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光明皇后とは何者か

 今回、例によって万葉時代の歴史の与太話をしますが、最初は資料提供の為に視力検査のような、漢字の羅列となっています。そこはご容赦ください。
 まず、奈良時代を期に分け区分する時、奈良時代の中期に君臨した光明皇后(正式には、「皇后、贈正一位太政大臣不比等之女、夫人藤原朝臣安宿媛」の呼称でしょうか)を外して時代を考え、また、その時代の文化を写す万葉集の歌の背景を考察することは不可能と思います。そこで、この光明皇后の人物像を考えてみたいと思います。ただし、現在に伝わる光明皇后の人物像の多くは、平安末期から鎌倉時代にかけて藤原氏一族に関わる東大寺や興福寺などの寺院復興事業に関連して、全国から寄付金を得るために新たに仏教的な偉人となるような姿を創作して語られたものが中心で、奈良時代の光明皇后の人物像を正しく語るものは、あまり存在しないようです。逆に史実を求めると、具体的な人物像は良く判らないようです。
 さて、光明皇后について話をする前に、視力検査のような漢字の羅列の、光明皇后に関する公式記事となる続日本紀に載るものを原文から紹介します。今回の与太話では、この原文から紹介することに意義があります。ただ、現代語訳に読み解く必要はありませんので、流して見ていただけたらと思います。
 なお、使用しています続日本紀の原文は、底本:『増補 六国史』(全十二巻 佐伯有義、朝日新聞社、昭和15)巻三、四を新日本文学大系本(岩波書店)他、諸本で校訂して、朝日新聞社がネット上で公表している『続日本紀』(朝日新聞本)からのものです。また、付けた読み下し文の「読下」は私個人のもので学問的な背景はありません。
 
養老七年(723)正月十日の記事;
又授夫人藤原朝臣宮子従二位。日下女王、広背女王、粟田女王、六人部女王、星河女王、海上女王、智努女王、葛野女王並従四位下。他田舍人直刀自売正五位上。太宅朝臣諸姉、薩妙観並従五位上。大春日朝臣家主従五位下。
<読下>
また、夫人藤原朝臣宮子に従二位を授ける。日下女王、広背女王、粟田女王、六人部女王、星河女王、海上女王、智努女王、葛野女王に従四位下を授ける。他田舍人直刀自売に正五位上を授ける。太宅朝臣諸姉、薩妙観に従五位上を授ける。大春日朝臣家主に従五位下を授ける。
 
神亀元年(724)二月六日の記事;
勅尊正一位藤原夫人称大夫人。授三品田形内親王、吉備内親王並二品。従四位下海上女王、智奴女王、藤原朝臣長娥子並従三位。正四位下山形女王正四位上。
<読下>
勅して正一位の藤原夫人を大夫人の称をして尊ぶ。三品の田形内親王、吉備内親王に二品を授ける。従四位下の海上女王、智奴女王、藤原朝臣長娥子に従三位を授ける。正四位下の山形女王に正四位上を授ける。
 
神亀元年三月廿二日の記事;
左大臣正二位長屋王等言、伏見二月四日勅、藤原夫人天下皆称大夫人者、臣等謹検公式令、云皇太夫人、欲依勅号、応失皇字。欲須令文、恐作違勅。不知所定。伏聴進止。詔曰、宜文則皇太夫人、語則大御祖、追収先勅、頒下後号。
<読下>
左大臣正二位長屋王等の言うには、伏して二月四日の勅を見るに藤原夫人を天下、皆、大夫人と称せといへり。臣ら謹みて公式令を検するに、皇大夫人といへり。勅の号に依らむと欲せれば皇の字を失うべし。文を令に須すべきと欲せれば、恐れらくは違勅とならむ。定むるところを知らず。伏して進止を聴かむと。詔して曰く、宜しく、文は皇太夫人と則ひ、語は大御祖と則ひ、先の勅を収め、後の号を頒下せよと。
 
神亀四年(727)十一月廿一日の記事;
賜従三位藤原夫人食封一千戸
<読下>
従三位藤原夫人に食封一千戸を賜まふ。
 
天平元年(729)八月十日の記事;
詔立正三位藤原夫人為皇后
<読下>
詔して立てて正三位藤原夫人を皇后と為す。
 
天平宝字四年(760)六月七日の記事;
天平応真仁正皇太后崩。姓藤原氏。近江朝大織冠内大臣鎌足之孫。平城朝贈正一位太政大臣不比等之女也。母曰贈正一位県犬養橘宿禰三千代。皇太后幼而聡恵、早播声誉。勝宝感神聖武皇帝儲弐之日、納以為妃。時年十六。接引衆御、皆尽其歓。雅閑礼訓。敦崇仏道。神亀元年(724)、聖武皇帝即位、授正一位為大夫人。生高野天皇及皇太子。其皇太子者、誕而三月立為皇太子、神亀五年天而薨焉。時年二。天平元年(729)、尊大夫人為皇后。湯沐之外、更加別封一千戸、及高野天皇東宮封一千戸。太后仁慈、志在救物、創建東大寺及天下国分寺者、本太后之所勧也。又設悲田・施薬両院、以療養天下飢病之徒也。勝宝元年、高野天皇受禅、改皇后宮職曰紫微中台。妙選勲賢、並列台司。宝字二年、上尊号曰天平応真仁正皇太后、改中台曰坤宮官。崩時春秋六十。
<読下>
天平応真仁正皇太后の崩ず。姓は藤原氏。近江朝の大織冠内大臣鎌足の孫。平城朝の贈正一位太政大臣不比等の女なり。母は曰く贈正一位県犬養橘宿禰三千代。皇太后の幼して聡恵、早く声誉を播く。勝宝感神聖武皇帝の儲弐の日に、納めて以って妃と為す。時に年は十六歳。衆御を接引し、皆は其の歓を尽す。雅閑にして礼訓なり。敦く仏道を崇す。神亀元年(724)、聖武皇帝の即位に、正一位を授け大夫人と為す。高野天皇及び皇太子を生む。其の皇太子は、誕れて三月にして立ちて皇太子と為すも、神亀五年に天して薨ず。時に年は二歳。天平元年(729)、尊びて大夫人を皇后と為す。湯沐の外、更に別封一千戸、及び高野天皇の東宮の封一千戸を加える。太后は仁慈にして、救物の在を志して、東大寺及び天下国分寺を創建するは、本より太后の勧めるところなり。また悲田・施薬両院を設け、以つて天下の飢病の徒を療養するなり。勝宝元年、高野天皇の受禅し、皇后宮職を改めて曰く紫微中台。選に妙にして賢を勲じ、並びに台司を列す。宝字二年、上を尊号して曰く天平応真仁正皇太后、中台を改めて曰く坤宮官。崩じる時、春秋六十歳。
 
 どうですか、原文を参照すると歴史は面白いでしょう。
 まずもって、神亀四年(727)十一月廿一日と天平元年(729)八月十日の記事は誤記でしょうか、それとも史実でしょうか。これが重要です。この二つの記事が正しい史実を伝えるものですと、奈良時代以降の歴史の解釈が大きく変わりますし、歴史学者の面目は全くに無くなります。
 最初に、養老七年(723)正月十日の記事「又授夫人藤原朝臣宮子従二位」からすると、文武天皇の夫人である藤原宮子に従二位の官位が授けられています。ここで神亀四年と天平元年との記事が正しいものとしますと、その二つの記事に登場する藤原夫人とは、それに先行して夫人藤原宮子へ従二位を与えた記事がありますから、神亀四年に示す従三位または天平元年に示す正三位の官位と養老七年の従二位の官位の違いから、藤原宮子ではありません。
つまり、神亀四年の藤原夫人とは聖武皇帝(続日本紀などでは「天皇」ではなく「皇帝」の称号を使います)の夫人、おおむね藤原安宿媛を指します。そして、その藤原夫人の官位は「詔立正三位藤原夫人為皇后」の記事が示すように天平元年の時点で正三位です。これを踏まえると、神亀元年(724)二月六日の記事「勅尊正一位藤原夫人称大夫人」に登場する藤原夫人は文武天皇の夫人、藤原宮子です。藤原安宿媛ではありません。
 この神亀元年二月六日の記事「勅尊正一位藤原夫人称大夫人」の一節は、多くの史実を語ります。まず、「尊正一位藤原夫人」から、前年正月に従二位の官位を授けられた藤原宮子は神亀元年二月までに正一位に昇階しています。これは続日本紀に載る神亀元年二月四日の「天皇禅位於皇太子」に伴う慶事の昇階と考えられます。ただ、男女を問わず、生きている臣民に正一位の官位が授けられたのは、この藤原宮子が最初の人物です。臣民への正一位の官位の贈呈は死後贈位ですが藤原不比等が唯一の前例です。本来なら、政治上での大事件になってもおかしくはない出来事です。ですが、この大事件を伝える歴史上での記事は、現代に伝えられていませんし、現代までにこのことを重大事件として取り上げたものもありません。歴史では無視されていて、朝廷での正式の記録では、ほぼ、そのような事実は無かったと推測されます。
 次に、続日本紀に載る神亀元年二月四日の「天皇禅位於皇太子」の記事から、現在の歴史解釈では、これは聖武皇帝が即位したと理解します。この聖武皇帝だろう男帝が即位したことに伴い、先の天皇の妃・夫人の敬称は、それに合わせ変更になります。こうした時、「大」の漢字には「年長、年嵩」の意味合いから「先の・・」と云う意味として、「夫人」の称号に「先の」を意味する「大」の字が加えられ「大夫人」と称されることになります。それが「藤原夫人称大夫人」の意味合いです。
 つまり、養老七年正月十日の記事、神亀元年二月六日の記事、神亀四年十一月の記事、天平元年八月の記事は、それぞれに整合が取れています。
 次に、記事が長いために神亀元年三月廿二日の記事の読み下しを再び紹介します、
 
原文 左大臣正二位長屋王等言、伏見二月四日勅、藤原夫人天下皆称大夫人者、臣等謹検公式令。云皇太夫人、欲依勅号、応失皇字。欲須令文、恐作違勅。不知所定。伏聴進止。詔曰、宜文則皇太夫人、語則大御祖。追収先勅、頒下後号。
読下 左大臣正二位長屋王等の言うには「伏して二月四日の勅を見るに藤原夫人を天下、皆、大夫人と称せといへり。臣ら謹みて公式令を検するに、皇大夫人といへり。勅の号に依らむと欲せれば皇の字を失うべし。文を令に須(な)すべきと欲せれば、恐れらくは違勅とならむ。定むるところを知らず。伏して進止を聴かむ」と。
詔して曰く「宜しく、文は皇太夫人と則(なら)ひ、語は大御祖と則ひ、先の勅を収め、後の号を頒下せよ」と。
 
 この記事は神亀元年三月廿二日の日付を持つもので、先の神亀元年(724)二月六日の日付を持つ記事「勅尊正一位藤原夫人称大夫人」を受けたものですので、文中の藤原夫人は藤原宮子を示します。確認しますが、聖武皇帝の夫人の藤原安宿媛ではありません。
 なお、この神亀元年三月廿二日の記事では「伏見二月四日勅」の日付に成っていますが、続日本紀では、その詔勅が出されたのは「二月丙申」です。「二月辛卯朔丙申」と記述するのが正式ですが、それでも丙申は二月の六日目となります。二月の四日目は「二月辛卯朔甲午」で、この日は即位の詔の発布と官人除目があった日です。女性が対象の宮人除目は二月六日です。細かい話ですが、桓武皇帝の時代に勅命により神亀元年三月廿二日の記事を創った人物は、宮人除目の日付を間違えたようです。
 さて、この三月廿二日の記事を皇族の長屋王が行った藤原一族への嫌がらせではないかとする解説があります。しかし、漢字・漢文の世界からは「勅尊正一位藤原夫人称大夫人」の称号問題は、皇族からすると臣民の藤原宮子のために、わざわざ、それを取り上げる必要性は全くありません。藤原一族への嫌がらせなら、親切に藤原宮子に「皇」の称号の一字を追加して文武天皇の正妻の地位を与える必要はありません。「大夫人藤原宮子」の称号は、そのままにしておけば良いのです。それはそれで「大」は「先の」の意味があり、漢字・漢文の官僚世界では前例的に成立する敬称です。
 この「先の」の意味合いで「大」の文字を敬称として使用する例として、日本書紀や続日本紀では次のような記事を見ることが出来ます。
 
天智天皇四年(六六五)二月の記事:「間人大后薨。」
注:間人大后は孝徳天皇の皇后で、天智天皇の妹
大宝元年(701)七月廿一の記事;「又皇大妃、内親王及女王、嬪封各有差」
注:皇大妃とは草壁皇子の妃、阿閇皇女で文武天皇の生母
天平勝宝五年(753)四月十五日の記事;「頃者、皇大后、寝膳不安」
注:皇大后とは文武天皇の夫人、藤原宮子で聖武皇帝の生母
天平宝字三年(759)六月十六日の淳仁天皇即位の詔から;
「比来太皇大后御命以(弖)朕(爾)語宣(久)」
「自今以後、追皇舍人親王、宜称崇道尽敬皇帝・当麻夫人称大夫人」
 
 紹介した例では、特に淳仁天皇(大炊王)の生母である夫人当麻山背に「大夫人」の敬称を使用していることに注目してください。姓による氏族の上下区分関係では真人所属の夫人当麻真人山背が上位で、朝臣所属の夫人藤原朝臣宮子が下位の関係となります。
 従いまして、三月廿二日の記事は、従来の解釈は藤原氏一族が欲した「皇族が藤原宮子に対して『皇』の一字を欲したとすると云うアリバイ」の記事のはずです。ただ、疑問として、生きている人物に「大御祖」と言う死没者のような称号を与えるかどうかです。それに天皇家が、なぜ、「藤原宮子」を家系の創始者「大御祖」としなければならないのかです。「大御祖」の称号を与えたことには、少し、違和感があります。どうも、平安時代初頭に続日本紀を改訂した時の担当者は、聖武皇帝の時に長屋王の変と言う氏姓革命があったと認識していたのではないでしょうか。それですと聖武皇帝朝から見れば始祖である聖武皇帝の生母の藤原宮子は大御祖となります。
 ところで、記事の冒頭に「左大臣正二位長屋王等言」とあります。この時、太政官府を率いているのは政府首班の長屋王ですので、これはある種、長屋王の自問自答の記事となります。つまり、日本史上、最高の高貴な血を引く皇族中の皇族である長屋王が「藤原宮子に対して文武天皇の正妻を意味する『皇』の一字を欲し、また、天皇家の『大御祖』であると認めた」ことが重要です。従いまして、藤原氏が、わざわざ、左大臣正二位長屋王に語らせた「『藤原宮子』に、文武天皇の正妻であり、天皇家の創始者『大御祖』の称号を授けることを認める」と云う、この記事を皇族から藤原一族への嫌がらせと読むのは、文章内容からすると、大変、漢文公文書の読解としてはユニークな読み方です。同じ文章ですが、読みようによっては内容の解釈は真逆のものになります。まず、そのようなユニークな読み方をする研究者は律令社会での漢字・漢文の官僚世界が理解できていないのではないでしょうか。文武天皇の正妻を意味する『皇』の一字と『大御祖』の称号により、文武天皇の御子の立場が天武天皇の詔で定めた生母の地位により皇子の順列を定める規定を乗り越えたのです。単なる「先の天皇の夫人」では困るのです。
 この状況を見て、天平宝字四年六月七日の記事を見てみましょう。この記事は聖武皇帝の夫人であった藤原安宿媛が亡くなられた時、死亡とその人物を紹介する死亡記事です。
 この記事に「神亀元年、聖武皇帝即位、授正一位為大夫人。生高野天皇及皇太子」と云う文章があります。困りました。正史に載る皇太后の死亡記事が、なぜ、このような大変な間違いを起こしたのでしょうか。先の記事の点検で確認したように、時系列からすると神亀元年時点での正一位の大夫人とは藤原宮子です。一方、「高野天皇及皇太子」とは阿部内親王と基親王を意味し、藤原安宿媛が産んだ御子です。紹介した記事の一節では、死んだ本人となる藤原安宿媛の事跡と義母の藤原宮子の記事が紛れています。平城京の時代、最重要人物である光明皇后の年歴や称号を誤認して正史に記述することがあり得るのか、非常に不思議に感じます。
 また、「天平元年、尊大夫人為皇后」の一節も、おかしな内容です。公式の「大夫人」の表記の意味合いは「先の天皇の夫人」です。ここでも聖武皇帝の夫人、藤原安宿媛と義母の藤原宮子のことが入り乱れています。本来、神亀四年十一月や天平元年八月の記事が示すように聖武皇帝の夫人、藤原安宿媛は「藤原夫人」と敬称される人物です。
 ここで、天平宝字四年六月七日の記事を「大夫人」の表記を信じて、次の文をそのままに読んでみます。
 
勝宝感神聖武皇帝儲弐之日、納以為妃。・・略・・。神亀元年、聖武皇帝即位、授正一位為大夫人。生高野天皇及皇太子。・・略・・。天平元年、尊大夫人為皇后。
 
 この文章からすると、藤原安宿媛は、最初、聖武皇帝が皇太子に任ぜられたときに、その室に入り、その後に何らかの事情があり、藤原安宿媛は「大夫人」つまり「先の天皇の夫人」となったことになります。そして、さらに先の天皇の死後に「大夫人」として、再び、聖武皇帝の室に戻り、改めて、聖武皇帝の「夫人」となったことになります。こうした時、「授正一位為大夫人。生高野天皇及皇太子」から、神亀年間に産んだ阿部内親王と基親王の父親は先の天皇(可能性として長屋親王)の解釈が出て来ます。しかしながら、これは俗に云う「為にする」読み方となります。
 一方、なぜ、後年に光明皇后との俗称を与えられた聖武皇帝の夫人であった藤原安宿媛の生涯を説明するために、義母の藤原宮子の事跡を盗る必要があったのでしょうか。平城京の政治を牛耳った光明皇后は、そのまま、生涯の事跡を紹介すれば良いはずです。ところがそれが出来なかったところから考えると、それが出来なかった何らかの事情があるのでしょう。それとも、全てが史実でしょうか。いずれにせよ、天平宝字四年六月七日の死亡記事の内容もまた、信用の出来ない創作記事なのは確かです。
 この記事が信用できないのなら「大御祖」と云う言葉が使われている神亀元年三月廿二日の記事もまた、信用が出来るのでしょうか。神亀元年三月廿二日の記事では「大夫人」の言葉は収容され、「皇太夫人」と云う言葉を使用するように詔勅が発布されています。本来、神亀元年三月廿二日以降の公文書では藤原宮子に対して、「大夫人」の敬称ではなく、「皇太夫人」の敬称を使わなければならないはずです。それに対して天平宝字四年の記事では神亀元年二月六日の記事「勅尊正一位藤原夫人称大夫人」を引用する形で「授正一位為大夫人」と表現しています。やはり、天平宝字四年の記事がおかしいのか、神亀元年三月廿二日の記事もまた作為なのか、難しいところです。
 ただ一方で天平宝字四年の記事を棚上げして光明皇后と称された藤原安宿媛の人物を語ることは出来ません。この藤原安宿媛の正式な官位が判明する記事は、天平元年八月の記事「詔立正三位藤原夫人為皇后」が最後です。これ以降、天平宝字四年六月七日の死亡記事に載る「神亀元年、聖武皇帝即位、授正一位為大夫人。生高野天皇及皇太子」以外はありません。ところが、天平宝字四年の記事の官位は義母の藤原宮子の事跡の紛れですから、これでは採用ができません。結果、「皇后正三位藤原夫人」が最終の正式の官位だったのでしょうか。ここで、ご存じのように、聖武皇帝には複数の「夫人」がいました。そして、困ったことに、その内に三人もの藤原夫人がいました。
 
夫人の名称 死没時官位
贈正一位太政大臣不比等之女;藤原夫人(安宿媛、光明皇后) 不明
贈正一位太政大臣武智麻呂之女;藤原夫人(名称不明) 正三位
贈正一位太政大臣房前之女;藤原夫人(名称不明) 従二位
参考として、それ以外の夫人の死没時の官位
正四位下橘宿禰佐為之女;夫人広岡朝臣古那可智 正二位
従五位下県犬養宿禰唐之女;夫人県犬養宿禰広刀自 正三位
 
 この夫人たちとのバランス関係や律令体制の規定からすると、五世の王である夫人広岡朝臣古那可智が旧王族して最高位の正二位の官位を持ちますが、他方、儀式序列からして正夫人である光明皇后が古那可智の正二位の官位以下であるはずはありません。ただし、光明皇后の政治的立場から、周囲の者が正式に官位を授与することを失念していた、又は、本人が官位を与える立場で貰う立場ではないとして拒否していた可能性はあります。天皇は官位を授与する立場で、授けられる立場ではありません。これと同じことが光明皇后に起きたのかもしれません。それで、贈正一位太政大臣不比等之女;藤原夫人(安宿媛、光明皇后)が亡くなられた時、正式官位が正三位のままだったことが判明したのでしょうか。それで仕方なく、義母の藤原宮子の事跡を盗ることになったのでしょうか。
 中国の唐王朝では正妻の皇后には官位はありませんが、次のランクの妃は正一品で、その次の嬪は正二品です。続日本紀では聖武天皇ではなく聖武皇帝との敬称を使うように光明皇后は皇帝の皇后として大陸の慣習に応じて官位を持たなかったのかもしれません。又は、先の氏姓革命の考えを持つ続日本紀を改訂した時の担当者が中国大陸の慣習に従い皇帝の皇后と考え、あるべき三位から二位への綬位の記事を原本の続日本紀から削除したかもしれません。
 憶測に類推を重ねましたが、再度、問います。天平宝字四年の記事を棚上げして光明皇后と称された藤原安宿媛の人物を語ることは出来るでしょうか。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に載る正一位の綬官者リストには、この藤原安宿媛は載っていません。つまり、Wikipediaを編集した研究者もまた、藤原安宿媛の死亡記事を信用していません。さて、光明皇后と称された藤原安宿媛とは、どのような人物だったのでしょうか。
やはり、我々は平安末期の平重衡による東大寺や興福寺などを焼く尽くした南都焼き討ち事件に端を発する、重源たちの寄付金集めの勧請運動の過程で作られた鎌倉時代以降の法華寺の「浴室」に関わる光明皇后物語を、史実として受け入れる必要があるのでしょうか。仏教は「嘘も方便」と解きますが、歴史はその「嘘も方便」を採用するわけにはならないと思います。死亡記事を史実通りに記載出来ない人物が為した統治の記録を、どのように扱えば良いのでしょうか。
 この光明皇后(安宿媛)は長屋王の変と云う正統な皇統からすると臣下が天皇に対しクーデターを起こした空前絶後の大事件の首謀者の一員です。さて、どのように奈良時代史やその時代の文学である万葉集を解釈すれば良いのでしょうか。現代のインターネットが発達した条件下では、古典の原文の入手は非常に容易になっています。また、原文に対する訓読や解説なども、多く、インターネット上で入手が可能です。実に、難しい時代になりました。
 おまけですが、古代史では講談社学術文庫の続日本紀の現代語訳の本が非常に有用なものがあります。ただ、この本は宇治谷孟氏の翻訳・整理によるものですが、続日本紀の全体を通した点検や再確認の作業を行う前に、氏は不幸な交通事故で亡くなられています。そのため、未出版だった部分を御夫人の輝千代氏が遺稿を下にして残余を出版した形となっています。学問的には不安定な状態のものとなっています。
 この講談社学術文庫の続日本紀・現代語訳をお手にされると判りますが、宇治谷孟氏は続日本紀の旧暦表記を西暦表記に直すと、載っている記事の時系列が違う、暦上では存在しない日付の記事がある、など、暦の上の異常をその記事の日付を示す所に()を用いて指摘する作業をされていています。それらの正史としてはあり得ない日付の矛盾等に対する学問上の整理・検討などは道半ばで亡くなられています。講談社学術文庫の続日本紀・現代語訳を参考にされる場合は、このような未点検の遺稿を出版したものであることを御理解の上、原文との対比をされて利用されることをお勧めします。
 加えて、宇治谷孟氏の癖と思われますが、原文がそれまでの通説と違う場合、それまでの通説に合わせる形で訳文により歴史問題が生じないようにと、「原文には拠らない力技の翻訳」を行っており、原文直訳とは違うものを示すような訳文箇所があります。そこも一つの特徴です。そのような訳で、原文対比を載せない講談社学術文庫の続日本紀・現代語訳からではその「原文には拠らない力技の翻訳」には気が付きませんので、視力検査のようなものとなりましたが、漢文ですが続日本紀の原文を紹介させていただきました。

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