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職業人としての柿本人麻呂

柿本朝臣人麻呂の家族と祭祀
柿本朝臣人麻呂の妻たち

 
 前節では歴史に残る柿本朝臣の姓を持つ人々から人麻呂の身分とその子孫について考察をしました。本節では人麻呂の妻子について考察をしています。当然、人麻呂は日本書紀や続日本紀などの正史に記録を残しません。手掛かりは万葉集に載る歌のみとなります。従いまして、人麻呂の妻子の考察は、ある種、人麻呂の歌の鑑賞となることを御了解下さい。
 人麻呂の妻、または愛人として有名な軽里の妻(あるいは隠れ妻)から考察をしますが、他にも人麻呂には石見国の妻、引手山の妻、依羅里の妻など複数の妻が居たと推定されています。人麻呂歌の鑑賞態度により、その妻たちは呼び名が違っていても同一人物とする立場、それぞれの妻たちは別人であるとする立場、などにより、二人説から四人説まで幅がありますが、ここではすべての妻はそれぞれ別人であるとして四人説の下、考察を行っています。
 
軽里の妻
 人麻呂の妻たちについて考察を行う前に万葉集で人麻呂が詠う歌で使う漢字の用字について、最初に寄り道をします。そして、その寄り道から軽里の妻へと考察を広げていきます。
 まず、万葉集に載る柿本人麻呂の歌に「妻死之後泣血哀慟作歌二首」と云う歌群があり、この最初に載せられる集歌二〇七の長歌に「吾妹兒」と「吾妹子」との違う表記ですが、発声では同じ読みを持つ言葉が使われています。最初にこの「兒」と「子」の用字について寄り道を行います。
 
柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首并短哥より
標訓 柿本朝臣人麿の妻死りし後に泣(い)血(さ)ち哀慟(かなし)みて作れる歌二首并せて短歌
集歌二〇七
原文 天飛也 軽路者 吾妹兒之 里尓思有者 懃 欲見騰 不己行者 人目乎多見 真根久往者 人應知見 狭根葛 後毛将相等 大船之 思憑而 玉蜻 磐垣渕之 隠耳 戀管在尓 度日乃 晩去之如 照月乃 雲隠如 奥津藻之 名延之妹者 黄葉乃 過伊去等 玉梓之 使乃言者 梓弓 聲尓聞而(一云、聲耳聞而) 将言為便 世武為便不知尓 聲耳乎 聞而有不得者 吾戀 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 軽市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 獨谷 似之不去者 為便乎無見 妹之名喚而 袖曽振鶴(或本、有謂之名耳聞而有不得者句)
訓読 天飛ぶや 軽し道は 吾妹兒し 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと 大船し 思ひ憑(たの)みに 玉かぎる 磐(いは)垣(かき)淵(ふち)し 隠りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れ去(い)ぬしごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻し 靡きし妹は 黄葉(もみちは)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓し 使の言へば 梓弓 音に聞きに (一は云はく、 音のみ聞きに) 言はむ術(すべ) 為(せ)むすべ知らに 音のみを 聞きてあり得ねば 吾が恋ふる 千重(ちへ)し一重(ひとへ)も 慰もる 情(こころ)もありやと 吾妹子し 止(や)まず出で見し 軽し市に 吾が立ち聞けば 玉(たま)襷(たすき) 畝傍の山に 喧(な)く鳥し 音(こへ)も聞こえず 玉桙し 道行く人も ひとりだに 似てし去(ゆ)かねば 術(すべ)を無み 妹し名呼びて 袖ぞ振りつる (或る本に、「名のみを聞きにありえねば」といへる句あり)
 
 なお、ここで紹介した歌は西本願寺本の『万葉集』に準拠しています。一般的な校本万葉集やその訓読み万葉集をテキストとして使った物では原文の「兒」、「児」、「子」の用字は、時に「子」の字へと換字・統一しています。従いまして、そのような訓読み万葉集をもってテキストとして使う場合、そのテキストで載せる歌とその解釈に相違が生じます。その使うテキストの相違により歌自体が違う事例を『人麿の妻(斎藤茂吉)』より引用して紹介します。
 
一、 軽娘子。 人麿が、妻が死んだ後泣血哀慟して作つた長歌、((巻二 二〇七、二一〇、二一三))のはじめの歌に、『軽の路は吾妹子が里にしあれば、……吾妹子が止まず出で見し軽の市に』とあるので、仮に人麿考の著者に従つてかく仮名した。この長歌で見ると、秘かに通つてゐたやうなことを歌つてゐるが、此は過去を追懐して恋愛初期の事を咏んだ、作歌の一つの手段であつたのかも知れない。
 
 このように斎藤茂吉氏は『人麿の妻』で人麻呂とその妻について考察を行うにおいて、テキストとして万葉集歌を引用する時、その歌において原文では「吾妹兒」と「吾妹子」との違う表記を引用では「吾妹子」へと統一し使用しています。
 では、「吾妹兒」と「吾妹子」とは同じ言葉でしょうか。そこで、その相違する「兒」と「子」との漢字の意味を中国の漢字辞典を紹介するHP『漢典』で調べますと、次に示すように、この「兒」と「子」との漢字はそれぞれまったく違う漢字であり、当然、その意味も違います。また、「児」は「兒」の異字体として扱われていますが、正漢字において「児」は「子」の異字体ではありません。
 
HP『漢典』 康煕辞典の欄より抜粋
「兒」
《說文》孺子也。象形。小兒頭囟未合。又《韻會》男曰兒,女曰嬰。又《韻會》兒、倪也。人之始、如木有端倪。又《倉頡篇》兒、嬬也。謂嬰兒嬬嬬然、幼弱之形也。
 
「子」
《說文》十一月陽氣動、萬物滋入、以爲稱。《廣韻》息也。《增韻》嗣也。《易・序卦傳》有男女,然後有夫婦。有夫婦、然後有父子。《白虎通》王者父天母地曰天子。天子之子曰元子。《書・顧命》用敬保元子釗。又《儀禮・喪服》諸侯之子稱公子。
又凡適長子曰冢子、卽宗子也。其適夫人之次子、或衆妾之子、曰別子、亦曰支子。《禮・曲禮》支子不祭、祭必告於宗子。又男子之通稱。《顏師古曰》子者、人之嘉稱、故凡成德、謂之君子。《王肅曰》子者、有德有爵之通稱。
 
 ところが、現代日本語では「兒」は「児」の旧字体として扱われ、同時に「児」は「子」の同意異字体として扱われる場合があります。つまり、斎藤茂吉氏の例に見るように万葉集原文の文字や言葉の認識において、本来、別の意味を持つべき「兒」と「子」との字に対し、それを同意異字体とし、同じ意味の字と認識している可能性を排除することができません。
 確かに「兒」が「孺子也」であり「人之始」であるとき、「子」に「然後有父子」とか「嗣也」とかの意味があれば、解釈の流れで「兒」とは「親の子」や「人の子」と考えるべきかとは思います。しかしながら、万葉集時代に直結する隋・唐時代での漢字認識において「兒」と「子」との字が示すべき対象や意味は違うと考えます。つまり、『万葉集』の歌を記述する時、その時代の人々が隋・唐時代の漢字知識で記述したであろうと推定しますと、言葉の表記において漢字の使い分けがあれば、その言葉の意味するものは違うはずです。およそ、「兒」の言葉は「兒、嬬也」の説明が端的に示すように「幼き子供」や「かよわき子供」を意味しますし、「子」の言葉は「嗣也」や「子者,有德有爵之通稱」と説明されるように「リーダーのような人物」や「尊敬されるような人物」をイメージすると考えます。従いまして、「兒」の字の意味を「親の子」や「人の子」のイメージとし、「子」の字へと統一すべきものではないと考えます。
 このように「兒」と「子」との漢字には違う意味が明確に存在するとしますと、「吾妹兒」と「吾妹子」との言葉において、その表記の使い分けの根底には生活や立場からの使い分けがあったのではないかと推測することが可能です。つまり、「吾妹兒」においては「兒」は子供を表す言葉として「吾の妹の兒」と理解し「私の愛しい貴女の幼い子供」であり、「吾妹子」においては「子」は尊敬を表す言葉として「吾の妹子」と理解し「私の尊敬する愛しい貴女」と理解すべきと考えます。
 当然、柿本人麻呂の歌に次のような歌があり、この「出雲兒」と「出雲子」とは同一人物と解釈するのが正しい解釈です。この二首の例からしますと、自然の流れとして歌で詠われる人物が同一人物と解釈するならば「兒」と「子」との漢字は同意異字体との推定が生じると思われます。
 
集歌四二九
原文 山際従 出雲兒等者 霧有哉 吉野山 嶺霏微
訓読 山の際(ま)ゆ出雲の兒らは霧なれや吉野の山の嶺(みね)にたなびく
私訳 山際からよ。出雲一族のかよわき貴女は、今は霧なのでしょうか、その霧が吉野の山の峰へと棚引いている。
 
集歌四三〇
原文 八雲刺 出雲子等 黒髪者 吉野川 奥名豆風
訓読 八雲(やくも)さす出雲(いづも)し子らし黒髪は吉野の川の沖になづさふ
私訳 多くの雲が立ち上る出雲一族の乙女の貴女、貴女の自慢の黒髪は吉野の川に中ほどに揺らめいている。
 
 では、この「出雲兒」と「出雲子」との表現から対象となる女の子に対して「かよわき女の子」であり、「立派な女性」であると云う同時の解釈は成り立たないのでしょうか。
 直接、生活を共にしていなく、何らかの縁で葬儀に参列するだけのような関係であれば、それは有り得ると考えます。およそ、御幸の旅先で事故死をした場合、当時の氏女の出仕規定では十三歳以上であったことからすると、一番若い年齢想定では十四歳前後で死んだ女性に対して、弔辞として「現実としては、まだ、幼い貴女でしたが、しかし、立派な大人の女性として死んだ」と述べることは有り得ると考えます。逆にそれが弔辞を述べる者の礼儀ではないでしょうか。
 従いまして、この集歌四二九と集歌四三〇との歌で使われる「出雲兒」と「出雲子」との表記から「兒」と「子」との漢字を同意異字体と扱って良いとの推定は出来ないと考えます。逆に、歌意の目的で用字の使い分けが有ったと推定するのが正しい歌の解釈ではないでしょうか。
 
 ここまでの帰結として「兒」と「子」との漢字を同意異字体と扱うことは出来ず、万葉集の歌で使われる言葉「吾妹兒」と「吾妹子」とは違う人物を示すとします。ここを出発点として軽里の妻について考察を行って行きます。
 さて、「妻死之後泣血哀慟作歌」の標題を持つ集歌二〇七の長歌には、反歌として次の二首の短歌が付けられています。
 
集歌二〇八
原文 秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎将求 山道不知母
訓読 秋山の黄葉(もみち)を茂み迷(まと)ひぬる妹を求めむ山道知らずも
私訳 秋山の黄葉の落ち葉が沢山落ちているので道に迷ってしまった。居なくなった貴女を探そう、山の道を知らなくても。
 
集歌二〇九
原文 黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
訓読 黄葉(もみちは)の落(ち)り去(ゆ)くなへに玉梓の使を見れば逢ひし日念ほゆ
私訳 黄葉の落ち葉の散っていくのつれて貴女が去っていったと告げに来た玉梓の使いを見ると、昔、最初に貴女に会ったとき手紙の遣り取りを使いに託した、そんな日々を思い出します。
 
 この長歌と短歌とを総合的に鑑賞します。すると、集歌二〇七の長歌の「不己行者 人目乎多見(止まず行かば人目を多み)」や「不止出見之 軽市尓(止まず出で見し軽し市に)」の句、集歌二〇九の短歌の「相日所念(逢ひし日念ほゆ)」の句から推定して、軽の里で死んだ妻とは、疎遠ではありますが、長い期間に渡り縁を切ることなく夫婦関係が保たれていた妻です。その長く関係があった妻には子供があり、その子供の屋敷に身を寄せていたと思われます。つまり、長歌の句「軽路者 吾妹兒之 里尓思有者」を「軽の道は私の愛しい貴女の子供が暮らす里であるので」と解釈することは可能と考えます。
 ここで、「軽の道は 私の愛しい貴女の子供が暮らす里であるので」と解釈することが許されますと、特別な思考の飛躍が可能となります。
 まず、人麻呂は「従石見國別妻上来時謌」の標題を持つ長歌の集歌一三五の歌で「大夫跡 念有吾毛」と、当時の殿上人を意味する「大夫」になぞらえる立場であると歌を詠っています。つまり、「大夫」になぞらえる立場と宣言する歌が万葉集に載せられていることから推測して、人麻呂がそのような大夫の身分であったことは奈良時代では共通認識と考えられます。その貴族階級に属する人麻呂と軽の里で死んだ妻とは集歌二〇九の歌の「玉梓之 使乎見者」の句が示すように、人目に付くような正式の使者を立てての交際をしています。ここから軽の里で死んだ妻とは、身分的に人麻呂の手の内に囲われる女ではなく、使者を立ての妻問いをされるような対等の貴族階級の女であることが判ります。
 ここで、万葉集に人麻呂歌集の歌として採歌された大和国葛城郡の朝妻の地を詠う歌群を人麻呂とその妻との相聞歌と考えますと、その歌群で詠われる地名などから推定して、その妻は巨勢朝臣の一員と考えるのが相当ではないでしょうか。つまり、柿本朝臣一族の人麻呂と対等以上の氏族の格を有する女です。軽里の妻としては、この朝妻の地を本拠とした巨勢朝臣一族は有力な候補となります。
 さて、集歌二〇七の長歌に戻りますと、その歌の句から「軽の道は 私の愛しい貴女の子供が暮らす里であるので」と解釈しますと、貴族階級の人麻呂が、度々、子供の屋敷に同居する妻を訪ねることを遠慮しなければならないとはいかなる状況でしょうか。まず、世間に遠慮し気軽に訪ねることの出来ない子供ですと、その子供は嫁いだ娘と思われます。ほぼ、独立した息子ではないと思います。それも、人麻呂も妻も貴族階級に属しますから、嫁いだその娘も貴族階級の娘としての立場です。そして、その娘の婚姻は自分の家に男を迎える妻問い婚ではなく、自分の家から出ての男の家への同居婚ですから、当時の婚姻の風習と娘の身分とのバランスを考えると相手の男は高貴な皇族と推定されます。
 するとここで思考の飛躍が現れます。飛鳥御浄原宮から藤原京の時代に軽の里に邸宅を持った高貴な皇族は誰かと云う問題に対するものです。そして、それが草壁皇子であると云う可能性です。
 草壁皇子の御子、文武天皇は、その諱を珂瑠皇子(または軽皇子)と称し、この珂瑠(軽)の名称は養育された場所であろうと推定されています。およそ、十五歳で即位と云う少年天皇であった文武天皇は、その諱から軽の里で養育されていたと考えられていますし、その即位時の年齢から独立した自分の宮を持つ前に即位したと推定することが可能でしょう。つまり、その母親である阿閉皇女は軽の里に宮を持ち、そこで珂瑠皇子を養育して共に暮らしていたと推定します。ここで、皇太子が血統の保持や治安警備などの理由で、日々、妻問ひを行ったとは考えられません。およそ、皇太子の正妻となる阿閉皇女は同居する妻です。その阿閉皇女の夫である草壁皇子が生前に住まわれた宮は島宮と称され、現在の明日香村島庄にあったとされています。しかしながら、文武天皇の諱の珂瑠(軽)から応神天皇の軽島豊明宮(橿原市大軽町)付近も捨てきれないと考えます。また、当時、軽の里に皇族に関わる池が存在したことは次の歌からも明らかです。
 
紀皇女御謌一首
標訓 紀皇女(きのひめみこ)の御(かた)らしし歌一首
集歌三九〇
原文 軽池之 浦廻徃轉留 鴨尚尓 玉藻乃於丹 獨宿名久二
訓読 軽池(かるいけ)の浦廻(うらみ)行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり宿(ね)なくに
私訳 家の横の軽の池の水面を泳ぎ回る鴨ですら柔らかな藻で出来た褥の上で独りでは夜を過ごさないのに、夫の弓削皇子が亡くなられ、今、私は独り。
 
 さらに、この軽の里と推定される現在の地名、橿原市大軽町から石川町にかけては蘇我氏の本拠ともされていますので、蘇我本流を継ぐ持統天皇・草壁皇子・文武天皇が持統天皇の祖父に当たる蘇我石川麻呂以来の資産を維持し私邸を持っていたと想定すると、実に相応しい場所となります。
 歌に「玉梓之 使乃言者(玉梓し 使の言へば)」と詠うように、恋妻と人麻呂とはその恋妻の死亡に際して小者の使い走りではなく、梓の杖を持つと形容されるように、ある程度の支度をした正式の使者が立てられていますから、人々には二人の恋仲は周知の事実です。従いまして、「古来、恋は隠さなければいけない」と云うような回答にならない回答ではなく、人麻呂が恋妻の許を妻問うことをはばからなければいけない納得できるような理由を考える必要があります。
 ここで思考の飛躍ではありますが、人麻呂と軽の里で死んだ妻との間の娘が草壁皇子の許に嬪として嫁ぎ、その草壁皇子が亡くなったあとも、再婚を許されることなく皇太子の未亡人として亡き草壁皇子の邸宅で暮らしていたとの推定が出来ないでしょうか。
 およそ、人麻呂歌集から推定すると、ある時期まで人麻呂の恋人は宮中女官でした。その宮中女官であった恋人が娘の草壁皇子への入内に伴い、付き添いとして草壁皇子の邸宅の一隅で娘と共に暮らしていたと想像することは可能ではないでしょうか。この状況で有れば、阿閉皇女が氷高皇女や珂瑠皇子たちと共に暮らす亡き草壁皇子の邸宅に、自分の娘や恋妻を訪ねるとは云え、度々、訪問することは控えるべき状況であったと推測します。それが、「人目乎多見 真根久往者 人應知見(人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ)」ではないでしょうか。
 この思考の飛躍からの延長線での憶測ですが、皇族の挽歌を詠うのに資格や近親者でなければいけないと云う制約はなかったのかと云う疑問が生じます。
 主たる挽歌に添えるような従者が詠う反歌ではなく、葬送の儀礼での主体となるような挽歌を詠う人物は歌が上手で有れば、その立場に資格は求められなかったのでしょうか。昭和天皇の葬送の儀礼では今上天皇が御誄を奏上し、後、皇族が拝礼を行ったとされています。また、『日本書紀』によると天武天皇の誄の奏上は、最初に大海宿禰蒭蒲が壬生の誄を、次に伊勢王が諸王の誄を奉げる順で行われています。壬生を養い親の風習にあるとすると、大海宿禰蒭蒲は養い親の立場から、形式上、義父のような扱いになるのではないでしょうか。つまり、一番近い親族に当たると考えられます。当然、皇位後継者が御誄の奏上を行うのが相当でしょうが、草壁皇子と大津皇子との関係など、正式に皇位後継者が天下に承認されていない場合は、政治的知恵として壬生の親が一番近い親族として振る舞うことはあったと想像します。
では、草壁皇子の挽歌は、どうでしょうか? 皇子の挽歌は柿本人麻呂により奏上されています。
 これからは妄想です。
 人麻呂と軽の里で死んだ妻との間の娘が草壁皇子の許に嬪(正式には皇子の妾女)として嫁ぎ、その娘に女の子が生まれていた可能性はないでしょうか。
歴史において、高市皇子が亡くなり皇族会議が開催され、その評議が決するまで草壁皇子の御子、珂瑠皇子は皇太子の身分では有りませんでした。つまり、阿閉皇女の御子であっても珂瑠皇子(立太までは三世の王)の立場が不安定であるならば、人麻呂の娘の産んだ女の子はさらにその身分は不安定で、正式には多数が存在する三世の女王の立場でしかありません。逆にそうであるならば、嬪の産んだ三世の女王の親でしかないのなら係累から政治的な力は生じないでしょうから、ある種、義父として一番近い親族の形で草壁皇子の挽歌を奏上する可能性はのこるのではないでしょうか。それが人麻呂による草壁皇子への挽歌奏上と考えます。
 なお、軽里の妻の生涯を語ることは、ほぼ、人麻呂の生涯を語ることに等しくなりますので、それは別の機会に触れたいと思います。

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