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「もう一度、グリグリと強い線を引いたけど消えてしまったので、もう一度線を引く話」

 ぼくはかつて「東ときわ台」に、小6の途中から、高1の途中まで住んでいた。『週刊少年ジャンプ』が無茶苦茶に売れていて、ファミコンソフトの『ドラゴンクエスト』が発売された。ヤンキー漫画の『ビーバップハイスクール』が大ヒット。甲子園では桑田と清原が大活躍。放課後のテレビではダウンタウンの『四時ですよーだ』と、とんねるずの『夕やけニャンニャン』が高視聴率を稼いでいた。そこがぼくの放課後の居場所だった。

 その頃、友だちと近所の公園で遊んだ記憶は少ない。ぼくたちは自分たちの文化を持っていなかった。中学生になると受験戦争の波が思春期の身体に覆い被さり、勉強をしなかったぼくにもその重圧は等しく与えられた。不穏な社会事件が起こり始めた頃。

 ひとつ、違う毛色をした文化がぼくらの町「東ときわ台」にも届いた。「東急ハンズ」の広告だ。それは新聞の折込チラシに混じってやってきた。東急ハンズの広告には、アイデアに溢れる素敵なデザインの商品たちが紹介されていて、その広告をコレクションしている友だちがいた。ぼくは休日の陽光の差し込む友だちの部屋で、それを見るのが好きだった。彼の家は、未来にオンバシラの設置場所に選ばれる事になる「東ときわ台五丁目一号公園」のすぐ近くにあった。

 東ときわ台にヤンキーはいなかった。と思う。ヤンキー文化には代々継承される伝統が不可欠で、ぼくたちにはそれが無かった。大阪エリアでいうならば「岸和田」と対極にある感じ。孵卵器の中にいる様な危うい安心感に覆われていた。「近所付き合い」とか「コミュニティー」に積極的ではなく、仕事盛りのサラリーマン家庭が移り住む、お互いに無関心な冷めた町だと思っていた。町に熱気は無く伝統行事も存在しなかった。今のことはわからない。

 父の転勤のため、約4年で町を去った。横浜の高校に転校した。一番仲の良かった友だちが東ときわ台から横浜まで、高2の夏休みの終わりに遊びに来た。彼にパチンコに誘われて夏休みのバイト代を殆どスッてしまった。夏休みのほとんどを費やしてバイトした時間が、一瞬でパチンコ台に吸い込まれた。ぼくたちの時間は無防備だったし、無防備ではない態度の取り方を知らなかった。時間は知らぬ間に快楽や楽しさと引き換えに町の外へと霧散していった。暮らしの中に時間を留め、蓄積していくための術「文化」をぼくらは持たなかった。

 その頃「東急ハンズ」の広告の様な、別次元の文化が、もう一つ、辺境のぼくらの町にも届けられた。それは口コミのように広がって、ぼくの耳にも届いた。ミヒャエル・エンデの『モモ』だ。『モモ』には「時間泥棒」という存在が出てくる。舞台は「地域」だ。それまで賑やかで活気があり人間交流も盛んだった地域に時間泥棒が侵入する。人々の時間は知らぬ間に盗み出され、地域は次第に不穏な空気に包まれていく。モモは円形劇場の跡地に住んでいる。ぼろぼろの服を着た、ぼさぼさの髪をした少女だ。小さいのに、ひとりぼっちで暮らしている。モモには不思議な力がある。人の話を聞く力と、遊びを楽しくする力だ。モモの周りには、時間がたっぷりと充満していて、子どもたちはモモと一緒にいると、水を得た魚が泳ぎまわるみたいに遊ぶことが出来るようになる。地域の子どもたちは「モモと一緒にいる時はいつもよりずっと楽しく遊べる」という。『モモ』の冒頭に子どもたちが、円形劇場で演劇遊びをする場面がある。ぼくは『モモ』の中のこの場面がとても好きだ。子ども時代にこんな時間をたくさん過ごせたら良いのにと、いまでも羨望を抱いている。演劇遊びをすることで、時間が地域内に、身体の中に、記憶の中に充満して、地域に時間が蓄積されていく。演劇は世界になれる。演劇は時間をその場にプールすることが出来る。繰り返し、繰り返し、その演劇を吟味して、それを地域にまで育てることも出来る。かもしれない。授業も政治もテレビ番組も仕事もスポーツもどれもこれも人間が行う「事」は「演劇」として表現できる。多様な「いじめ」や「ハラスメント」が蔓延る世界。出来損ないの演劇遊びの参加者たちは、その演劇遊び「世界」に対して、もどかしく感じ不満を抱いている。もっと理想的なものに変えられるはずだ。

 2019年初夏、30年ぶりで東ときわ台を訪れた。時間、風雨、日差しにさらされて燻された、かつての「ニュータウン」は今や「ヴィンテージタウン」の趣きを醸し出していた。「アートプロジェクトのための地域リサーチ」という名目での訪問だった。誘ってくれたのは友人の建築家の岡啓輔。「のせでんアートライン2019「避難訓練」」に作家として招聘されたということだ。ぼくはたまたま能勢電沿線の「東ときわ台」の小中学校に通った関係から、岡さんの現地視察に同行した。その日は既に数カ所回った後で、その後特に予定している場所もないという事で、僕の住んでいた東ときわ台の家を見に行くことになった。なんの変哲もない新建材を多用して作られた住宅を皆で揃って見に行くなんて申し訳ないのと嬉しいのと半分半分の気分だった。アートイベントのメンバーに混ざれたのが嬉しかった。総合プロデューサーの藤村滋弘氏、アートプロデューサーの前田裕紀氏、地域リサーチディレクターの谷竜一氏、岡さん、当時五歳の息子翔馬氏とともに、待ち合わせた妙見口駅からときわ台駅まで能勢電に乗り、そこから徒歩で吉川中学を経由して、かつて住んでいた東ときわ台五丁目の家まで歩いた。

 それは散歩の様な、地域リサーチの様な、故郷訪問の様な、不思議な時間だった。その日は殊の外、天気が良く、一同上機嫌で、その日光と風雨と時間に燻され「薫製化した新興住宅地」を「魅力的な地域」として口々に賞賛しながら、山の斜面に設えられた遊歩道(幅が広く、可愛い植樹が施されている)をゆっくり登っていった。この町に住んでいた当時の自分にとって、そこは何も起こらない町、地域文化と歴史が存在しない人造の新しい町だった。二度とそこに戻る事はないと思っていた。道中、中学時代いちばん仲の良かった友人の家の前を通りかかった。彼の名字が記された表札がまだ掛かっていた。中学校の卒業式の帰りにも彼の家に立ち寄って生まれてはじめての「チキンラーメン」をごちそうになった。少し悩んで、チャイムを鳴らした。お母さんが優しい人だった印象が記憶に残っていた。お母さんが出てきて、少し喋っているうちに怪訝な表情が優しい笑顔に変わった。彼は大阪の街中の会社に勤めていて、この町から出て行ったと知った。当時認識していなかったけど、この町は進学率が高く学力の高い子どもを多く排出しているらしく、良い大学に進学した所謂「高学歴」の子どもたちは、辺境のこの地を出て、都会の会社に就職し、その近郊に住居を構える事になる。一般的に中山間地帯が抱える過疎化の問題をこの地域も同じく抱えている。この新興住宅地を開発したのが能勢電鉄。これも知らなかった。旧友の母上にさよならを言い、更にしばらく上り坂を歩いて辿り着いたかつてのマイホームはミサワホーム。およそ30年振りで訪れた、かつて暮らしたその家は予想に反して健在、といより庭木も含めて殆どあの頃のままだった。家は人間より老けない。家に反して老けてしまった自分がいた。

 そこからすぐのところに裏山に入っていける公園があった。公園は山と住宅地と隔てる様に複数作られていて、そこからはアートラインのメイン会場の「妙見山」までアクセスできる山道が延びている。かつてその道を辿って家族みんなで妙見山の登山から自宅まで帰ってきた時の新鮮な驚きを思い出した。「山と家が道でつながっている」。舗装道路をちょびっとだけあるけば直ぐに山道なんだから、つまり殆どここは山の一部なのだった。99%の場合は坂を下り、学校やショッピングセンターや駅に向かった。残りの1%の記憶が蘇った。その山道からは妙見口の駅まで繋がる道も延びていて、その道を下って行くと「のせでんアートライン」のスタッフたちの活動拠点、通称「初谷ステーション」まで、来た道を引き返すよりずっと早く、しかも楽しく山道を歩きながら帰れる事を前田さんと谷さんが発見した。そのピクニックの様な、陽光と、夕暮れと、鳥の鳴き声と、山から見下ろした町の風景と、森の匂いに揉みほぐされたぼくたちは、山から「おまえらこの地域のためにがんばってくれよ!」という「薫陶」を受けたような気になった。「ここで何かしたい」「ここで何か出来るかも」そんな気運がみなの言葉の端々から伺えた。岡さんはちょうどその時期、諏訪地区にトークイベントにいってきたばかりだったので、その地で伝え聞いた「御柱祭」のエピソードが脳裏に焼き付いていたようだ。そこからの発想で吉川中学、豊能町立図書館、ユーベルホールなど、町内の主要文化施設が建ち並ぶエリアにある「ふれあい広場」から、山際にある「東ときわ台五丁目一号公園」までの約400 メートル(?)の坂道を登って御柱を運ぶというプランが生まれた。しかも御柱は「鉄筋コンクリート製」で、地域住民参加で「型枠作り」「コンクリート打設」「御柱運搬」までのプロセスを恊働で実施するというプラン。重さ2.2トン、20センチ×20センチ×20メートルの直方体の御柱の側面には地域内外からの参加者によってデザインされた型枠の図像が転写される。ぼくは御柱の上面に100文字の詩を考案する様に、岡さんから依頼を受けた。

 以前住んでいたとはいえ何かの功績をこの地域に残したわけでもない単なる劣等生だった人間がその地域に未来永劫残るかもしれない言葉を考えるなんて不遜な事に思えたし、実際に不遜な事だと思う。しかも二度と戻らないと思って殆ど忘れていた町だ。主催者の能勢電鉄はこの先も地域の人々の暮らしと関わりが続いていくだろうけど、ぼくらは多分この催しが終わったら、その時点でこの地域にくる理由や目的は無くなってしまう。それではただの「無責任なプロジェクト」という事になってしまう。だからオンバシラを永続的にここに置いておく為には、継続してここにやってくる目的も同時に作り出す必要がある。でないと地域にとって「ありがた迷惑」みたいな事になりかねない。

 プロジェクト名は「もう一度、グリグリと強い線を引く」だという。のせでんアートラインの趣旨に込められた「ライン/線」を意識的に継承した名前だ。オンバシラは「線」を生み出す助産師である。その線は人が行き交う事で「道」になる。人の往来を生み出す「依り代」としてのオンバシラ。まだ描かれていない「線」をオンバシラという「物の力」と御柱祭という「事の力」を使って地域の地表に引き出して、地域の創出を行おうというプランだった。「地域の再生/地域の創出」が地域を舞台にしたアートイベントの主題だと思うので、その意味でも岡さんの引こうとした線はどこまでも真直ぐな線だったと思う。問題はぼくらが外部の人間だということだ。持続可能で内発的な発展は地域の内部から起こる必要がある。「もう一度、グリグリと強い線を引く」は地域に引き継がれる事で、はじめて意味や価値が生まれる類のプロジェクトだった。

 地域に置かれる詩を書くことの不遜さは感じながらも、とりあえず詩を考え始めた。ぼくにとってのオンバシラは「世界で一番重たいタンポポの綿毛」、または「世界で一番重たい秒針」だった。このオンバシラに、本来とても軽いイメージのものが重たくなったような印象を与えてみたらどうなるだろう?と考えた。これからのまちづくりの核になるオンバシラを願い、かつて、この町に暮らした、その頃の自分に向ける思いで詩を書いた。

じかんにはおもさがあるから じかんをうごかすときにひとりじゃうごかせなかったら じかんがちゃんとうごきつづけるように いつもしっかりはなしあおうね きっとみずみずしいじかんになるよ すいかのほし

 詩の意味は明快で、何のひねりもなく、読んでもらった通りの意味だけを込めて書いてある。地域内での「時間の自治」を呼びかけている。地域の中から時間が虚しく霧散して行かないように、時間を地域内にプールしていくことが可能な場や文化を持てるように、という思いを綴ってある。「みずみずしいじかん」というのは円形劇場の跡地で子どもたちがモモと遊んでる時に感じる、いつもより夢中になって、楽しく遊べる時間の事だ。東ときわ台五丁目一号公園がそんな時間が充満した場所になったら素晴らしい。話し合いを大事にして、地域内に時間をプールしながら、協働で時間を理想の未来に運んでいく。自治会館ではそんな「時間の自治」が話し合われていたら素晴らしい。そんな理想をまっすぐに詩に込めた。あの日オンバシラがぼくたちに伝えた、その「時間」はクソほど重たかったけど、運ぶのは死ぬほど困難だったけど、それはやるに値することだということを、あの「逆オンバシラ祭」に最後まで参加した人は、全員体感したとぼくは信じている。その困難さ、重たさ、煩わしさこそが、快楽や、美しさや、快適さや、便利さに対してオンバシラが提示した価値観だった。困難だからこそ話し合う必要が生まれる。重いからこそ危険を喚起する言葉を掛け合う必要が生じる。煩わしいからこそ、挫けない様に嫌にならない様に、お互いを励ましたり、労いあったりする気持ちが生まれる。この一見ネガティブな要素こそがコミュニティを生み出す力になる。「避難訓練」というアートライン全体のテーマを見事に体現したプロジェクトでもあった。

 詩の末尾に書いてある「すいかのほし」というのだけが謎だと思うけど、長くなるがこの機会に種明かしをさせてもらう。

 ある日「石貨の島」という石のお金の起源にまつわる物語を発見した。それが面白い話で。岡さんが東京に建てている「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」が、再開発事業に巻き込まれて、場合によっては立ち退きを迫られて取り壊される可能性もあると聞いた時に、このことが契機になって逆に何か面白い事が始まれば良いなと思った。「災い転じて福となす」というやつ。それで災難が転じて、良いことになるという物語を世界の逸話の中に探した。「石貨の島」は南太平洋のヤップ島とパラオ島の間を石貨を運搬する事で起こった奇異な出来事の愉快な記録だった。石貨は最初、石を彫って作ったクジラだった。ある若い漁師が不漁の際に嵐に遭遇。漂着した島で、手ぶらで帰るのも癪だからといって、柔らかなキレイな岩を見つけてクジラを掘って、舟に積んで400キロも離れた故郷の島に持ち帰った。島人はみな彼を嘲笑、無用の長物を運び込んだ奇矯な馬鹿だと笑いものにした。中でも一番馬鹿にしたのが弟だった。そこに長老あらわれて「これぞこの島一番の宝である」と宣言した。一同シーン。特に弟は赤っ恥。もうこの島にゃいられぬわいと航海術師のディゴーばあさんに航海術を習う。友人を誘い兄の漂着したパラオ島へ。しかし何ヶ月彫るも、兄のクジラを超えられぬ。根を上げて匙投げて仰向けに寝転がった眼球に映り込んだ満月をみて弟はこういった。「あれだ、あれこそがクジラだ!」。ついに求めていたモチーフに出会った画家の如く一心不乱に満月を彫り抜く弟と友人。しかし運びづらい。「良し、真ん中に穴を開けよう。」真ん中に穴を開けて棒をさして担いで運んだら運びやすかった。これが世に広く知られる石貨のスタンダードな形状の誕生秘話。島に持ち帰ろうとした朝、友人の裏切り。嵐を黒魔術で起こされ殺されるところだった。嫌な胸騒ぎがして、岩陰に避難。一命を取りとめる。弟、仕返しに友人の船に向けて呪文で大波を起こす。友人泣く泣く石貨を山と積んだ筏を船から切り離す。友人、故郷ヤップへ到着。目出たく長老に満月の石貨を認められ島人たちからも激賛される。えっへん。そこに死んだはずの弟現れる。一番大きくて二つ穴の石貨を大酋長に献上。その石貨は航海術師のディゴーばあさんの名で呼ぶことを許される。残りの250個の石貨はヤップ中の村々に分配される。一方、裏切り者の友人は赤っ恥。「もっと立派な宝を見つけるまでは、島には帰れぬ」別の島で赤貝の首飾りを百本作って持ち帰える。目出たく長老から宝認定を受けて無事社会復帰。その後、ヤップ島では若者たちが、こぞって石を掘りに大海を越えて次なるクジラを求めて命懸けの航海に出て、やがて島には不思議な石貨の経済圏の様な文化圏の様な豊かな石貨の物語を語り継ぐ場と時間が生まれていった。という物語だ。

 この石貨の起源の物語が示唆するもの。

 どの石貨にもそれぞれに来歴がある。その物語の面白さと、それを語る話術の巧みさが石貨の価値を決める。これが大事だと、ある美術批評家が書いている。石貨の島の人々は、何日もかけて一つの石貨の来歴を語る。その場と時間があることで、石貨の価値が島人に継承される。石貨という文化の実態は実はこっち、来歴を語る行為とそれを行う場の方にある。月が自分では輝けない代わりに太陽に照らされて輝くのと同じ。地域内の文化財や地域資料の「価値=輝き」は地域社会の中の歴史を継承していく場から発している。その場の活動が盛んになる事で価値がその都度、創造され継承される。この場が途絶えてしまえば、地域の中から文化財も地域資料も霧散、消滅してしまう。地域の中から地域資料、文化財が消滅してしまえば、地域住民は自分が一体どこからきて、どこにいるのか、今が一体いつなのかがわからなくなる。太陽と月を失った地球の様に自分が地球である意味を喪失する。地域内の様々な事物の来歴を伝える物語「歴史」は、「GPS機能」の役割を果たしている。同じ様に自分の現在地を見失っているぼくは、石貨の物語を今の時代に汲み入れてみたいと考えた。

 そこで「萃貨」(すいか)というのを考えた。JRで使えるあのSUIKAというカードとは反対に人間に魂をチャージしてくれる場のことを「萃貨」と定義した。(分類上では「場貨」の一種)。ある粘菌学者が造語して、ある社会学者が提唱した「萃点(すいてん)」という言葉には、異なる考えを持つ人々がそこに集中して交わる場、というような意味がある。職場とか地域とか教室とか、いろんな考えの異なる、利害が一致しない人が一緒にいなきゃいけない場ではあるけど、それだけじゃダメで、さらにそこに共有可能なテーマが必要で、そのテーマを焚き火にして人が集い語らう事ができる時がある。そのテーマになるのは、時に地域社会の問題だ。地域社会の問題を焚き火にすることで、ネガティブに捉えられていた問題も、人々があつまる為の契機に捉えられる様になる。そしてその萃点から考え始める事で複雑にもつれた諸問題の解決策が見出せる様になるという。石貨の起源の物語の様に、何かを契機にそんな場がこの世界に爆発的に誕生したら、と考えて、そのビジョンを「萃貨の星」(すいかのほし)と名付けた。我ながら難解な、説明するのが困難なコンセプトだ。

 「萃貨の星」は、「子どもの地域調べ学習を演劇にまとめて発表する活動の交換会」の名前にする予定だった。これが存在すれば大人たちの政治の場を凌駕するみずみずしい場になる。子どもたちの放課後の時間を町の中にプールしていく仕組みの提案をしてみたい。それともう一つ、関西圏を主な対象にした「場作り」を一つの「潮流/ムーブメント」として汲み上げてみたい。「すいかのほし(萃貨の星)」とは「地域を超えて点在する場のネットワークを作る」そのビジョンの総称だった。自分の住む壬生とオンバシラの置かれる豊能町を結ぶ環状のラインを地図の中に描きそこに点在する「文化拠点/文化活動」を調べる作業を行った。そしてその環状線上に点在する多様な文化拠点を定期的に訪れる目的を作る必要があった。その環状線の周辺地域を対象とした雑誌を発行するの事に決めた。それは「子どもの地域調べ学習をベースにした演劇の交換会」と「地域のための場作り」を促進するための機関誌にする。機関誌が完成するたびにその環状線のルートを営業する。同時に次号の為の取材も行う。それを繰り返す事で豊能町と壬生を結ぶ環状線の周辺に点在する文化拠点を結ぶ「場作り」と「地域調べ子ども演劇交換会」を通した文化圏がそこに形成される。豊能町がその環状線上の他の地域とのネットワークの中に入ることで、地域を超えた文化的な交流が生まれる。「石貨を作る事」を、「場を作る事」に置き換えて壬生と豊能町をヤップ島とパラオ島の様に行き来する。しかも環状線周辺の文化拠点を陸路でめぐる事で、点として孤立してそこで奮闘している人たちの「点」と「点」の間に線を引いていく。オンバシラがグリグリと引いた線はそのグルリの環状線をこの世界に出現させる為のとても短いけどとても大事な「臍の緒」のような線。「すいかのほし」はその為のネットワーク促進事業の名前。という事にする。

 「子ども「地域調べ学習」演劇」が地域を超えてネットワークされる。その子どもたちが大人になった時、地域調べ学習と演劇の製作を通して得た学びを反映させた「場作り」の主体になる。そして子ども時代に出来た地域間ネットワークがその時に生きてくる。既に地域を超えて仲間がいる状態が整備されている。その環状線上に点在するモニュメントである「東ときわ台5丁目1号公園のオンバシラ」や「万博記念公園の太陽の塔」は、そのネットワークの推移を見守り、夢をみることを諦めない人の背中を押し続け、励ましてくれるシンボルとして機能する。


 しかし「萃貨の星」は名前だけ読んでも何のことかわからない。だから東ときわ台で思春期という時間を過ごした経験を持つぼくが責任を持って、それを文章にして会期中に冊子を作り、地域に配布して趣旨の説明をしなければいけなかった。しかしそれが能力の欠如や予算や時間の事情があって「のせでんアートライン2019」の会期中には成し遂げられなかった。まさかオンバシラが一年で撤去しなきゃいけなくなるとは思わなかった。到底受け入れられない話だった。同時に地域に向けていささか突飛なオンバシラのプロジェクトの趣旨の説明ができなかった自分の責任でもある。だから解体撤去の話を知った時、オンバシラの存続の為に自分の「時間」を使うことにした。我が最終兵器「時間」を遂に行使する時がきたのだ。

 しかし単体としてのオンバシラのどこにそれほどの問題があるのか?は、問題を主張する人たちからいくら説明を聞いてもさっぱり理解できなかった。プロジェクトに問題があったことは理解している。反省もしている。至らなさに気づかせてくれて感謝している。それでも地域の人たちが、何人も積極的に関わってくれた。「自分ごと」として充分にオンバシラと向き合ってくれた人も沢山いた。その全てを徒労として終わらせてしまう「解体撤去」という決定はあまりにむごい。そのことから感情を逆撫でされる非生産的な感覚も随分味わった。その屈辱感を味あわせる為の作為が働いているのではないか?と勘ぐった。不毛さの無限ループにハマりかけた。同時に、解体撤去を推進する人たちの中に圧倒的な想像力の欠如も感じた。人をガッカリさせたり、屈辱を感じさせたりする作為と労力を何故オンバシラの有効活用の方向に少しでも注ぎ込む事ができなかったのだろう?地域住民からは「残したい」という声が出ていないと豊能町役場の都市計画課の職員さんは言っていた。東ときわ台の自治会の方々も満場一致でオンバシラの撤去に賛成という事だった。まず、その撤去決定のプロセスがよく分からなかった。当時の東ときわ台の自治会長さんは春ごろに行われた、「オンバシラの設置期間を一年延長するかどうかの話し合い」を当日連絡も無く欠席された。自治会長さんのご都合で何度かリスケジュールしてやっと決まったその日、方々から人が集まって(岡さんはその為だけに東京から東ときわ台の自治会館まで来ていた)その時は設置期間延長の方向で話はまとまっていたし、実際にオンバシラの由緒を記した看板に掲載する文言も皆で考えてその場でまとまった。その一番重要な話し合いの席に失礼な形で参加しなかったのだから、これでもう自治会長さんはオンバシラに対して何も言ってこないだろうと思っていたら、暫くして当の自治会長さんご本人がオンバシラに対して、「置くだけ置いてその後何もしない」と言ってお怒りだという話と一緒に、オンバシラへの撤去勧告が町役場から出た事を知らされて耳を疑った。おかしいのはそのお怒りの様子の伝達と解体撤去の勧告が同時に来たことだ。せめて自治会館に皆が集まった時に不満や問題点を教えて下さったなら幾らでも対応出来たし、するつもりでいた。何故そんな不意打ちみたいなやり方をなさるのだろうか?コロナ禍で緊急事態宣言も出たり、まだまだ予断は許されない状況が続いてもいた。そんな中での撤去勧告だった。

 それから方々に掛け合ってオンバシラを東ときわ台5丁目1号公園に残せる可能性を模索した。東ときわ台老人会の〇〇さん、東ときわ台青少年育成協議会の〇〇さんはオンバシラに対して特に問題や危険性は感じないと言い、オンバシラがあることに好意的だった。こういう声が地域住民の声として町役場や自治会に何故届かないのかはこれからも考えていかなければならない問題だ。岡さんと一緒に町役場に出向いてオンバシラの設置期間の延長が出来ないか豊能町役場の町づくり担当部署の〇〇さんを相手に交渉した。これらの芸術祭の事後処理のプロセスは、途切れてしまっていた「のせでんアートライン2019」の続編という感じがして嬉しかったし「もう一度、グリグリと強い線を引く」の大切な一部だと思っている。なのでここに極力克明に記録しておこうと思うし、その過程に主体的に関われたのは良い経験になった。

 能勢電鉄が交渉して〇〇林業造園の〇〇さんがオンバシラ撤去作業の下見に来てくれた。〇〇さんとお会いするのはこれで三度目。二度目は一度置かれたオンバシラを少し引き上げるのを手伝って貰い、その時にはオンバシラの事を「これはどっからみても地域おこしやろー」とズバリを言って頂いていた。初対面は、岡さんの二度目の地域リサーチに同行した際に山の中にある〇〇林業の事務所前で元能勢電鉄の常任監査役の△△さんと二人でホワイトリカーに生け捕りにしたマムシを漬けていた時だった。〇〇さんは僕の吉川中学(地元の中学校)時代の同級生のお父さんだった。〇〇さんのお顔と話し方から、おそらくあの子のお父さんだろうという坊主頭の男の子を思い出した。ブルーハーツが好きで、ブルーベリーガムとポテロングをよく食べていて「レッドウォリアーズ」のテープを貸してくれた、やんちゃだけど、優しい子がいた。大らかでよく笑い、どっしり構えて融通無碍・天衣無縫・軽妙洒脱、三拍子揃った〇〇さんはこの地域の変遷をずっと見てこられた“ぬし”の様なヒト。オンバシラの撤去の話を聞いて「こんなもんも残せんようならこの町は終わりじゃー」と屈託ない笑顔で言い放った。その声を録音して12時のサイレンの代わりに東ときわ台の町に毎日町に鳴り響かせたかった。

 オンバシラがもしも移設しなければならなくなったとしたら、能勢の蟻無神社にある「野間の大ケヤキ」の様に資料館が併設されているような状況が一番理想的だと思う。岡さんは「もう一度、グリグリと強い線を引く」の記録冊子を製作し、僕は「すいかのほし」として構想していたビジョンを実践する為の雑誌『地振り』を製作している。『地振り』のロゴは「のせでんアートライン“避難訓練”のロゴをデザインした三重野龍さんにお願いした。“避難訓練”の文字の意味と形がピッタリ合致したスタイリッシュなデザインが大好きだったし、その流れを引き継ぎたいと考えたからだ。いま書いているこの文章は岡さんの冊子の方に掲載される。この二冊をオンバシラの記録資料として町の図書館の地域資料コーナーに置いて貰う。2021年3月末から4月中頃にかけて豊能町立図書館で「もう一度、グリグリと強い線を引く」の記録展示をする。この地域の未来の人たちが何時でもこの図書館にきたらオンバシラの記録資料を調べられる状況を作る。

 また、切断撤去されるオンバシラへの鎮魂と奉納の意味を込めて、岡さんと僕の古い友人である斎藤晋くんと浦島さんがいる「伊勢太神楽山本源太夫社中」の方々に11月21日に東ときわ台5丁目1号公園まで神楽をしにきて頂ける事も決まった。「諏訪」の御柱、「伊勢」の太神楽、と古い地名の伝統が「東ときわ台」に流れ込む痛快な企てだ。ぼくは前日にギックリ腰をやってしまい無念の不参加で自宅ベッドでスマホの画面越しに動画を見ただけだったけどそれでもそれが最高の催しだとわかった。新興住宅地の山裾の公園での伊勢太神楽は一層輝きを増すように冬空に鮮やかに映えて見えた。この地の渇きを潤す様だったと当日撮影をしてくれた友人が感想を教えてくれた。

 今、あの時書けなかったオンバシラの詩に込めたビジョンを説明する為の雑誌『地振り』を、もう一度仲間を集めて作っている。雑誌が出来上がる頃にはオンバシラはもうあの公園には無いけど、「無いこと」が人の想像力を掻き立てる場合もある。逆に無い方が良いかもと思う。オンバシラが無くなることで、逆に町の人たちの心の中にオンバシラがホログラムになって立ち現れるかもしれない。もしかしたらそれはオンバシラがあそこにあることよりもずっとオンバシラの機能を果たす事になるかもしれない。伝説とはもしかしたらそういうものだ。どうしても継承したくなる衝動をあらかじめ内蔵している物語。現物が既にそこにない事は伝説の役に立つ。想像力は余白に宿る。オンバシラの物語がこの地域の人たちの間で伝説になって語り継がれたらそんなに嬉しいことはない。

 岡さんは最後までオンバシラを残せる可能性を模索しながら、自治会、町役場、能勢電鉄と交渉を続けた。一度、伊勢太神楽によるオンバシラへの奉納の会を3月に行う案が出た時に、「3月までオンバシラの設置期間延長を延長できないか都市計画課の方に交渉してみます」と豊能町役場の町づくり担当部署の〇〇さんが提案してくれた事があり、大いに期待した。ところが、念のためにこの事を確認しようと町役場の〇〇さんが能勢電鉄に電話して確認したところ「3月までの設置期間の延長は出来ない、年内撤去の方針は変わらない」と電話に出た職員から言われたということだった。僕たちが直接話していた能勢電鉄のオンバシラの担当者の方はオンバシラの設置期間が3月まで延期される事に関しては勿論賛成と言ってくれていたので、話の整合性があまりにも合わないので、自分でも能勢電鉄に電話をかけてみたが、〇〇さんの言う通りで電話に出た職員に同じ事を言われてしまった。これではいくら話しても埒があかないと思い、別の経路から状況を好転させられないかと試みたが、どの方角からも結局年内撤去は覆せなかった。その間に、ある方に相談したら、「そんな理不尽な話は絶対のんだらあかん。放置したらどないや?そしたら土地占有権が生まれるで」とも言われた。もしかしたらその方のおっしゃる通り、僕たちはこの理不尽な展開を毅然とした態度で跳ね除ければ良かっただけなのかもしれない。馬鹿丁寧に理不尽な話しにいちいち付き合ってしまったのがそもそも間違いだったのかもしれない。自分の意気地の無さが情けない。

 2019年の「のせでんアートライン」の関係者は会期中からみるからに疲弊し精神的な不調をきたした人もいた。会期後、音信不通になってしまった人もいた。今回、招聘作家でもないぼくが出しゃばって彼らを引き継ぎプロジェクトの事後処理にあたった。その過程で彼ら担当スタッフの心労辛苦の原因にどの様なものがあったのかを主催会社、町役場とやりとりの過程から察することができた。2019年度のせでんアートライン『避難訓練』に関わり、良い芸術祭にしようと懸命に努力したスタッフと、作家と、作品に対して主催会社も町も、彼らを大事にしてあげられなかった。これからの能勢電鉄と豊能町の奮起に期待したい。

 結局ぼくたちのオンバシラにはヤップ島の石貨の様に長老はあらわれなかった。オンバシラは石貨にはなれなかった。追随者も出なかった。何も起こらなかった。嘲笑され、軽視され、無用と言われ、失敗し、敗北した。

 だけど、失敗出来たし、敗北出来た。こんなにちゃんと失敗出来たのは生まれて初めてだ。オンバシラのプロジェクトに対して、地域に関与するアートプロジェクトを実施する際に、やってはいけない鉄則をいくつも破り、あらゆる地雷を踏み抜いたと評する人もいた。絵に描いたように敵対して鼻で嘲り笑う人間も現れた。逆に応援してくれる人も現れた。全てが漫画みたいな展開に思えて逆にワクワクした気持ちになった。ぼくたちは今回、「こうゆうことがやりたい」とはっきり示すことが出来た。それに対して「そうゆうことはやらなくていい」という人たち、「こうゆうものは必要ない」という人たちがいた。文化的な物事に、価値を認めない事に意固地なその勢力にぼくたちは敗れた。その勢力は自分自身の中にもいる。文化の価値を認めず、粛清しようとするおぞましい人間心理との攻防は続く。

 改めてオンバシラの撤去が決定したという通達がきた。ぼくたちは一度それを受け入れてみることにした。絶望的な展開ではあるけど、ぼくたちはこれを「契機」と捉えることにした。この厄災は福に転じるだろうという奇妙な予感も持っている。湧き出してくるアイデアと愉快なビジョンもある。嘲笑した人にも排除した人にも、未来に彼らの居場所を保障する。そこは彼らにとって今より居心地の良い場所であって欲しい。赤っ恥は心の中で感じてくれたらそれで良い。これを読んだ地域の人たちにもくれぐれも彼らを責めることはしないで欲しい。その為に書いているわけでは決してない。オンバシラにとっても地域住民にとっても、双方にとってポジティブな未来が訪れることをひたすら希望する。敵対した全ての人が幸福になってくれて一向に構わない。どんどん幸せになって欲しい。彼らが本当の意味で幸せになる事が何よりの解決になると思う。心の底から願っている。

 2020年12月14日オンバシラが5つに切断され4tトラックで運搬撤去された。オンバシラの全てのプロセスをせめて記録に残そうと家族三人と岡さんと東ときわ台五丁目一号公園に駆けつけた。iPhoneのカメラで作業を撮影した。逆オンバシラ祭で先頭でかけ声をかけてくれた前田文化の野崎将太さんと彼のチーム「々」の仲間たちも駆けつけてくれた。お世話になった地域住民の米田さんも見送りに来てくれていた。オンバシラは関わったそれぞれの人にとってのオンバシラだった。米田さんには米田さんのオンバシラがあった。当然のことなのに忘れてしまいがちだから、自分が忘れない為にも強調しておくと、ここに書いたのはそのうちのほんの一つ、ぼくの角度からみたオンバシラの話に過ぎない。

 切断と撤去作業は当初予定されていた〇〇林業造園さんではなく、能勢電鉄が費用を負担し飛島建設の職人さん達が請け負ってくれた。コンクリートと鉄筋が固くなかなか切断出来ない。トイレに行きたくなった。まだ時間がかかるだろうと車で町中の公衆トイレに出かけて戻ってくると、切断が済んでしまっていた。オンバシラは一度大きな身体をクレーンで空中に持ち上げられ、あの日、皆で必死の思いで引いた「線」から撤去され、ただの柱に戻ってしまっていた。撮影のタイミングを逃したショックで気が動転した。痛恨のミスだった。オンバシラの撤去はぼくと東ときわ台の繋がりかけた縁も一緒に撤去してしまったような気もした。オンバシラはぼくにとってまさに「依り代」だった。オンバシラがあるというだけであそこに行くのに充分な理由になった。オンバシラの無いあの公園にいくという事を考えると胸の中に空しさが広がる。悔しいし、馬鹿げている。感傷に浸りたくなる。しかし僕ははっとした。担いだ人たちへのオンバシラ解体撤去の連絡を忘れていた。自己中心。配慮に欠ける人間性があちこちでボロを出す。担いだ人、コンクリートの養生をしてくれた人、参加してくれた全ての人への連絡をするべきだった。だってあんなに重くて大変だったんだ。

 2021年3月27日〜4月18日の豊能町立図書館での展示は、オンバシラへの償いという意味でも、巻き込まれて下さった方々への報いと言う意味でも必ず良いものにしたいと思う。

  


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