に利を与えることを願い、他人がなにごとかを妨げることを嫌うわけでもない。

10.《原文》
聖人不為其室藏、之故在於藏。
《現代語訳》
聖人はその家に引き込ることをしない、その理由は、論語の「用之則行、舍之則藏(用いられたら行い、捨てられたら引きこもる)」に示す「藏」の言葉の意味にある。

11.《原文》
聖人不得為子之事。聖人之法死亡親、為天下也。厚親、分也、以死亡之、體渴興利。有厚薄而毋倫列之興利、為己。
《現代語訳》
聖人は、子として親に仕えることを行うことが出来ない。聖人が法に死して、親に仕えることを忘れることは、天下の為に法を行うためである。親に孝を厚くするのは本分であるが、すでに親が死んでいれば、親の死を忘れ、己が身を尽くして天下の利を興す。聖人の行うことがらは天下の隅々まで行き渡り広く覆うが、(君上、老長、親戚が対象の)倫列は天下の利を興すことは無く、この倫列は己の為に行うことがらである。

12.《原文》
語経、語経也。非白馬焉、執駒焉。説求之、舞説非也、漁大之舞大、非也。
《現代語訳》
語経について、「語経」の定義とは、説論にあって、(狭い範囲となる)白馬を扱うのではなく、(大系となる)駒を扱うようなもの。説論があればその論拠を求めるが、説論自体を弄ぶことをしてはいけない、大系を探し求めても大系自体を説論で弄ぶことはしてはいけない。

13.《原文》
藏之愛己、非為愛己之人也。厚不外己、愛無厚薄。挙己、非賢也。義、利、不義、害。志功為辯。
《現代語訳》
黃帝称歸藏が己自身を愛しむと言うことは、己自身を愛しむ人と言うことでは無い。なにごとかを隅々まで行き渡らせることをすることは、そのことから自分自身を外に置くことではなく、愛しむ行為自体には、愛しみを隅々まで行き渡らせることや広く覆うことへの限度は無い。己自身を持ち挙げることは、賢者の行いではない。正義は利であり、不正義は害である。国を定めることに努力する志は国を治める。

14.《原文》
有有於秦馬、有有於馬也、智来者之馬也。
《現代語訳》
秦の馬を保有することがらが有ることは、馬を保有することがらが有るということで、来客の馬の種類を知ることである。

15.《原文》
愛衆衆世與愛寡世相若、兼愛之、有相若。愛尚世與愛後世、一若今之世人也。鬼、非人也、兄之鬼、兄也。
《現代語訳》
大衆を愛しむ、その人々が衆である社会と、寡少を愛しむ、その人々が寡である世界とは、似たようなものであり、互いに尊重し愛しむことを行うことも、また、似たようなものである。過去の世を愛しむことと、未来の世を愛しむこととは、共に今の世の人のようなものである。祀る鬼神は人ではないが、祀る兄の霊魂は兄の事である。

16.《原文》
天下之利驩、聖人有愛而無利。俔日之言也、乃客之言也。天下無人、子墨子之言也猶在。
《現代語訳》
天下は喜びを利に見出し、聖人は愛しむことを行うが、人に利を与えることをしない。例えてこのことを言う言葉に、「それは評論の言葉である。」と。「天下に有能な人材は居ない。」とは、子墨子の言葉であるが、それでも、天下に人は居る。

17.《原文》
不得已而欲之、非欲之非欲之也。非殺藏也。專殺盜、非殺盜也。凡学愛人。
《現代語訳》
止む終えないことによりこれを求めたはずが、これを求めたのではないとすることは、そもそも、最初からこれを求めたことが非である。黃帝称歸藏への敬意を失うことは、受け入れないことがらである。ひたすら、盗賊を罰することとは、盗賊を殺すことでは無い。皆は人を愛しむことを学ぶ。

18.《原文》
小圓之圓、與大圓之圓同。方至尺、之不至也、與不至鐘、之至、不異。其不至同者、遠近之謂也。
《現代語訳》
小さな円の円形と大きな円の円形は、円形の形では同じである。物の長さがおよそ一尺だとしても一尺に届かないことと、鐘の場所にちょうどに至らないとしても鐘のある場所に至るとすることを比べると、その理解に異なるところがない。その至らないことが至ると同じこととの理解は、距離での遠近の程度の理解のことを言う。

19.《原文》
是璜也、是玉也。意楹、非意木也、意是楹之木也。意指之人也、非意人也。意獲也、乃意禽也。志功、不可以相従也。
《現代語訳》
是は璜、佩玉であり、是は玉である。柱を意識することは、樹木を意識することでは無く、是の柱に木材を意識することである。指さす人を意識することとは、その指さす、その人を意識することでは無い。獲物を意識することとは、つまり、禽獣を意識することである。国を定めることに努力することを志すとしても、それを後ろから付き従うことは困難だ。

20.《原文》
利人也、為其人也。富人、非為其人也、有為也以富人。富人也、治人有為鬼焉。
《現代語訳》
人に利を与えることは、その人の為である。人を富ませることは、その人に行わず、なにごとかを行うことが有って、それによりその人を富ます。この、人を富ませることと同じように、人を治め、鬼になにごとかを行うことが有るだろうか。

21.《原文》
為賞誉利一人、非為賞誉利人也、亦不至無貴於人。智親之一利、未為孝也、亦不至於智不為己之利於親也。智是之世之有盜也、盡愛是世。智是室之有盜也、不盡是室也。智其一人之盜也、不盡是二人。雖其一人之盜、苟不智其所在、盡悪其弱也。
《現代語訳》
褒賞名誉が特定のある人に利を与えることを行っても、褒賞名誉が(一般名称の)人に利を与えることでは無く、また、人の身分を貴しとしない訳でもない。親がある利を知っていても、まだ、孝行が為された訳でもなく、また、自分自身のために孝行をしないのは親に利を与えることを知らない訳でもない。この世の中に盗賊が居ることを知っていても、それでもこの世の中を愛しむ。この屋敷の内に盗賊が居ることを知っていても、この屋敷全体を盗み尽くされることではない。ある人が盗賊なのを知っていても、屋敷に盗賊した者と知る盗賊の者の二人だけが世の盗賊全員ではない。その盗みをした一人の盗賊の、その住む居所を知らないとは言え、皆が憎めばその盗賊は気が弱るであろう。

22.《原文》
諸聖人所先、為人欲名實。名實不必名。苟是石也白、敗是石也、盡與白同。是石也唯大、不與大同。是有便謂焉也。以形貌命者、必智是之某也、焉智某也。不可以形貌命者、唯不智是之某也、智某可也。諸以居運命者、苟人於其中者、皆是也、去之因非也。諸以居運命者、若郷里齊荊者、皆是。諸以形貌命者、若山丘室廟者、皆是也。
《現代語訳》
もろもろの聖人がまず先に行うことがらとは、人のために名実を明らかにすることである。名実は必ず名では無い。今、ここに石の外見は白く、是の石を砕くと、その欠片はことごとく白と同じくなる。是の石は大きいと言っても、ものごとの大と同じではない。是の認識には弁えがあって、石の大きさが大きいと言うのである。形状や容貌によりその名を指し示すものは、必ず是がなにがしであることを事前に知っていて、そして、是がなにがしであることを知る。形状や容貌によりその名を指し示すことができないとき、そのなにがしは、是がなにがしであることを知らなくても、是がなにがしであることを知れば、その名を指し示すことは出来る。もろもろの住居や移住により名を指し示すなにがしは、今、その住居に暮らす人ということがらであり、皆、その土地に暮らす人である。その土地を去れば、その土地の人ではない。もろもろの住居や移転により名を指し示されたことがらとは、郷里、斉国、荊国などの区別のようなもので、皆、その土地に暮らす人である。もろもろの形状や容貌により名を指し示されたことがらとは、山、丘、舎室、宗廟のようなもので、皆、是により名を指し示す。

23.《原文》
智與意異。重同、具同、連同、同類之同、同名之同、丘同、鮒同。是之同、然之同、同根之同。有非之異、有不然之異。有其異也、為其同也、為其同也異。一曰乃是而然、二曰乃是而不然、三曰遷、四曰強。
《現代語訳》
智と意は異なる。おなじように、「重同」、例えば、狗と犬は二物で一つの同じ意味の名を重ね持つ、「具同」、例えば、具は俱であり、兄弟はたまたま(=俱的)生まれで親を同じくする、「連同」、例えば、連続する数字の名前の扱いが同じ、「同類の同」、「同名の同」、「丘同」、例えば、丘の姿は同じ、「鮒同」、例えば、小魚のような小者は同じ、「是の同」、「然の同」、「同根の同」、これらの「同」の区分が有る。また、「非」の言葉には複数の異なる区分が有り、「然」の言葉に複数の異なる区分が有る。言葉の中にそれぞれの異なる区分と同じくする区分とが有るが、其の同じくする区分は異なる。一に言うには、「すなわち、是、すなわち然り。」があり、二に言うには、「すなわち、是、すなわち然らず。」があり、三に言うには、「遷(変易)」、つまり、「あるいは、周くし、あるいは、周せず。」があり、四に言うには「強(入れ替える)」、つまり、「あるいは、是、あるいは、非。」との、四つの異なる区分がある。

24.《原文》
子深其深、淺其淺、益其益、尊其尊。察次山比因至優指復、次察聲端名因請復。正夫辭悪者、人右以其請得焉。
諸所遭執、而欲悪生者、人不必以其請得焉。聖人之附瀆也、仁而無利愛。
利愛生於慮。昔者之慮也、非今日之慮也。昔者之愛人也、非今之愛人也。愛獲之愛人也、生於慮獲之利、非慮藏之利也。而愛藏之愛人也、乃愛獲之愛人也。去其愛而天下利、弗能去也。昔之知墻、非今日之知墻也。
貴為天子、其利人、不厚於正夫。二子事親、或遇孰、或遇凶、其親也相若、非彼其行益也、非加也。
外執無能厚吾利者。籍蔵也死而天下害、吾持養藏也萬倍、
吾愛藏也不加厚。
《現代語訳》
賢者は深きを深きと認識し、浅きを浅きと認識し、益を益と認識し、尊を尊と認識する。さらに山の類の起因を考察すると、その余りあるものが示すものに応え、さらに言葉を出して示す名の由来を考察すると、その問いかけることに応える。言葉が過ぎる、そのことを正すことがらには、人の勧めによりその問いかけることに応える。
もろもろの執着することがらで、欲望や憎悪を生むものを、人は必ずしも執着することがらを求めることにより得たのではない。聖人が便益の機会を人に与えることは、仁の行いではあるが、そこに利を与え、愛しみを為す直接の行為は無い。
利と愛しみは南蒯臣慮癸の行いに生まれ、昔のこの慮癸と今日の慮一族とは違う。昔の人を愛しむことと、今の人を愛しむこととは違う。宋大夫尹獲が賄賂を渡した人を愛しむ、その実利の愛しみは、慮癸が魯国を保つと言う利を得たことがらに生まれたが、慮癸の忠義の愛しみの行いは黃帝称歸藏の利の行いとは違う。つまり、黃帝が人を愛しむ、その愛しみは、すなわち尹獲が賄賂を渡した人を愛しむ、その実利の愛しみである。尹獲はその愛しみを行い、天下に利を与えことの、その行いが出来なかった。昔の惠墻伊戾の出来事を知ることとは、今日の墻一族を知ることでは無い。
黃帝称歸藏は貴いことに天子となり、その黃帝が人に利を与えるも、正妻には利は厚くしなかった。正妻の二人の子供は親に仕えたが、あるいは豊作に遭い、あるいは凶作に遭い、その親と同じような行いをなすが、二人のその行いは、利を益すことは無く、利を施すことも無かった。
外的な要因により、私が利を与えることを隅々まで行き渡らせるようなことをしない。仮に、黃帝のような天子を失い、それにより天下に害があるのなら、私が黃帝のような天子を殊更に誉め讃えることは万倍も行うが、だからと言って、私が黃帝のような天子を愛しむことに、特段に世の隅々まで行き渡らせるような行いを施すつもりはない。

25.《原文》
長人之異、短人之同、其貌同者也、故同。指之人也與首之人也異、人之體非一貌者也、故異。将剣與挺剣異。剣、以形貌命者也、其形不一、故異。楊木之木與桃木之木也同。諸非以挙量數命者、敗之盡是也。故一人指、非一人也、是一人之指、乃是一人也。方之一面、非方也、方木之面、方木也。
《現代語訳》
華人にとって、長人は背丈が異なり、短人は背丈が華人と同じであるが、その人が顔を持つことは同じであるから、同じである。人の指と人の首とは異なり、人体にあって人は一つの容貌の者とはならないから、異なる。楊木の木と桃木の木は木の区分では同じである。もろもろのことがらにより、量や数を取り上げてそれをそれとして指し示すものでなければ、そのものを毀てば、(岩を砕いて石としたときの石の種類のように)ことごとく、そのものと同じとなる。このために、ある人の指とは、すなわち、ある人の指である。方形の一面には方形での概念は存在するが面と云う実態はなく、方木の面には方木の概念と面の実態が存在する。

26.《原文》
三物必具、然後足以生。夫辭以故生、以理長、以類行也者。立辭而不明於其所生、妄也。今人非道無所行、唯有強股肱而不明於道、其困也、可立而待也。夫辭以類行者也、立辭而不明於其類、則必困矣。
故浸淫之辭、其類在於鼓栗。聖人也、為天下也、其類在於追迷。或壽或卒、其利天下也指若、其類在誉石。一日而百萬生、愛不加厚、其類在悪害。愛二世有厚薄、而愛二世相若。其類在蛇文。愛之相若、擇而殺其一人、其類在阬下之鼠。小仁與大仁、行厚相若、其類在申。凡興利除害也、其類在漏雍。厚親、不稱行而類行、其類在江上井。不為己之可学也、其類在獵走。愛人非為誉也、其類在逆旅。愛人之親、若愛其親、其類在官茍。兼愛相若、一愛相若。一愛相若、其類在死也。
《現代語訳》
辭、理、類の三物は必ずすべて揃って、その後に論理を成立させることが出来る。辭說を立てることにより典故は生じ、理屈を立てることを常とし、類型を立てることにより論理は行うものである。辭說を立てて、その辭說の論拠を明らかに出来ないのなら、その辭說は妄論である。今、人は道理に従わなければ行えることがらは無く、君子の屈強な股肱であっても行いの道理が明らかでなければ、その行いの是非の判断に苦しみ、立ち止まって道理の是非を待つであろう。辭說は類型を用いて行うもので、辭說を立ててその類型の説くところが明らかでなければ、きっと、必ず弁証に苦しむであろう。
辭、理、類の三物のすべてが揃って、その後に論理を成立させることが出来るのであるから、妄論に没するような辭說、是のような類の辭說は(辭說を説く相手の君王の)権威を忖度するものである。聖人が天下に辭說を為すこととは、その類は「或は」の可能性を追うことにある。人の死の考察で、それは、或は寿命、或は死亡のようなもので、その聖人の辭說が天下に利を与えることは天意のようなものであり、その類の辭說は聖人を誉める言葉を刻んだ石に残る。妄論に没するような浸淫の辭は僅か一日でも百万言は生まれるが、浸淫の辭は、それにより愛しみを隅々まで行き渡らせることを施さず、その類の辭說の説くところは害を除くことにある。天子たる黃帝のその二世の子を愛しむことは隅々まで行き渡らせるものと広く覆うものとがあり、その二世の子たちを愛しむことは等しく、その聖王の事績を説くような類の辭說は城上の重門の扁額にある。子たちを愛しむことは等しく行うが、その子たちの中から選んで一人を罰する、その類の辭說は大門の下での辱め(公開処刑)にある。小なる仁と大なる仁の、その行いが隅々まで行き渡ることの本質を敬うことを説く辭說の、その類の辭說は神を敬うところにある。およそ、利を興し、害を取り除くことを説く辭說の、この類の辭說は神祐への理解を漏らすところがある。親に孝行を隅々まで行き渡らせることを説く辭說は、孝行の高を量ることをせずに親を気に掛けるようなことを行うことを説き、その類の辭說は川の水の上に井戸があるようなものだ。己の為にしないことを学ぶべきかどうかを説く辭說の、その類の辭說は野を獣が走り回るようなものである。人を愛しむことを行うことは名誉を為すためなのかどうなのかを説く辭說は、その類の辭說は人々の思いに渡るところにある。人の親を愛しむことは、その人の親を愛しむかのようにすることを説く辭說の、その類の辭說は君に仕えることをもっぱらにするようなことにある。互いに尊重し愛しみを行うことの本質を敬うこととは、誠に愛しみの本質を敬うことであり、その誠に愛しみの本質を敬うことを説く辭說の、その類の辭說は論を尽くすところにある。


《小取》:現代語訳
弁論とは、その弁論により是非の分別を明らかにし、治乱での規範の詳細を明らかにし、ものごとでの同と異とのことがらを明らかにし、名と実との理屈を考察し、利と害とを処断し、嫌疑を判決することにある。つまり、万物が、それがそれであることを取り上げて規定し、もろもろの弁説の類を論じ究めることにある。ものごとの名により実を指し示し、弁論により意見を述べ、論説により故実を提示し、類似により意見論説を選択し、類型により意見論説を互いに推薦する。この弁論の術を己の身に付け、この弁論の術をある人が身に付けていないときはその人を非難せず、この弁論の術が己の身に付いていない場合は、この弁論の術を使うことを人に求めない。
(この弁論の術における、)「或」の定義とは、尽くし切らないことである。「假」の定義は、今、それがそうでは無いことである。「効」の定義とは、「効」が規定として機能することであり、「効」が規定として機能することがらとは、ものごとに対して規定を行うことが出来ることがらである。このため、ものごとに「効」、規定が適用されれば、これは是であり、「効」、規定が適用されなければ、すなわち非である。この是非の判断が「効」の機能である。「辟」の定義とは、そのもの自体とは別のものを指し示して、それよりそのものを明らかにすることである。「侔」の定義とは、これとそれとを比較して弁説を行い、それによりそれぞれを明らかにすることである。「援」の定義とは、これを説明して言うことには、「子墨子が、これがこれである」とすることに対し、己だけが独り、「違う、これがこれである」と他の弁説を全くに拒絶することをしてはいけないとすることである。「推」の定義とは、ある「ものごと」にあって、その、「ものごと」で思索しなかったことがらと、「ものごと」で思索したことがらとを、同じように扱い、この「ものごと」の思索を進めることである。このことは、「なお、謂うが如とし(それでも、指摘したものと同じだ)」とすることがらと、同様である。ただ、「吾、豈、謂はむや(私が、どうして、そのようなことを指摘できるのか)」とは違う。
物性はそれ自体により同一とするが、だからと言って物性は同一であると唱えることを、直ちに採用することは出来ない。弁(言葉)に同一性があるとは、「弁」に極めるなにごとがあり、そしてなにごとかを正すことである。「其」がそうであるということとは、「其」がそうであるという理由があり、その「其」がそうであるということと同じであっても、その「其」がそうである理由と、必ずしも同じではない。そのことがらから、「是」を取り除く行為について、その「是」を取り除く行為には理由があり、そのことがらから「是」を取り除いたその結果が同じであっても、そのことがらから「是」を取り除いた理由と、必ずしも同じではない。このような理由で、「辟」、「侔」、「援」、「推」の弁論の術について、「辟」にあっては、これと違うものとを比べることを行うが、その判定は異なり、「侔」にあっては、これとそれとの比較を行うが、判定が正しくなく、「援」にあっては、その弁論がものの本質から離れ、そして、弁論自体がその本質を失い、「推」にあっては、弁論の術に流れ、そして本質から離れることがあり、そのため、弁論を行うにあっては、その弁論の詳細を明らかにしない訳にはいかず、弁論の術を常に用いることは出来ない。このような理由により、言葉には多くの文飾があり、多様な類があり、異なる事柄がある、そのために偏見・先入観を持つような偏った見方をしてはいけない。つまり、ものごとには、「あるいは、これは是であり、それで、これはこの通りである。」、「あるいは、これは是であるが、これはこの通りではない。」、「あるいは、あるものごとを広く行き渡らせ、あるものごとは広く行き渡らせない。」、「あるいは、あるものごとは是であり、あるものごとは非である。」、このような四つの弁論の術がある。
(例えば、「あるいは、これは是であり、それで、これはこの通りである。」の弁論の術では)、白馬は馬である。白馬に乗ることは馬に乗ることである。驪馬(黒毛の馬)は馬であり、その驪馬に乗ることは馬に乗ることである。宋大夫尹獲は人であり、その尹獲を愛しむことは、人を愛しむことである。黃帝称歸藏は人である、その黃帝を愛しむことは、人を愛しむことである。この弁論は受け入れられるものであり、この弁論の展開は、それがそうであるとするものである。
(例えば、「あるいは、これは是であるが、これはこの通りではない。」の弁論の術では)、宋大夫尹獲の親は人であり、その尹獲がその親に仕えることとは(一般名称の)人に仕えることではない。その弟は良き人である。その弟を愛しむことは麗人を愛でることではない。車は木で作られている。その車に乗ることは木に乗ることではない。船は木で作られている。船に乗り込むことは木に入ることではない。盗賊は人である。盗賊が多いことは人が多いことではない。盗賊がいないこととは人がいないことではない。どのような方法で、この違いを明らかにすれば良いのであろうか。盗賊が多いことを嫌うこととは、人が多いことを嫌うのではなく、盗賊がいないことを願うことは、人がいないことを願うことではない。世の人々はこれらの弁論の展開に賛同し、この弁論の術を受け入れるであろう。もし、この弁論の展開を使うとすると、盗賊と言っても人は人ではあるが、盗賊を愛しむことは人を愛しむことではない。盗賊を愛しまないことは人を愛しまないことでは無く、盗賊を殺すことは人を殺すことではない、この弁論の展開には問題は無いだろう。ここで、この弁論とその弁論とがここで示す弁論の術と類を同じとするとき、世の中に、ある弁論が存在することに因り、自らの弁論は受け入れられるとするが、墨学の者は、このような他の弁論が存在することに因り自動的に自説が受け入れられるとすることについて、その弁論の展開は受け入れられないとする。この主張には矛盾がない。つまり、弁論に対して仲間内に慣れ親しみ、外には内輪の弁論に引き籠り、それにより、弁論の中身に弁を尽くすことは無く、仲間内に慣れ親しみ、そこから抜け出すことは無い。この世上の観察自体は受け入れられるものではあるが、しかしながら、弁論ではそうであってはいけないものごとである。
(例えば、「あるいは、あるものごとを広く行き渡らせ、あるものごとは広く行き渡らせない。」の弁論の術では)、書を読むという表現は、書というもの自体を示してない。書を読むことを好むという表現は、書に親しむことを好むことを示している。雞の本義から、暁に鶏の声を聴くとの表現は鶏というもの自体を示してない。暁に鶏の声を聴くことを好むという表現は、暁の雰囲気を好むことを示している。また、深みに入ろうとする表現は、深みに入ることを示してない。また、深みに入ろうとすることを止めるとの表現は、深みに入ることを止めることを示している。また、門から出ようとするという表現は、門から出ることを示してない。また、門から出ようとすることを止めるという表現は、門から出ることを止めることを示している。もし、この弁論の展開を使うとすると、また、夭折、死ぬであろうとの表現は、死ぬこと自体を示しておらず、これから寿命で死ぬというような表現である。命が有るという表現は、命令があることとは違い、有命を執る(上司の命令を行う)ことを非とする表現とは、命令を非とすることを示すことである。ここにこの弁論の展開について問題はない。ここで、この弁論とその弁論とがここで示す弁論の術と類を同じとするとき、世の中に、ある弁論が存在することに因り、自らの弁論は受け入れられるとするが、墨学の者は、このような他の弁論が存在することに因り自動的に自説が受け入れられるとすることについて、その弁論の展開は間違いだとして、受け入れられないとする。この主張には矛盾がない。つまり、弁論に対して仲間内に慣れ親しみ、外には内輪の弁論に引き籠り、それにより、弁論の中身に弁を尽くすことは無く、仲間内に慣れ親しみ、そこから抜け出すことは無い。弁論では、このことは受け入れられないものであり、また、このようなことがあってはいけないことである。
(例えば、「あるいは、あるものごとは是であり、あるものごとは非である。」の弁論の術では)、人を愛しむという表現は、余すところなく人を愛しむ行為の結果を待ち、そしてその後に人を愛しむことを示す。人を愛しまないという表現は、余すところなく人を愛しまないと言う行為の結果を待たなくても、愛しむ行為について余すところなく行為をしていないことを示す。このことに因り、人を愛しまないと表現する。馬に乗るという表現は、余すことなく馬に乗る行為の結果を待たずに、既に馬に乗る行為を行っていることを示す。馬に乗るという表現が有れば、このことに因り馬に乗ることを示す。馬に乗らないという表現にこの弁論を広げると、余すところなく馬に乗らないという行為の結果を待ち、その後に初めて、馬に乗らないことを示すことになる。この弁論からは、あることがらについては「余すところなく行為を行い」、また、あることがらについては「余すところなく行為を行わない」ということになる。
(また、文章を踏まえた推論を求める表現では、)国に居るという表現は、つまり、その国に居るという行為を示している。屋敷を国に保有するという表現は、その国を保有する行為を示していない。桃の実という表現は桃のことを示し、棘(草杉蔓)の実という表現は棗のことを示してない。人の病を質問するという表現は、その人のことを質問する行為を示すことであり、その人の病を嫌うという表現は、その人を嫌うことを示していない。神祀りする、その人の霊魂は人ではないが、兄の霊魂は兄のことを示す。人が鬼神を祀るという表現は、人を祀ることを示していないが、兄の霊魂を祀るとの表現は、それは兄を祀ることを示す。この馬の目が眇目と表現すれば、すると、この馬は馬眇と区別することを示し、この馬の目が人の目よりも大きくても、それでもこの馬の目は大きいとは表現しない。この牛の毛色が黄色であれば、すると、この牛は黄色と表現し、この牛の毛が人よりも多くても、それでもこの牛の毛が多いとは表現しない。一匹の馬は馬であり、二匹の馬も馬である。馬が四つ足との表現は、一匹の馬であっても足は四足であることを示し、二匹の馬だからとしても人二人とは違い四足ではないのであり、一匹の馬は馬である。馬が、「あるいは白い」という表現とは、二匹の馬がいて、そして、「あるいは白い」という表現のことである。一匹の馬だけで、そして、「あるいは白い」という表現はしない。このこととは、すなわち弁論にあって、ある表現を行うことは受け入れられるが、また一方、ある表現を行うことは、場面により、そのある表現は受け入れられないこととなる。


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