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長屋王を再評価する

 以前に「万葉時代の北宮を考える」と言うテーマで、奈良時代の長屋王の大王(太政大臣)就任説を紹介しました。また、「日本書紀の基礎 日本紀私記序(弘仁私記序)を読む」と言うテーマで現在に伝わる日本書紀や続日本紀が桓武天皇や嵯峨天皇の時代以外の人にとって、それが正しい正史であるかどうかは不明であることも紹介しました。ここではおさらいになりますが、もう一度、「万葉時代の北宮を考える」と言うテーマについておさらいをして見ます。
 昭和五十年(1975)に奈良市尼ヶ辻町の郵便局予定地から平城京時代の宮跡庭園(現在の名称、北宮宮跡庭園)が完全な姿で発掘されています。そして、この遺跡のA期からは宮跡庭園だけでなく平城宮出土軒瓦編年によるI期及びⅡ期と同じ軒瓦や北宮、中務省等と書かれた木簡などが出土しています。その後、昭和六十三年(1988)に長屋王宮跡から長屋王家木簡が発見され、その中に北宮と記す木簡群が見つかり、一躍、平城京における北宮の重要性が注目されました。なお、この北宮宮跡庭園については長屋王家遺跡が発見される四年前の昭和五十九年に、当時としてはより重要な聖武天皇・孝謙天皇に因む天平後期となるB期を重視して宮跡庭園が整備されたようで、現在の庭園とその説明と昭和五十一年の奈良国立文化財研究所の概報の内容が完全に一致するものではありません。
 長屋王家木簡の発見から、その存在が再注目された北宮は、歴史におけるその存在の重要性に反して、奈良時代後期の東院や平安以降の東宮とは違い、あまり馴染みがない言葉です。そのために、一部の研究者が、平安時代以降に北の対屋から派生した言葉である北政所の言葉が持つイメージから北宮の意味合いを正妻の住む北の対屋と説明し、長屋王家木簡群等で見つかる北宮とは長屋王の正妻である吉備内親王の居住空間を示すとの解釈を提起したために混乱が生じた時代もあったようです。つまり、一部の研究者は、無意識と思いますが、日本語である和製漢語としてこの北宮の言葉を解釈したと考えられます。
 当然、北宮の表記を中国語としての漢語の言葉として捉えると、意味は大きく違います。例えば、北宮は大陸や朝鮮半島では王城の構成には欠かせない宮域です。高句麗の王宮は安鶴宮と称しますが、その安鶴宮は中宮、東宮、西宮、南宮、北宮の5つの建築群で構成されています。また、新羅の王都金城は月城が古くからの王宮でしたが、七世紀末の統一新羅国の成立期頃に月城の北側に条坊制を敷き、さらに別宮として北宮を築いています。高句麗や新羅ではこの北宮の機能は不明ですが、大陸ではほぼその機能が特定されています。それは秦・漢時代から魏・晋時代までは、北宮は太子宮とも称され、皇太子の住居でした。この状況を示すものとして、後漢書皇后紀では皇太子に妃が選定される状況を、明德馬皇后では「由是選后入太子宮」と、また、賈貴人では「建武末選入太子宮」と記されています。そして、この太子宮について、初唐の学者で皇太子の承乾の命で漢書の注釈書を著わした顔師古は、漢書成帝紀に載る「初居桂宮」の一節を説明するに「三輔黄圖桂宮在城中、近北宮、非太子宮」として、前漢長安に関する社会地理情報書である三輔黄図を基に「桂宮は宮城内にあり北宮に近いが、太子宮ではない」と解説しています。さらに、魏書の十一年二月の条に「是月、大治宮室、皇太子居于北宮」とあり、北齊書の本紀第五 廢帝殷の天保元年の条に「立爲皇太子、時年六歲。・・略・・、常宴北宮。」とあります。顔師古の認識を含めて漢から唐初の時代では、皇太子は王城の北宮に居住し、その北宮を皇太子が居住する場所として太子宮と称していたと推定されます。この状況があるためか、国立清華大学中国文学系兼任助理教授の郭永吉氏は中国の東宮を研究した論文「先秦兩漢東宮稱謂考(文與哲第八期2006.6)」で「至於西漢時皇太子、所居曰太子宮、史書並未明確記載其所處的位置、学者推測可能在北宮、因此也就未見以東宮稱之」と説明しています。
 この郭永吉氏の論文の背景には、中国や日本の東宮研究者は、王城に東宮と云う宮域が出来るのは隋の大興城が最初ではないかと推定し、その大興城の都市計画と宮域の名称を唐がそのまま長安城として引き継いだとしています。つまり、隋・唐以前に東宮なる宮域は存在しなかったと推定していることに拠ります。このため、王城に東宮と云う宮域が出来る隋・唐以前の王朝では、どこに皇太子が居住し、それをどのように称していたかが問題になりました。その疑問について、近年の資料調査と遺跡研究から、郭永吉氏もその論文で引用するように、現在では王城の北側の宮域に北宮があり、その北宮域に太子宮があったと唱えられています。そして、今日では、その太子宮に皇太子が居住していたと考えられています。
 大宝元年(701)の大宝律令の推定復元では東宮家令官員令、天平宝字元年(757)の養老律令では東宮職員令から東宮家または東宮と呼ばれる皇太子について、日本では、つい最近まで、東宮なる言葉が、大陸でも古代から太子宮を示すものと思い込んでいた節があります。本来、東宮とは隋・唐朝以降の官署を示すもので、太子の住む住居区を示すものではありません。東宮が名実共にその実態を示すのは、隋朝に大興城の太极宮の東に宮域が置かれ、それを唐朝が引き継いだために太子宮のあった北宮域が廃止され、東宮域が新設され結果です。従って、奈良時代では、太子の住む住居区としての意味合いでの東宮とは比較的新しい言葉となります。
 さて、日本もそうですが中国でも高貴な人物については、その氏名を直接には表現せず、解釈に誤解が生じない別のもの(建物、地位・役職、領有地等)で、その人物を表現したと推定します。つまり、皇太子が居住するので、その宮を太子宮と称し、その宮が宮城の北に位置し北宮と呼ばれる、または、含まれるのならば、隋・唐以前の人々の間に北宮の言葉に皇太子の意味を持たせた可能性は否定できないと考えます。
 万葉集の主要な時代は、大宮人が藤原京や平城京を計画し、建設した時代です。その藤原京や平城京の「京」の建設は、従来の「宮」の建設とはその規模が桁違いに違い、大規模な国家プロジェクトです。そのため、朝廷の主だった人物は、その計画立案に直接関与するか、その計画案を見聞きしていた可能性があります。そして、その都市計画において、現在の王京研究者が藤原京や平城京を唐長安と比較研究するように、同時の大宮人も高句麗安鶴宮・新羅金城や三輔黄図等の資料を通じて、秦咸陽故城、漢長安故城や唐長安城を研究・検討したと推定します。当然、朝廷機能の根幹である宮殿、署、庫、倉や道路・運河の配置においても秦咸陽京、漢長安古京や隋・唐長安京を参考にしたでしょうから、藤原京や平城京での宮殿計画に採用する、しないは別として、隋・唐以前の太子宮である北宮の存在とその目的も知っていたと考えます。この状況を裏付けるものとして、近年の平城京遺跡調査で平城宮の南東に位置する長屋王屋敷跡で発見された長屋王家木簡群や北宮宮跡庭園の中に北宮と記述された木簡群が発見されています。また、和銅五年歳次壬子十一月十五日庚辰の日付を持つ大般若波羅密多経巻にも北宮の署名が認められています。
 昭和五十一年の平城京左京三條二坊六坪発掘調査概報を下にした平城京時代の庭園に対する研究では、長屋王家庭園は和銅三年(710)頃に築造され、その長屋王家(平城京左京三条二坊一・二・七・八坪)に隣接する北宮宮跡庭園(平城京左京三条二坊六坪)は、和銅七年(714)頃に漢代に作られた竜文瓦の文様によく似せた池泉の輪郭を持って築造されたと推定されています。また、長屋王家木簡群の発掘調査に携わった森公章氏は、その著書「奈良貴族の時代史」で「北の八坪の地から続く蛇行溝SD1525から検出された遺物で、木簡の時期・内容は長屋王家木簡とほぼ一体のものと見ることができる」(北宮王家のなりたち;76P)と述べられています。現在の一般の北宮宮跡庭園の評価とは違いますが、昭和五十一年の発掘調査概報と森公章氏の著書から、少なくとも和銅から神亀年間には北宮宮跡庭園と最初の建物遺構とは存在していたと理解します。こうしますと、この和銅三年は平城京遷都の年ですし、和銅七年の翌年霊亀元年(715)正月は皇太子が初めて朝賀に参列した年です。長屋王が日本霊異記や木簡群が示すように親王の称号を有すなら、非常に興味深い年代の一致です。
 また、大般若波羅密多経巻とは、文武天皇の死去を悼んで長屋殿下が発願し大般若波羅密多経六百巻の写経を行ったとの内容の願文を有する和銅五年経と称されるものです。その経本に長屋王は和銅五年の時点では北宮の名で署名を行っています。それが、同じ大般若波羅密多経巻ですが、神亀五年歳次戊辰五月十五日の日付を有するものでは仏弟子長王と自分のことを表しています。奈良時代は少なくとも仏教の経や願文は漢文・漢語で記すのがルールです。平安時代以降は別として、少なくとも和銅五年から神亀六年ごろの奈良の京で漢語として北宮の言葉が存在し、その北宮が自他共に長屋殿下を示すと認識しているのなら、唐を中心とする国際社会の一員で、新羅や渤海使節団等が訪れる奈良の京では大般若波羅密多経巻で記す長屋殿下は皇太子であったとみなさざるを得なくなります。これを前提に願文の仏弟子長王の表記を考えてみますと、和銅五年の段階では長屋王は北宮の敬称を使用する皇太子ですが、神亀五年では漢語での王の言葉を自称に使用しています。つまり、この表記の推移から推測して、和銅五年から神亀五年までの間に長屋王は日嗣皇子たる皇太子から大王になっていた可能性があります。
 ここで、大王の言葉について確認します。万葉集には天皇(すめらき)と大王(おほきみ)との二つの区別された表記があるように、桓武天皇の延暦年間以前は大和では祭事(まつりこと)を行う天皇と政事(まつりこと)を行う大王に宗政分離していたと認識しています。共に音では「まつりこと」ですが、天皇は大和民族の集合体の象徴として神と人との仲立ちを現御神として行い、大王は大和の統治の代表者と解釈しています。つまり、原理において元正天皇と長屋大王の並立は可能となります。そして、現御神たる天皇位は原理的に譲位が出来ず、大王位は譲位や交代が可能と考えます。
 以上、「万葉時代の北宮を考える」と言うテーマのおさらいをしました。言わんとすることは、長屋王は長屋大王であり、天皇と大王の二元統治時代では確かに大王ではありますが現代人感覚では天皇であったと言う可能性です。ただ、奈良時代前期までは、天皇は大和民族の集合体の象徴として神と人との仲立ちを現御神として行い、大王は大和の統治の代表者です。
この長屋王は長屋大王だったということを前提とし、さらに歴史を点検しますと、続日本紀に非常に興味深い記事があります。それが、神亀三年七月の新羅の貢調使を送別する外交の記事です。
 
神亀三年(726)七月戊子(13)の記事
秋七月戊子、金奏勲等帰国。賜璽書曰、勅伊食金順貞。汝、卿安撫彼境、忠事我朝。貢調使薩食金奏勲等奏称、順貞以去年六月卅日卒。哀哉。賢臣守国、為朕股肱。今也則亡、殲我吉士。故贈賻物黄紡一百疋・綿百屯、不遺爾績、式獎遊魂。
訓読 秋七月戊子に、金奏勲等帰国す。璽書を賜はらして曰く「伊食金順貞に勅す。汝、卿は彼の境を安撫し、我朝に忠事なり。貢調使薩食金奏勲等の奏して称く『順貞は去年六月卅日に卒れし』と云う。哀しいかな。賢臣の国を守り、朕の股肱と為れり。今は則ち亡しくし、我吉き士を殲せり。故に賻物の黄紡一百疋・綿百屯を贈りて、爾に績を遺れず、遊魂の式を獎けむ」と。
 
 この詔から新羅の伊食金順貞は神亀二年六月三十日に亡くなったことが判ります。ここで「伊食」は新羅では「伊伐食」に継ぐ官位で、大和朝廷での正二位に相当しますので、およそ、金順貞は太政大臣格の新羅王家での実力者です。日本と新羅とは和銅・養老年間に頻繁に交流をしており、神亀三年の新羅使は神亀元年に譲位を受けた新天皇への祝賀使です。ここらから詔の「賢臣守国、為朕股肱」の言葉が示す人物は、少なくとも養老年間における日本と新羅との外交交渉の相手側の人物であり、日本の「朕」たる人物と交渉があったと考えられます。そして、神亀元年に譲位を受けた新天皇への祝賀使に対する言葉ですから、「朕」たる人物は養老年間には皇太子、または、それに準ずる人物です。
 こうした時、懐風藻に大學頭從五位下山田史三方が詠う「秋日於長王宅宴新羅客」の漢詩(資料14)があり、その前置漢文の序に「君王」の言葉があります。
 
君王以敬愛之沖衿 君王敬愛の沖衿を以つて
廣闢琴樽之賞 廣く琴樽の賞を闢く
使人承敦厚之榮命 使人敦厚の榮命を承け
欣戴鳳鸞之儀 鳳鸞の儀を欣戴す
 
 この漢詩が詠われたのは、養老七年八月説と神亀三年七月説とがありますが、新羅の使節団を招いての送別の宴が披かれた場所は長屋王の別邸です。そこから、この前置漢文の「君王以敬愛之沖衿、廣闢琴樽之賞」の君王とは宴会を催した長屋王その人を示すことになります。
 さて、この送別の宴は「秋日於長王宅宴新羅客」と題にありますから、序に示す漢文に使った「君王以敬愛之沖衿」の「君王」の言葉には、国際儀礼上、招かれた新羅の客も理解する国際語としての君王の意味だったはずです。つまり、学問では最高権威である大學頭の山田史三方は国際語としての漢語における君王(=天子、皇帝)の意味合いで、序に示す君王の表記を行ったはずです。ここから新羅使を招いた国際的な宴の情景を詠う懐風藻の漢詩の序から推測すると、神亀三年七月(または、養老七年八月)に長屋王は新羅使が違和感を持たない君王の地位にあったことになります。または日本式の祭祀の天皇と統治の大王との二元統治体制で唐風に皇帝を統治で補佐する左大臣を意味する左僕射の地位を取る長王と呼称されます。隋の煬帝が呆れたある種の祭祀を執る推古天皇と統治を執る厩戸皇子との関係です。大陸式の一元統治体制論者からは理解不能でしょうが、このような祭祀の天皇と統治の大王との二元統治体制論からすれば長屋王は国王的な立場の人と成ります。
 次に神亀元年二月四日の元正天皇の譲位の詔を見てみます。
 
続日本紀 神亀元年二月四日の詔
此食国天下者、掛畏岐藤原宮爾天下所知美麻斯乃父止坐天皇乃、美麻斯爾賜志天下之業止、詔大命乎、聞食恐美受賜懼理坐事乎、衆聞食宣
訓読 此の食す国の天の下は、掛けまくもかしこみ「藤原宮に天の下知らしめし美麻斯の父と坐せし天皇」の、美麻斯に賜はらし天の下の業と、詔の大命を聞しめし恐み受け賜はらし懼み坐せし事を、衆の聞しめせと宣る。
 
とあります。
 この当時にはまだ天皇に対する漢風諡号は使われていませんので、和風諡号で亡くなれた天皇を呼称することになります。例えば、和風諡号においては、持統天皇は「高天原廣野姫天皇」又は「藤原宮御宇倭根子天皇」、文武天皇は「倭根子豊祖父天皇」又は「天之真宗豊祖父天皇」、元明天皇は「日本根子天津御代豊國成姫天皇」、元正天皇は「日本根子高瑞浄足姫天皇」です。ここで、従来の歴史説明においては元正天皇の譲位の詔では文武天皇を示す呼称として「倭根子豊祖父天皇」ではなく「藤原宮爾天下所知美麻斯乃父止坐天皇」と云う不思議な呼称を使ったとしています。当然、文武天皇が御存命ですと和風諡号は与えられていませんので使えませんが、文武天皇は既に御陵に祀られている方です。つまり、神亀元年に譲位を受けた天皇は歴史としては自らの父親を示す言葉として「倭根子豊祖父天皇」の呼称を使うはずですが、なぜか、その言葉を使うことが出来ない人物と推定されます。ここに文武天皇の御子ではない別の皇子の存在の可能性が浮かび上がります。皇位継承にあって天智天皇の定めからの古代からの臣下に推戴されるのではなく、その皇位継承が皇統を定める規定によるならば、文武天皇の御子ではない別の皇子は天武天皇の定める皇位継承の優先順位の規定からすれば内親王や二世王を母親に持つ人物でなくてはいけません。当然、長兄高市皇子が次兄草壁皇子に後れを取ったように夫人の称号の母親を持つ後の聖武天皇となる首王はその対象外です。
 こうした時、続日本紀に藤原氏の輔弼を誉める淳仁天皇の詔の中に近江京の天智天皇から平城京の孝謙天皇までの御代の代数を記した文言があります。
 
天平宝字二年(758)八月二十五日の詔
況自乃祖近江大津宮内大臣已来、世有明徳、翼輔皇室。君歴十帝、年殆一百、朝廷無事、海内清平者哉
訓読 況んや自の祖の近江大津宮の内大臣よりここに来るまで、世に明徳が有りて、皇室を翼輔す。君歴は十帝、年は殆んど一百年、朝廷に事無く、海内は清く平らかなり。
 
 この詔の文言が示すように孝謙天皇から皇位を譲られ即位したばかりの天皇である淳仁天皇が、藤原氏の天皇家十代の統治への補佐を誉めるのであれば、対象となる統治期間は実際に補佐が行われていることが必要ですから天智天皇から先の孝謙天皇までです。これを淳仁天皇が詔をするように十代の世とするのですと、天智・天武・草壁・高市・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙の天皇の御代でなければ代数が合いません。なお、この詔は続日本紀に載るものですから、明治期以降に天皇となった大友皇子(弘文天皇)は、奈良・平安時代の規定に従って天皇の代数には入れていません。また、草壁皇子は、この詔の直前の天平宝字二年(758)八月九日に岡宮御宇天皇の称号を淳仁天皇から追贈されていますから、この詔では代数に取り入れられているはずです。こうしますと、問題として残るは「高市天皇」の解釈になります。
 ここでちょっと視線を変えて、東大寺正倉院宝物の御厨子の由緒文に「右件厨子是浄御原宮御宇天皇傳賜藤原宮御宇太上天皇、天皇傳賜藤原宮御宇太行天皇、天皇傳賜平城宮御宇中太上天皇、天皇七月七日傳賜平城宮御宇後太上天皇、天皇傳賜今上、今上謹献盧舎那佛」と書かれています。この由緒文では藤原宮にちなんで持統天皇は藤原宮御宇太上天皇、文武天皇は藤原宮御宇太行天皇と称されます。では、浄御原宮御宇天皇を天武天皇のことを示すのなら、称号の論理として藤原宮御宇天皇とはどの天皇を示すのでしょうか。それとも、称号の論理において、そもそも藤原宮御宇天皇の表記となる天皇は存在しないのでしょうか。又は、藤原宮御宇天皇の代わりに「藤原宮爾天下所知美麻斯乃父止坐天皇」と云う不思議な呼称の天皇と置き換えられたのでしょうか。およそ、藤原宮御宇天皇は、聖武天皇、桓武天皇と嵯峨天皇によって消された天皇と考えます。つまり、藤原宮御宇天皇となる「高市天皇」は存在したと解釈しないわけにはいかないのです。
 そして高市天皇が存在するならば、先に「漢語から北宮を考える」でも示したように必然に神亀元年二月四日の元正天皇の譲位の詔から長屋大王(又は天皇)の存在も現れて来ます。ただし、聖武・孝謙天皇から政治を引き継いだ淳仁天皇と藤原仲麻呂にとって大王殺害を証明する「長屋大王」は避けるべき話題でしょうから、長屋大王は「君歴十帝」には含まれていないと考えます。追加して、この推論に疑義を唱える御方には日本後紀に載る大同元年七月十三日の平城天皇の詔を一読して頂きたいと願います。その詔から高市皇子の藤原京、文武天皇の平城京や長屋王の後難波宮等の王宮建設の意味合いが、十分に理解されると考えます。
 さて、その長屋大王の可能性を示すものとして、万葉集では集歌441と集歌442の歌に長屋天皇とその御子である膳部皇太子の死を悼む歌があります。なお、挽歌を詠う倉橋部女王が歌の標を付けたのではありませんから、標の示す内容と歌が一致する保証はありません。ただし、長屋天皇を否定する立場では標と歌は一致するとして、集歌441の歌の「命恐」を「詔畏み」と訓み、句切れを取らずに歌の「大皇」を聖武天皇と解釈します。その時、「大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座」をどのように解釈できるかは難問です。本来、大和言葉では「大皇」、「命恐」、「大荒城」と「雲隠座」とは密接に関連し、天皇の言葉であって臣下に使う言葉ではありません。歌の句で歌を訓むか、標で歌を訓むかは、立場に拠ります。
 
神龜六年己巳、左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作謌一首
標訓 神亀六年己巳、左大臣長屋王に死を賜ひし後に倉橋部女王の作れる歌一首
集歌441
原文 大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座
訓読 大皇の尊恐し大殯の時にはあらねど雲隠ります
私訳 天皇は畏れおおい方です。ところが、大殯の時でも無いのに天皇は天の雲に隠れ、亡くなられてしまわれた。
 
悲傷膳部王謌一首
標訓 膳部王を悲傷しむ謌一首
集歌442
原文 世間者 空物跡 将有登曽 此照月者 満闕為家流
訓読 世間は空なるものとあらむとぞこの照る月は満ち闕けしける
私訳 現世の世界は空間認識に基づく仏教理論では空であるらしい。ところが、それにも関わらず、今、照っている月は満ち欠けする。

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