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公廨稲(くがいとう)から万葉社会を考える

 今回は、特殊で聞き慣れない言葉、「公廨稲」と云うものから万葉集を鑑賞してみたいと思います。この「公廨稲」とは官が保有する稲種を農民に貸出、その貸し出した稲種に対し利子を取り、税収の一部とした行為を指します。天変地異などにより耕作の稲種を失った農民救済での稲種貸し出しは「公出挙」と云いますが、救済よりも公による営利目的が主体のものを「公廨稲」として特別に区分します。制度としては聖武天皇の天平17年から正式に施行されています。
 視線を変えまして、一般には奈良時代の人々の暮らしぶりを万葉集の巻五に載る山上憶良が詠う「貪窮問答」から、日々の食事もままならなかったほどの困窮した生活と紹介します。ただし、この説明は「貪窮」の言葉を一字換字して「貧窮問答」として「ビングウ」と訓じる特別な解釈であり、もし原文通りに「貪窮問答」の言葉を仏教用語の中国語訳である「ドングウ」と訓じるのならば、まったく、違った解釈になります。
 ご存知のように仙覚系万葉集写本(紀州本など)では「貪」の文字を使い、現代の校本万葉集では「貧」の文字をつかいます。その冠の部分が「今」と「分」の違いがあります。冠の部分が「今」の方の「貪」が意味する仏教の教えに従い「足ることを知らない底知れぬ欲望」との戒めを守るか、冠の部分が「分」の方の「貧」が意味する「貧乏に窮まった」と解釈するかの根本的な立場の違いがあります。当然、奈良時代の聖武天皇以降に特権を与えられ、この世の贅を極め尽くした僧侶や貴族が「仏教の教えに従い、欲を貪り、贅を窮めるな」との戒めを守り、仏教説話である山上憶良が詠う「貪窮問答」をそのように解釈するかは、疑問です。その反映か、現在の解釈は平安時代以降の解釈である「ビングウ」と訓じる立場から行われています。実に色眼鏡です。
 本来の仏教の戒律では僧侶や修行者は日々の食料は「乞食(こつじき)の業」の中で得ることになっていて、その僧侶や修行者のために特別に調理された食事を「乞食の業」の「施し」として受け取ってはいけないとします。「貪窮問答」が詠う世界は、筑前国司である山上憶良のために夜が明ける前から人々が起き出して、甑で蒸した「ハレの日」のものである強飯の特別食を準備する様子です。憶良は建前上の仏教徒(奈良時代の官僚は建前として仏教徒)としてはそれが「恥ずかしい」と感じ、一方、地方視察をする国司としてはその食事準備を、視察先の邑長の国司饗応の責務として「当然」としなければいけないとも思う、この感情の板挟みにあります。「貪窮問答」の歌には農民の貧困などは詠われてはいません。本来の根本仏教を詠うものです。それで、その「貪窮問答」の長歌に付けられた反歌で、仏教の教えの貪窮問答について学問・学識としては判っていても、それが実践できない、その自分への情けなさと気恥ずかしさを示し詠います。
 
集歌893
原文 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
訓読 世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
私訳 この世の中のことを、情けないとか、気恥ずかしいことと思っていても、この世から飛び去ることが出来ない。私はまだ死者の魂と云う千鳥のような鳥ではないので。
 
 さて、以前に奈良時代の庶民はどのようなものを食べ、いかに生活して来たかは、以前に「万葉時代 庶民の食事に遊ぶ」の与太話で紹介しました。今回は、律令政治の税制からこの方面を眺めてみたいと思います。ただ、私の興味の中心は万葉集の鑑賞ですので、扱うものの守備範囲は持統天皇朝から元正天皇朝に絞らせて頂きます。古代史では、ちょうど、人口急増と社会資本の蓄積が急激に進んだ時代に相当します。なお、人口動態研究者によりますと、この後、聖武天皇の治世後半頃から統治の悪化を起因として全国的な耕地管理の乱れが出始め、平安時代へ向けて農業生産量減少と人口減少の時代へと入るようです。現代でもそうですが文化と経済とに関係が見られるように、古代でも万葉集の全盛期と社会情勢の全盛期とが重なると云う現象があったようです。面白いものです。
 その律令制度での税制である租庸調に注目しますと、班田収授法に基づく地税に相当する収穫物に対する直接税は「租」です。一般にこの租税の税率は日本古来の風習である神道の出穂料に相当する税率約3%前後だったと説明されます。ちなみに、庸税は農作業で要求される水路・圃場整備での共同作業に相当し、調税は古代での支配者への貢に相当するものです。このように眺めますと、租庸調は大陸からの律令体系に基づく新しい税体系のように思われますが、その内実は日本古来の農村の慣習に従う税体制の一面もあります。そのためでしょうか、藤原京時代に新規に導入・施行された班田収授法と租庸調の税制が反乱や動乱と云う社会現象を伴うこともなく、また、朝廷軍による全国武力制覇と云うこともなく、平安裏に全国規模での導入が成されています。これは日本独特の現象で、諸外国では見られないものです。
その租税率について見てみますと、平安時代初期に整備された『令集解』では奈良時代の租税税率を次のように紹介しています。
 
慶雲三年九月十日格云。(令集解)
准令、田租一段租稲二束二把、歩以之方内五得尺米為一歩升、町租稲廿二束。
令前租法、熟田百代租稲三束、歩以之方内六得尺米為一歩升、町租稲十五束。
右件二種租法。束數雖多少輸實猶不異、而令前方六尺升漸差地實。
遂其差升亦差束實。是以取令前束擬令内把、令條段租其實猶益。
今斗升既平。望請、輸租之式折衷聴勅者。
朕念、百姓有食萬條即成、民之豊饒猶同充倉。
宜収段租一束五把、町租十五束。主者施行。
 
 紹介しました「格」によると、大宝律令体系で規定される租税は国税相当の田租税が一段当たり稲二束二把と地方税相当の町租税が稲廿二束です。ところが、慶雲三年九月十日の勅令によりますと、従来の租税は熟田百代当たり田租税が稲三束と町租税が稲十五束となっていました。これが古くからの慣例だったようです。ところが、大宝律令では大陸から新しい尺貫法が導入され、面積と升容量の定義が変わったため新旧の税率を直ちに比べることは困難ですが、この「格」に示す文章からすると新税率の方が農民にとって重かったようです。このため、租税を納める農民の不満を解決するため、国税相当の田租税が新しい尺貫法を下に田一段当たり稲一束五把、地方税相当の町租税が稲十五束へと低減・調整されています。当時の水田の穀物生産量は田の地勢の優劣で上田は五百束、中田は四百束、下田では三百束と規定されていましたから、総合想定税率を単純計算しますと上田では3.3%、中田では4.1%、下田では5.5%の税率となります。ただ、実際は班田収授での不公平をなくすために土地の地力による収穫量の違いに対し班田面積を増やすなどにより農民一人の収穫量を一定にするような租税調整が為されていましたから、おおむね、持統天皇朝から元正天皇朝までの統治期間での平均的な租税率は上田への税率に類似する3.5%程度だったと思われます。こうしてみますと、当時の耕作収穫物の大半は農民の手に残されていたことになります。江戸期の農民のように為政者によって収穫物の四割から五割ものが簒奪をされていた訳ではありません。昭和時代の社会思想家に流行した、農民は必ず貧困であって欲しいと云うイメージと実際の相違がここにあります。参考として町租税として収納された穀物は地域内に保管され凶作時には救荒米として一部が供出されましたから、農民にとっては不満の募るような税制ではなかったと思われます。
 さらに驚くべきことはこの3.5%程度の軽い租税であっても、元正天皇朝までの統治期間を通じて政府・行政側には余剰が生じていたようです。その状況を説明するものが公廨稲と云う言葉を説明するものの中にあります。それが次の文章です。
 
<解説>
天平17年(745年)、大国40万束・上国30万束・中国20万束・下国10万束(ただし、飛騨国・隠岐国・淡路国は3万束、志摩国・壱岐国は1万束とされた)を正税から分離して出挙し、その利稲(収益)で官物の欠失未納を補填し、残りを国司の収入とした。それ以前については公田の地子稲を充てたり、国司に無利子で官稲を貸し与えたりして、これを出挙に準じて運用(「借貸」)させていたと考えられている。なお、公廨稲導入の主な目的については、国司の給与を確保する目的とする見方と、官物の不足分を補うことが目的であったとする見方が対立している。
 
 この説明から判るように天平17年段階では、正税(租税としての穎稲)として保管していたものから一部を分離して、農民への貸出用の稲種を確保するだけの十分なる余裕がありました。およそ、それは最低限、年度を通じて行政を運営する費用となる租税備蓄以外に大国40万束・上国30万束・中国20万束・下国10万束を「出挙」の原資に拠出することが可能な帳簿上の蓄えです。当時、租税に対して帳簿上の収支での欠損は確かにありましたが、それでもまだ、貸し出しに利用するだけの余裕は十分にあったと云うことです。
 参考に、天平7年からの天然痘の大流行で主に農村を中心に人口の3割ほどを失うという状況でも、備蓄食料により天然痘の大流行が次なる飢饉と言う大災害を引き起こすことなく、社会は持ち堪えています。これが飛鳥・奈良時代初頭の皇親政治の成果です。
 ここで、天平十七年から正式に始まった「公廨稲制度」での出挙と利稲の言葉について、解説を紹介しますと、次のようになっています。
 
<解説>
 稲粟の出挙は、主に農村部において盛んに行われた。元々、稲粟の出挙には、天武天皇4年4月の詔に示すように百姓の救済や勧農といった意味合いがあった。律令の雑令の規定では私的貸借の私出挙で満年利100%、公的貸借の公出挙でも満年利50%の利率とし、未返済利息への複利計算は禁止されていた。
 天候不順や無知な農民への複利適用などに起因する公出挙や私出挙に対する返済で百姓が疲弊し始めたことを知った朝廷は、養老4年(720)3月、公出挙の利子率の低減(年利50%から30%へ)、私出挙の利子率(年率100%)や複利禁止の厳守、そして養老2年以前に生じた全ての公出挙や私出挙の債務の免除を決定し諸国へ通知し、これを按察使の監察項目とした。しかし、この通達は徹底することなく多くの地域で公出挙の利子率は50%のままであった。制度上では天平9年(737)9月に私出挙の禁止の通知が出されたがこれも不徹底に終わった。
 律令上、租税の中でも正税は、地方機関(国府や郡家)の主要財源とされていたが、正税徴収には戸籍の作成、百姓への班田など非常に煩雑な事務を必要としていた。しかし、公出挙であれば、繁雑な事務を行わなくとも多額の収入を確保することができたので、行政監察が乱れ出すと地方機関の多くは百姓に対する強制的な公出挙を行い財源としたのである。このように、公出挙は租税の一部として位置づけられるようになった。つまり、国府や郡家などの地方機関は春になると正税(田租)の種籾を百姓へ強制的に貸与し、秋になると50%の利息をつけて返済させるようになった。この利息分の稲を利稲(りとう)という。
 更に天平17年(745)の国司の給与の財源として「公廨稲」が正税から分離されて、出挙の運用原資として用いられるようになった事で出挙と国司の収入が直接関係するようになると、むしろ公出挙は益々盛んになった。さらに一部の国司や郡司にこの公出挙を私出挙と偽り、さらなる高利で不当な利益を得る者も現れた。
 
 解説にありますように「出挙」は農業活動において、気象環境からの凶作を乗り切るには必要な制度です。適切な水田農地と労働力が確保されている場合、水稲栽培は非常に生産性の高い農作物です。そのため、災害で稲種を失った農民が耕作農地面積に見合う分量の稲種を利率50%から100%で借り受け、水稲栽培を行うことは非合理な高利ではありません。ここで、理解の補助として稲種と収穫量との関係を研究したものを紹介しますと、次のような解説があります。
 
イネの研究者、池橋宏は、中世ヨーロッパではムギの播種量に対する収穫量の割合は4倍であり、これに対して日本の奈良時代の稲作では25倍であったと、史料を分析しています。;「〈かごしまフォト農美展〉に見る水土の知」(門松/経久)より引用
 
 稲の品種改良が進んでいない古代にあって、その種籾の発芽率(50%程度)の悪さを特別に考慮しても借り入れ稲種に対して10倍以上の収穫は期待できるのではないでしょうか。また、万葉集の歌を参考にすると、万葉時代には種籾をお湯に浸して消毒と発芽を促進する「湯蒔」の技術が生まれていましたから、借り入れた種籾に対する収穫量は門松氏や経久氏が指摘するように25倍程度は期待で来た可能性があります。
 
集歌3603
原文 安乎揚疑能 延太伎里於呂之 湯種蒔 忌忌伎美尓 故非和多流香母
訓読 青楊の枝伐り下ろし湯種蒔きゆゆしき君に恋ひわたるかも
私訳 青楊の枝を伐り下ろし木鍬を作り、湯に浸した稲種の苗を植える、神田の下種祭の神事を行う神に仕える巫女である貴女に心が引かれます。
注意 原文の「蒔」の漢字には移植や分种の意味があります。
 
 もともとの「出挙」と云う公的な制度は、農民たちが厳しい自然環境の中に生きて行く上で生まれた生活の知恵を、公地公民を運営するために公の制度としたものです。説明しますと、中田とランク付けられた田の所有者は耕地面積から一段当たり30束程度の稲籾を借り受ければ十分に耕作が出来ますし、秋には400束ほどの稲穂の収穫が期待できます。返済は公出挙の場合は利子50%を含め45束です。手元には355束の稲穂が残ることになります。ここから租税を引いても約340束の稲穂が残ります。このように適切に運用がなされていれば農民救済策となります。ただし、このことは耕作農地面積に見合う分量の稲種を借り受けときだけの話です。強制的に100束もの稲籾を貸し出されたら大変なことになります。
 ところが、長屋王の役と言うクーデターで皇親政治を倒した藤原氏が政権運営を本格的に始めた聖武天皇の時代から農民の暮らしは変わります。天平17年に定められた「公廨稲制度」では、これを悪用する国守や郡司がいた場合、彼らは手持ちの稲種を強制的に公廨稲として「出挙」し、規定税収以上の利子収入があった場合は、制度を悪用するその役人の収入として良いことが、公式の制度として可能となりました。対する農民はその稲種の必要の有無に関わらず、つまり、それを用いての農作業からの収穫があるかどうかに関わらず、最低限50%の利子を付けて返納する必要が生じたのです。ここに農村の疲弊が始まり、都市貴族と僧侶の豪奢な生活の歴史が始まったのです。この天平17年は聖武天皇の唯一の男子である安積皇子が暗殺されたと疑惑された翌年のことで、政権運営では皇親系の橘諸兄から純粋藤原系の光明皇后・藤原仲麻呂一派へと移ったタイミングです。
 この天平時代後期より少し前、和銅年間から養老年間にかけて筑後国司と肥後国司とを兼務した道君首名と云う人物がいます。彼は善政を敷いたとして『続日本紀』に載せられた他、肥後国では神として祀られた人です。そして、彼と同時代人で豊前国司を執ったのが「貧窮問答」を詠った山上憶良です。この元正天皇朝までの官僚たちと農村・漁村の人々の距離感は後の世代の人々とは違い、非常に近いものがあります。まだまだ、貴族や官僚の家族は旧来の生活基盤であった地域・農村から分離されてなく、時に在野で農民と共に生活をしていた時代です。貴族・官僚の家族が在野にあり、自分たちの荘園で生活をしていたのでは、その地域の国司や郡司は、あまりでたらめな行政は出来なかったのではないでしょうか。それに元正天皇朝までは官僚は能力選抜が基本だったようで、聖武天皇朝以降のように「蔭位」制度からの特定の氏族だけが役職を独占すると云う事態は起きていません。
 元正天皇朝ごろまで、貴族もまた農村に基盤を持っていたと窺わせる歌が万葉集にはあります。それが次の大伴坂上郎女が詠う歌です。これらの歌からしますと坂上郎女は定期的に保有する荘園(庄や里)に出向き、直接に農作業などを指揮していたと推定されます。律令制度では五月と八月に十五日ずつの田假(でんげ)と云う農繁期の休暇制度があり、これが奈良時代では実際に運用されていましたから、まだまだ、農村と都市との分離は進んでいなかったと思われます。
 
<跡見庄>
大伴坂上郎女、従跡見庄、贈賜留宅女子大嬢謌一首并短謌
集歌723
原文 常呼二跡 吾行莫國 小金門尓 物悲良尓 念有之 吾兒乃刀自緒 野干玉之 夜晝跡不言 念二思 吾身者痩奴 嘆丹師 袖左倍沽奴 如是許 本名四戀者 古郷尓 此月期呂毛 有勝益土
訓読 常世(とこよ)にと 吾が行かなくに 小金門(をかなと)に もの悲(かな)しらに 念(おも)へりし 吾が児の刀自(とじ)を ぬばたまし 夜昼(よるひる)といはず 念(おも)ふにし 吾が身は痩(や)せぬ 嘆(なげ)くにし 袖さへ沽(か)へぬ 如(かく)ばかり もとなし恋ひば 古郷(ふるさと)に この月ごろも ありかつましじ
私訳 あの世の常世にと私がいくのでもないのに、家の門口で悲しそうに見えた私の子供の貴女のことを漆黒の夜と昼とは問わずに恋焦がれると、私の体は痩せてしまった。逢えぬ嘆きのために袖までも涙で傷んでしまう。このように虚しく貴女を恋しく思っていると、故郷にこの一月も過すことはありえません。
 
<春日里>
獻天皇謌二首  大伴坂上郎女、在春日里作也
集歌725
原文 二寶鳥乃 潜池水 情有者 君尓吾戀 情示左祢
訓読 にほ鳥(とり)の潜(かづ)く池水(いけみず)情(こころ)あらば君に吾が恋ふ情(こころ)示さね
私訳 にお鳥が水に潜る池の水よ、もし、人情があるなら貴方に私が人知れずお慕いする気持ちを示しなさい。
 
<竹田庄>
大伴坂上郎女従竹田庄贈賜女子大嬢謌二首
集歌760
原文 打渡 竹田之原尓 鳴鶴之 間無時無 吾戀良久波
訓読 うち渡す竹田(たけだ)し原に鳴く鶴(たづ)し間(ま)無く時(とき)無し吾が恋ふらくは
私訳 広々と広がる竹田の野原に啼く鶴の声が間無く時を択ばず聞こえるように、間無く時を択ばず私は貴女を心に留めています。
 
 万葉集の歌からすると、それは班田収授の制度解釈としては難しいのですが、貴族・官僚たちはまだまだ旧来からの相続された荘園を持ち、自らが赴き、その荘園を経営していたと思われます。農業は地域が一体となり水利管理や病害虫・野獣対策を行う必要がある産業です。地域大半の農地が荒廃し農民が逃げ出すようでは貴族・官僚たちが私有地として持つ農地にも影響が及びます。そうした時、自己支配の小作人だけは面倒を見るが、地域の農民の面倒は見ないと云うことが出来たでしょうか。これは疑問です。功利的に自己の農地と収益を守るために地域と人々にも庇護を与えたのではないでしょうか。
 その時、餓死者や逃亡多発と云うような事態は起きたのでしょうか。
 参考に奈良の都からそれほど離れていないと思われる大伴稲公の持つ跡見庄で開かれた宴会での歌と同じく大伴家持が持つ荘園で開かれた宴会での歌を紹介します。農村ですが貴族が同僚を呼び、風流の宴会をする様がありますから、周辺の地域・農村が荒廃していたとは想像が出来ません。
 
<大伴稲公の例>
標題 典鑄正紀朝臣鹿人至衛門大尉大伴宿祢稲公跡見庄作謌一首より
標訓 典鑄正(てんちうのかみ)紀朝臣(きのあそみ)鹿人(しかひと)の衛門大尉(ゑもんのだいじょう)大伴宿祢稲公(いなきみ)の跡見庄(とみのたどころ)に至りて作りたる謌一首
集歌1549
原文 射目立而 跡見乃岳邊之 瞿麦花 總手折 吾者将去 寧樂人之為
訓読 射目(いめ)立てて跡見(とみ)の岳辺(おかへ)し撫子(なでしこ)し花ふさ手折(たを)り吾(あ)は持ちて行く寧樂人(ならひと)しため
私訳 獣の跡を見つける射目を設ける跡見(とみ)の岳のほとりに咲く撫子の花、たくさん手折って私は持って行く。奈良の都で待っている人のために。
 
<大伴家持の例>
三月十九日、家持之庄門槻樹下宴飲謌二首より
標訓 三月十九日に、家持の庄(たどころ)の門(かど)の槻(つき)の樹の下にして宴飲(うたげ)せし謌二首
集歌4302
原文 夜麻夫伎波 奈埿都々於保佐牟 安里都々母 伎美伎麻之都々 可射之多里家利
訓読 山吹は撫でつつ生(お)ほさむありつつも君服(き)ましつつかざしたりけり
私訳 山吹は大切に育てましょう、このように貴方が身に付けられて、かざしにされたのですから。
 
 最後に天平年間中期以降に農民が苦しみ出したのは仏教と遷都が原因です。その源は聖武天皇・光明皇后による東大寺や全国での国分寺と国分尼寺の建立事業ですし、点々と遷った遷都事業です。それ以前は税の用途は鉱山開発、道路・港湾整備や河川・水利整備などの殖産興業への社会資本投資が中心でした。ところが、庶民の救済を忘れた仏教や王都の建設は贅を極めた消費の嵩を競うことだけが目的となります。それへの資本財の投資では生産基盤の整備にはつながりませんから、農村は疲弊し、人口減少へと陥って行きます。そして、同時に東大寺の大仏と云う世界最大の金銅仏を鋳造出来るほどの工業基盤は、やがて、自国で銅貨と云う通貨も鋳造出来ないほどに疲弊してしまいます。それが晩期万葉集以降の藤原氏が築き上げた社会を消費尽くす世界です。
 現代の偉大なる観光資源である奈良の大仏や寺院群に悪口を云う人はいません。ただ、一般の説明と万葉集が詠う世界とは少し相違があるようです。大伴旅人や山上憶良の時代までの万葉集の世界には豊富な食料の下、男女が愛を語らい、結果、子を産み増やすと云う明るさがあります。そのような庶民を含めた時代の明るさを楽しむ必要があります。
 偉大な聖武皇帝陛下は光明皇后・藤原仲麻呂が政治の実権を握った時、「公廨稲制度」と云う貴族・官僚が、法により庶民を己たちの贅沢の為に消費すると云う手段を日本で初めて発明し、実行しました。そして、この発明は姿を変え、進化しながら明治維新まで続きます。贅沢をしたい為政者からみると実に偉大な政治家です。一方、庶民にとっては、その後の江戸時代では年貢米の制度の源流となる、この「公廨稲制度」は実に恐ろしい制度です。
 経済からみると、このような見方があります。

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