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職業人としての柿本人麻呂

柿本朝臣人麻呂の家族と祭祀
柿本人麻呂と人丸神社

 柿本人麻呂神社は日本全国に人丸神社や人麻呂神社などの名称で多く存在します。この人麻呂(人丸)神社の性格を見てみますと人麻呂神社には四形態があるようです。その、四形態の分類とは、
1.     和歌の聖としての柿本人麻呂神社
2.     鍛冶や火事の人丸神社
3.     客死(事故死)した人麻呂を鎮魂する人丸神社
4.     祖神としての人麻呂神社
です。
 最初の「和歌の聖としての柿本人麻呂神社」の代表は兵庫県明石市にある明石柿本神社です。次の「鍛冶や火事の人丸神社」は全国の山村に分布する摂社としての人丸神社であり、主に八幡神社の摂社に多くの例を見ることができます。三番目の「客死(事故死)した人麻呂を鎮魂する人丸神社」の代表としては島根県益田市の柿本神社です。この分類の範疇に入るのが、先に説明した人麻呂の居住地をお祭りするものとして島根県益田市戸田の戸田柿本神社、その分家の埼玉県川越市の川越氷川神社摂社柿本人麻呂神社、山口県長門市油谷の八幡人丸神社とがあります。これについては先に説明しましたので、ここでの説明は割愛します。最後の「祖神としての人麻呂神社」の代表は奈良県葛城市新庄の柿本神社です。
 なお、櫟本の和邇下神社の境内には伝承のように神宮寺の柿本寺跡が存在しています。しかしながら、櫟本の和邇下神社は柿本臣の氏神神社ですので柿本氏の氏神社や氏寺として扱い、柿本人麻呂を祀る神社としては取り上げません。
 
和歌の聖 人麻呂
 鎌倉から室町時代の歌人(一三六〇年代)である頓阿(とんあ)法師(ほうし)が、人麻呂供養のために彫った木像百体(一説に三百体との伝承あり)を難波の住吉神社に奉納しています。現在、日本各地に伝えられる多くの人麻呂像(白河、川越、土佐など)は、それぞれ、この頓阿法師によると伝承しています。
 その人麻呂の木像は、室町時代に和歌の神様である玉津島明神(神功皇后)を祀る住吉大社から、風流をたしなむ中央の貴族が地方に流れて行く過程で、和歌の免許書のような形で各地に人麻呂像が流布したようです。頓阿法師の時代から少し時代を下って、将軍徳川家綱時代の江戸の俳諧の世界では、俳句の評価裁定を行う点者の免許皆伝と一門の継承の証として頓阿法師の人麻呂木像を伝授していたと思わせるような文書が『貞徳終焉記』にあります。室町から江戸期には、和歌の神様である玉津島明神を祀る住吉大社から下された人麻呂木像を所有することが、和歌の宗家や師匠であることを示す証のような姿ですし、証としてそれが判るように人麻呂木像を祀る必要があったようです。これらの風景から、室町後期に地方で○○御所と呼ばれる都市があるとすれば、その地の文化水準を示すものとして和歌の神を祀る三神(住吉明神・玉津島明神・人麻呂)神社や和歌の免許皆伝の証である「頓阿法師の人麻呂木像」を安置して、それを祀る人麻呂神社があっても不思議では無いようです。ただ、このような由来ですので、神社は確かに「歌聖人麻呂」を祀りますが、しかしながら柿本人麻呂の生涯とは関係しません。
 なお、島根県益田市の柿本神社と兵庫県明石市の柿本神社については全国規模としては有名ですが、神社の縁起は歌聖人麻呂への個人的な信仰です。およそ、そこには柿本人麻呂の生涯に対しては全く関係しませんので、その説明は割愛させていただきます。唯一、「歌聖」としての柿本人麻呂に直接に関係するのは、奈良時代からの伝承を持ち、毛利萩藩が手厚く保護をした長門国大津郡新別名の弓弦葉八幡宮の人丸社だけです。この弓弦葉八幡宮の人丸社については既に紹介しました。
 
鍛冶や火事の人丸神社
 HPの『神奈備にようこそ』に載る人麻呂関係神社は百八社ほどあります。その内訳は、
 
北海道 一社
東北 一社
関東 十五社(内:群馬六社、栃木五社)
北陸 二社
中部 六社
近畿 十九社(内:兵庫八社、奈良三社、大阪二社)
中国 五十社(内:山口三十六社、島根九社、広島四社)
四国 四社
九州 七社(内:福岡四社)
 
となっています。人麻呂神社は全国にあると云われていますが、実際はここで示すようにその分布には偏りがありますし、山口県にその多くが集中している特徴があります。多くが集中する山口県内での神社分布の資料を調べてみますと、HP『防長人丸社新考』に詳しく載っていました。それによると人麻呂神社は『神奈備にようこそ』にも載らない地域の小さな祠までを含めると山口県内に二百三十社ほどあるようです。
 資料を引用しますと二百三十社ほどの人麻呂神社や祠の山口県内での分布は次の通りです。
 
県北部 長門市や阿武郡 二十六社
県西部 下関付近 十三社
県中部 山口や美祢付近 四十四社
周南部 周南や下松付近 五十五社
県東部 光市や岩国付近 五十三社
 
 ここで北関東の二県を除いたときに、兵庫県の八社の多くは稲美の地に集中し、島根県、広島県の人麻呂神社もまた山口県に近い場所に集中しています。さらに、福岡県の場合は、宗像市周辺に限られています。これらの地域は人麻呂が万葉集中で歌を詠った地方での歌に強く関係しますし、その分布は当時に稼働していたと思われる銅鉱山遺跡との関連性を想像させます。
 さて、歴史的に石見国美濃郡(益田)、長門国(長門・下関・山口)や周防国(岩国・周南)は、人丸神社(除く祠)が集中する地域とされてきました。特に集中するのは長門国阿武郡(長門・萩)です。山口県北部の人麻呂(人丸)神社は二十六社であり、その内の二十三社は阿武郡にあります。そして、その多くが「八幡人丸神社」です。このため、古くから人麻呂とこの土地には、何らかの係わりがあったと想像されて来ました。従来、想像されていた理由の一つが、製鉄のたたら職人が石見の国から入り込んで、その信仰である人丸神社を残していったとするものです。ただ難しいのは、まず、中国・九州一帯での柿本人麻呂神社の総社とされる島根県益田市の柿本神社自体が、鍛冶の神様とは強い関係がありません。また、古来、銅製錬は銅鉱石からの「吹」と呼ばれる方法で行われていて、たたら製鉄法とはまったく違う方法です。さらに、人麻呂の時代である持統から大宝年間、また、東大寺大仏建立に活躍した柿本男玉の時代である天平年間、これらの時代を通じて現代の考古学や文献調査結果からは長門国阿武郡の山中で砂鉄からの大たたら製鉄が行われた可能性はありません。現在までの萩藩の資料と遺跡調査結果からは、長門国阿武郡で大たたら製法の製鉄が始まるのは江戸期の享保年間以降とされています。さらに、大たたら製鉄の本家である山陰の出雲・但馬地方や東北地方にほとんど人麻呂神社は見出せません。つまり、神社勧請の伝承や製鉄技術からも、出雲・石見のたたら職人説は無理のようです。最後に根本的な問題ですが、たたら製鉄の神は「金屋子神」ですので、その祀る神が違います。人麻呂(人丸)神社の祭神は「八幡人丸=市杵嶋比賣命+人麻呂」です。
 では、なぜ、山口県に特異的に人麻呂信仰が存在したのでしょうか。私は奈良東大寺の大仏建立時の鉱山開発と現地での荒金製錬によるものと考えます。東大寺の大仏建立の時、当時、開発されたばかりの美祢の長登鉱山や蔵目喜鉱山には近隣諸国の銅製錬技術者が集められ、その作業を行う内に伝承と人麻呂信仰が生じたと考えます。このとき、東大寺の大仏に使用する銅製錬の最高指揮官は柿本男玉です。柿本男玉は東大寺の大仏建立で説明したように鋳物や溶融炉の責任者です。現在でも製鉄・製銅の作業にあたって、人々は精進潔斎して神にその成功と安全を祈ります。東大寺大仏建立時での大和朝廷系の鍛冶の神は八幡神(市杵嶋比賣命)です。さらに、柿本男玉の弟子たちは、神事の祝詞において必ず師匠の名を挙げたのではないでしょうか。その過程において、祝詞の名が次第に祭神になったのではないかと考えます。また、朝廷により奉呈される祈年祭や月次祭の祝詞の言葉には人麻呂の匂いがします。そこから、人麻呂が銅製錬の鍛冶場で使う祝詞を作り、奉じた可能性を想像します。
 時代として、東大寺の大仏建立には未精錬の荒金が長門・周防や播磨から奈良に運ばれてきました。所謂、奈良登り(長登)です。つまり、長門国美祢郡の長登鉱山には銅の荒金製造用の製錬炉が立ち並んでいたでしょうし、周防、長門、石見などの近隣諸国から、多くの銅地金の製錬に関わる職人が動員されていたでしょう。そしてそこで鉱石から銅の製錬炉によって荒金が作られています。その荒金の製錬工程で比較的技術のあったのは、大陸の先進技術を甲賀寺大仏の試作で吸収・改良した、実技技術に長けた柿本臣系統の職人だったと思われます。参考に、近江国紫香楽宮(現甲賀市)にあった甲賀寺近隣の近江国瀬田丘陵では、当時、和珥臣や小野臣も関与したと思われる日本最大の製鉄コンビナートが天智天皇の時代から稼動しています。
 職人の世界は、何時の時代も、百の論より技術・製品・歩留まりの成果です。甲賀寺大仏の試作遺跡である信楽鍛冶屋敷遺跡の研究にみられるように、当時には日本全国に多くの銅の製錬炉とその製法がありました。それらが一同に会すると、技術の良否は一目瞭然です。当然、優良な職人たちは名が挙がったでしょうし、尊敬もされたでしょう。そのような優良な職人集団とは、東大寺の大仏建立の人選から推定して、おもに柿本臣系統の職人であったと推定されます。そして、東大寺の大仏建立の後にその作業に従事した鋳物や鍛冶職人たちによって、全国各地に「柿本臣の鍛冶」の技術と鍛冶神事が広がったと想像します。それが、二次、三次と弟子間の鋳造技術の伝承が進むにつれ、鍛冶神事の伝承の意味合いもあやふやになり、「鍛冶の人丸」が「火事の人丸」となり、その内に「人丸=火止まる」になったのではないでしょうか。その語呂転訛の例として、川越氷川神社摂社柿本人麻呂神社においても、江戸期での「火止まる」からの防火、火(ヒ)から屁(ヘ)への音交換から出来た「屁止まる」からの疾病予防、「人丸=ひとまる」からの「人うまる=人生まる」へと転じて安産祈願と変化しています。そして、それらそれぞれに御利益があると信心され、現代に至っています。
 さて、長門国の阿武地方の鉱山開発期には、鉱山の開発規模と所在地から判断して二つの時代があります。最初は柿本人麻呂時代の大津郡周辺の海岸線の露頭した鉱山を開発した時代、次は柿本男玉の東大寺の大仏時代の美祢の山中での大規模な坑道式鉱山の時代です。およそ五十年の開きはありますが、いずれも柿本臣(または枝族の小野臣)が指揮を執っていたと考えられます。このとき、柿本男玉は祖神や鍛冶の祝詞神として、人麻呂をお祭りしていたのではないでしょうか。その後、奈良時代後期には周南地方で銅鉱山が開発され、その選鉱された鉱石や荒銅が長門鋳銭司に送られています。およそ、山口県東部及び周南地方に多くの摂社としての人麻呂神社や祠が見られるのは、このような歴史的背景が存在するのではないかと推定します。
 なお、全国各地にある一部の摂社柿本神社では、鉱山を求めて各地を移動した製鉄や製銅を業とする集団が祀ったと思われる本宮に祀る神が、本来の「鍛冶の神様」でしょう。鉱脈涸れて製鉄製銅の集団が移動した後に、「鍛冶」が「火事」に呼び変わり「火止まる=人丸」となったかもしれません。そしてあるとき、里の有識者が人麻呂は「歌の聖」であると知識を見せて、「火止まる=人丸=人麻呂=歌の神様」となった可能性はあります。このため、鍛冶の神との関係から、東日本系の摂社人丸神社の多くが古来の韓鍛冶系統の神様である息長帶比賣命や大己貴命などの本宮の神様とのセットになっているのではないでしょうか。
 古代の鉱山運営を経済面から考えた場合、資料の残る江戸時代の小規模銅鉱山の運営実績を参考資料として見てみますと、江戸期では約三十人程度の規模で採掘・選鉱・製錬作業の一貫した銅の生産工程をこなしていたようです。奈良時代の鉱山開発の状況を推定しますと、まだ手付かずの優良鉱山が点在していたはずです。江戸期からの類推で奈良時代においても約三十人程度の規模で銅の生産活動が出来たとすると、或る程度の資本や技術集団を保有する氏族にとって鉱山開発は有望な産業だったと思われます。経済原理を下に日本全国で鉱山開発が進められたと考えますと、山地に暮らす原住の人々と先進の金属の生産技術を持ち、鉱山開発を行い、製錬を行う新来の人々とは文化格差や行動原理が違うでしょう。そうした時、土着の原住の人々から眺めた時、金属の生産を行う人々は、時に鬼と思われたり、あるいは神と思われたりしたのではないでしょうか。その名残が各地に残る鍛冶や火事の摂社人丸神社と推測します。
 
祖神としての人麻呂神社
 最初に、厳密には大和新庄の柿本にある柿本神社は祖神を祀る神社としての人麻呂神社には相当しません。実際は、その柿本神社の神宮寺である影現寺(ようげんじ)がそれに相当します。ここでは、その影現寺について説明したいと思います。
 さて、古今和歌集に載る歌人に惟喬親王(これたかのみこ)がいます。この惟喬親王と親交があった人物が古今和歌集の代表的な歌人である在原業平と遍昭僧正です。惟喬親王は紀静子を母親とする田邑帝(たむらのみかど)と称された文徳天皇の御子ですが、皇位継承の争いに敗れ、皇位は白河太政大臣藤原良房の外孫となる惟仁親王(これひとのみこ)が清和天皇として継いでいます。その文徳天皇の更衣になられた紀静子の一族に紀朝臣僧正真済、または、柿本僧正真済と称される真済僧正がいます。この真済僧正は彈正大弼であった紀御園を父としますが、父の紀御園、または祖父の紀田長の代に柿本朝臣の女が紀家に嫁ぎ、紀一族と柿本一族の間に姻戚関係が結ばれたとされています。この縁で真済僧正が、柿本朝臣の本拠とされる奈良県葛城市新庄の柿本にある柿本朝臣の氏の神社である柿本神社の、その神宮寺となる影現寺を建立しています。この影現寺は、もともとは真済僧正が隠棲し、そこに人麻呂像を安置していたと云う人麿堂が縁起で、お堂には真済僧正が自ら刻んだと云う人麻呂像と真済僧正坐像とが安置されています。現在の十一面観音立像を本尊とする影現寺は、この人麿堂が発展した姿です。
 真済僧正は空海に従った僧侶の中でも学識随一とされた人物で、弘法大師の著作や詩文を集めた『性霊集』などを編集しています。ただ、この真済僧正が和歌を詠んだかどうかは不明です。そのために、真済僧正がどのような目的で人麻呂像を自ら刻み、祀ったのかが良く判りません。真済僧正から見ると、確かに人麻呂は母方の祖に当たるのですが、このような縁起のため、柿本神社は氏の神社であり、人麻呂神社ではないのです。
 ここで、万葉集に目を向けますと、真済僧正に関係する文徳天皇の三代前になる嵯峨天皇の時代、その嵯峨天皇の女御に初期万葉集の編纂に深く関わった大原今城の子孫である大原浄子や全子が入っていて、その浄子や全子が産んだ御子たちが後の嵯峨源氏一門となります。特に全子の御子に『源氏物語』の光源氏のモデルともされる源融がいます。どうもこのあたりの縁で文徳天皇前後に、再び、宮中に万葉集が伝えられたようです。そして、その文徳天皇の次の時代の貞観時代に清和天皇が臣下に万葉集の編纂時期を御下問され、文室有季が「奈良の宮(聖武天皇)」の時と返答の和歌を奉っていますから、このころ以前に、再び、宮中で漢語と万葉仮名で書かれた万葉集が評判となっていることが確認出来ます。
 こうした時に、真言密教の高僧で学識随一とされた真済僧正は、同族の更衣である紀静子または静子を寵愛した文徳天皇から漢語と万葉仮名で書かれた評判の万葉集の読解や解釈を依頼されたかもしれません。その行為の一環で、真済僧正は父親(または祖父)の姻戚から柿本朝臣一族の血も伝える人物とされていますから、万葉集の中に母方の祖である柿本人麻呂を見つけた可能性があります。弘法大師の著作や詩文を集めた『性霊集』を編集する人物ですから、もし、彼が万葉集の読解や解釈を行ったならば、万葉集での人麻呂の位置と価値は十分に理解したと思います。その故か、真済は人麻呂ゆかりの柿本神社に人麿堂を建立し、そこに自ら刻んだ人麻呂像を祀っています。
 縁は奇なもので、この紀僧正真済の死後から五十年後に真済僧正と同じ紀一族の紀貫之が中心になって、ゆかりの惟喬親王、在原業平、遍昭僧正たちの歌や古歌を収集し、それらが万葉集に取られていない歌であることを確認して、古今和歌集を編纂します。
 
おわりに
 私の理解する飛鳥・奈良時代は農業国家ではありません。当時での世界有数の先進工業国家です。そうでなければ金銅仏である東大寺の奈良大仏とそれを納める巨大な本堂は建立できません。当時の銅銭一銭の公定価値は穀六升であり、銀一銭は穀一石となっています。一方、奈良時代、初代となる東大寺の大仏は銅だけで六百トンと推定されていますから、大仏の金属価値は銅銭十六万貫文(一銭を青銅3.75グラムと換算)、または銀銭一万六千両に相当します。もし、その大仏の建立に使う金属原材料を輸入したと仮定しますと、その代価は何でしょうか。また、原料を大陸から輸送する手段はどのようにしたのでしょうか。ここで、中国から輸入したと仮定しますと、建立計画において、それを輸入する船の想定難破率はどうだったのでしょうか。また、中国自身にその要請に応えるだけの銅の輸出能力があったでしょうか。 これらの生産技術からの要請や疑問からは、日本が農業国家では国際貿易収支の面からも東大寺の大仏は出来ないのです。つまり、日本は世界有数の工業国家であったからこそ金銅仏像による大仏なのであって、そして、それがすべて自前の技術と原材料であるから出来上がったのです。さらに銅を国産化することから、銅や鉛などの金属製錬の工程から国際通貨である銀も比例して産出され、国庫に保有されることになります。結果、国家が保有したその国際通貨である銀が宝物に姿を変えたものが現在に伝わる正倉院の宝物です。
 こうした時代に人麻呂は生きていました。私は、東大寺の大仏は、なぜ、そこにあるのかを考えたとき、人麻呂たちの職業は何かの疑問に辿り着きました。そして、その答えがここでの推論です。太政大臣の高市皇子に指揮された人麻呂たちは、手に豆を作り、額の汗を掻き、技術後進国の大和の国を世界最高水準の工業国家へと作り上げたのです。その働く貴族たちの楽しみが知的な漢語と漢字を駆使して表記した大和歌だったのです。
 こうしたとき、文学世界とは無関係な反則的な方向から推定した「職業人としての柿本人麻呂」の姿は、突飛な考えでのインチキな「トンデモな推論」と受け取られると思います。しかしながら、これらの元となったデータはインターネット上から個々ではありますが簡単に拾うことが出来ます。つまり、総合的ではありませんが、個々としては大学や公的研究所が公開する資料等に見ることが出来るのです。そのデータの利用や解釈は方法論となりますが、素となる個々の生データは確定した史実として良いようなものばかりです。ここでの推論をトンデモ暴論として眉につばを付けて読むか、参考資料として読むかは、みなさんの判断に委ねます。もし、ここでの推論を参考資料として受け止められた場合、万葉集での人麻呂の解釈が普段の解釈から大幅に変わると確信しています。
 また、最初にも述べましたが、万葉集での人麻呂の歌は標題や左注からある程度の年代確定が可能ですし、ここでの考察と推論から人麻呂歌集に載る歌での広範囲の活動を、歌を略体歌・非略体歌や常体歌との分類することや、これらを人麻呂の歌での年代確定と組み合わせることで、おおよその活動年代を推定することが可能になる希望があります。その帰結として、人麻呂の年譜を作成することが可能になり、人麻呂の人物像が、より明確になることが期待されます。
 終わりとして、ここでのものはブログ『竹取翁と万葉集のお勉強』に載せたものを再編集したものです。つまり、世に云う『ブログ本』です。そのジャンルのものではありますが、株式会社あるむの皆さん、特に鈴木さんのご指導でここまで辿り着きました。ブログ記事からブログ本と云う別な視線での参考となれば、また、それはそれとして幸せです。

参考資料一
柿本朝臣人麻呂の推定年譜と関連万葉集歌
弊ブログ『竹取翁と万葉集のお勉強』に載せる「人麻呂歌集からの柿本人麻呂年譜」目次より引用
参照万葉集歌 歌が詠われた年代 人麻呂の推定年齢
推定の人麻呂の誕生 大化二年(六四六)頃 人麻呂ゼロ歳
偶然の出会いと石上神社の初恋  天智五年(六六六)夏頃 人麻呂二十歳
隠れ妻の裳儀 そして妻問い  天智七年(六六八)五月頃 人麻呂二十二歳
鷺坂の歌とその周辺歌  天智八年(六六九)春 人麻呂二十三歳頃
吉備津采女の挽歌  天智八年(六六九)秋 人麻呂二十三歳頃
度会の歌  天武元年(六七二)夏 人麻呂二十六歳頃
物部の八十氏河の歌  天武元年(六七二)秋 人麻呂二十六歳頃
石見國より妻に別れ上り来し時の歌  天武五年(六七六)夏 人麻呂三十歳
最初の中上がりの上京  天武五年(六七六)夏頃 人麻呂三十歳
大和の飛鳥浄御原の都への帰京  天武八年(六七九)秋頃 人麻呂三十三歳
人麻呂の石見歌物語 帰京編  天武九年(六八〇)春頃 人麻呂三十四歳
人麻呂の七夕の歌  天武九年(六八〇)七月 人麻呂三十四歳
日並皇子尊の殯宮の時の歌  持統三年(六八九)四月 人麻呂四十三歳
事擧、辞擧、そして、言上  持統四年(六九〇)正月 人麻呂四十四歳
持統天皇の天香具山の歌  持統四年(六九〇)正月 人麻呂四十四歳
吉野賛歌  持統四年(六九〇)二月 人麻呂四十四歳
紀伊国への御幸  持統四年(六九〇)九月 人麻呂四十四歳
河嶋皇子と挽歌  持統五年(六九一)九月 人麻呂四十五歳
香具山で屍を見て悲慟しむ  持統六年(六九二)五月 人麻呂四十六歳
雷岳の歌  持統六年(六九二)八月 人麻呂四十六歳
軽皇子の安騎の野の宿りの歌  持統六年(六九二)十二月 人麻呂四十六歳
近江の荒れし都の歌  持統八年(六九四)三月 人麻呂四十八歳
人麻呂と筑紫の歌  持統八年(六九四)春 人麻呂四十八歳
人麻呂と狭岑島の歌  持統八年(六九四)晩春 人麻呂四十八歳
天武天皇の眠る場所 伊勢皇大神宮  持統八年(六九四)九月 人麻呂四十八歳
藤原京御井の歌  持統八年(六九四)十二月 人麻呂四十八歳
人麻呂と羈旅の歌八首  持統九年(六九五)五月頃 人麻呂四十九歳
高市皇子の挽歌  持統十年(六九六)七月 人麻呂五十歳
長皇子の猟路の池の歌  文武二年(六九八)二月六日 人麻呂五十二歳
軽の里の妻の死  文武三年(六九九)晩秋 人麻呂五十三歳
明日香皇女の挽歌  文武四年(七〇〇)四月 人麻呂五十四歳
紀伊国への二度目の御幸  大宝元年(七〇一)十月 人麻呂五十五歳
土形娘子と出雲娘子の挽歌  大宝二年(七〇二)七月頃 人麻呂五十六歳
引手乃山の妻の死亡  大宝二年(七〇二)八月頃 人麻呂五十六歳
石田王の挽歌  慶雲三年(七〇六)冬頃 人麻呂六十歳
伝承での人麻呂の死亡  和銅元年(七〇八)三月十八日 人麻呂六十二歳

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