見出し画像

少しずつ

現在、2022年の8月31日では、私の生活はやや残念である。


というのも、10日くらい前に、職場でコロナのクラスターが発生して、私のいるフロアの90%の利用者がコロナにかかり、フロアの職員の50%がコロナ感染で自宅待機となる、という非常事態の中にあるからである。

きっかけは職員のコロナ感染発覚だったが、その後1名の利用者からコロナ陽性がわかり、その3日後には30人以上が感染した。

4日後には40人以上が感染して、入院者も2名になった。

その非常事態の中、職員の感染も次々と続き、7名の感染者が出た。

私はあまりの感染の速さに驚きながら、非常事態態勢の職場で働き続けた。


職員が激減したため、常時12時間ほどの勤務になり、夜勤時には最大で24時間勤務という激務になってしまったので、身体はバキバキで頭はクラクラの状態だった。


ほとんどの利用者が陽性であるため、居室に隔離はしているが、あまり意味のないような状態であり、食事も各部屋で見守りながらのため、
最初は1時間半から2時間かかっていた。

N95マスクを装着し、フェイスガードを被り、ガウンを身につけているため、屋内とはいえ、動くと息苦しさと暑さで身体中汗だくの状態で仕事をしていると、頭がぼーっとしてくるのだ。

感染者の食べた発泡スチロールの食器や食べ残しは、全て感染ゴミになる為、赤いビニール袋に入れ、専用の段ボールに入れた後、エレベーターで降ろしてはいけないので、階段で3階から一階まで持って降りなければならない。


休日も次々と出勤になり、休めるのは夜勤明けの翌日のみという状態である。


最初の感染から約10日が経過し、ほとんどの利用者が回復してきたので、それが唯一の救いである。

この様な生活を続けていると、何か俗世間から離れて別空間に閉じこもっている様な感覚になってくる。


うちに帰っても家族に感染させないように2回に隔離して食事も寝るのも別だし、共用の物を触るときは手袋をしている。
感染はしていないが、ほぼ感染者のような生活だ。

仕事だから仕方ないと自分に言い聞かせてはいるが、ときどきいつまでこれが続くのかと天を呪いたくなるのだ。

こんな毎日であり、気づけばもう8月も終わろうとしている。
夏らしい事は何一つしていないが、こんな人が全国、全世界に何千、何万人といるのだろう。


この感染病が流行り始めてもう3年ほどになるのに、まだ一向に収束の気配もなく、マスクをつけての生活がもはや何の違和感もない日々になってしまった。
来年になっても再来年になってもこの状態が続くのだろうか。


息子は今年大学生になったが、講義はリモートがほとんどで、同級生と顔を合わせる機会がほとんどないようだ。息子は特にそれを苦にしてはいないようだが、やっぱり、何とかならないのだろうかとやり場のない切ない気持ちになる。

こんな感じで、日々大変なのだが、鬱々と不満を溜め込んでいてもしょうがないと思うのだ。
生活の中で、今やるべき事を懸命にやる。やりたいことをやる。やってみたいことをやる。食べたことないものをたべてみる。作ってみる。新しい音楽を聴く。昔聴いていた音楽を今聴いてみる。職場の人とたわいのない話で笑う。息子の最近の話を静かに聞く。妻の愚痴をじっと聴く。疲れたら寝る。


今していることが全て愛おしく、2度とない今を大切に生きていきたい。

こんな病気が世界中で流行っているのにもなにかしら意味があるのだろう。
意味がないとしても、今この世界で生きているのはたしかなのだ。


少しずつ私は変わりながら全ての愛するものに目を向けて生きていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?