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日系アメリカ人との出会い

99年の愛~Japanese American~

 渡米して10年間、毎年8月に見ていたドラマがありました。「99年の愛~Japanese American~」です。渡米前の2011年に一度見ていたのですが、そのドラマを彷彿させるようなところに移住したからでした。渡米先はカリフォルニア州サンノゼ市で、今はシリコンバレーと呼ばれ、IT企業が軒を連ねているとことですが、アップル社がマッキントッシュを世に出す1980年代までは車も少ない田舎町だったと聞きました。

https://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d3182/

日系アメリカ人

 ドラマは1911年からの話ですが、その前から何万人ものの日本人が西海岸に移住していました。ドラマはシアトルに移住した日本人1世から日系アメリカ人2世の壮絶な苦労と戦いを描いた話でした。1941年12月7日に日本軍が真珠湾を攻撃した後、1942年2月19日に大統領の発令(9066号)によりアメリカ政府は西海岸に住むすべての日本人、日系アメリカ人12万人を強制収容所に送る決定をしました。移動には手荷物2個までしか許されなかったため農場も店もただ同然に処分し、離れることになりました。
 日本にいた時、日系人の歴史など知ることはなかった。少なくとも学校で学ぶことはなかったと思います。
 1992年にクリスティ・ヤマグチ選手(日系アメリカ人3世)と伊藤みどり選手が冬季オリンピックのフィギュアスケートで争っていて、なぜ日系アメリカ人がライバルなのかと思ったことは覚えています。

Manzana強制収容所。中央カリフォルニア、人は住まないような乾燥地。夏は猛暑、冬は極寒。1万人の日本人(1世)日系アメリカ人2世が終戦まで収容された。

サンノゼ日本町

 転職したサンノゼ市は日本町があり、日本レストランや日系スーパーもあり、さらに本願寺もありました。単身赴任した者にとってなんて親しみやすいところかと思いました。日本町には日系アメリカ人博物館(Japanese American Museum)もありました。日系アメリカ人の何を展示しているのかと好奇心を抱いたのですが、仕事が忙しく訪れることは追々にと思いました。ところが大学キャンパスに行くと建物の一つに「Yoshihiro Uchida Hall」があり、日本人の名前が付いた建物に驚きました。

サンノゼ市の日本人町

余談

 アメリカでは建物や道路、空港などに人の名前が付いています。それぞれの名前は歴史を動かした人など忘れてはいけない人の名前が付きます。たくさんの寄付をされた方なども名前も付きます。
 余談になりますが、Facebook創設者のMark Zuckerberg氏はカリフォルニア大学サンフランシスコ校の病院に6億ドル(800億円)と奥さんの同大学医療研究関連に30億ドル(4000億円)を寄付され、一般病院棟は建て替えられました。病院名に彼の名前が付き、Zuckerberg San Francisco General Hospital and Trauma Centerになりました。

Facebook創設者のMark Zuckerberg氏の名前が付いたサンフランシスコ公共病院。保険有無に関係なくサンフランシスコ市民は(一度は必ず)診てくれる。

Yoshihiro Uchida Hall

 それで勤め始めて2、3週間が過ぎたころ、Yoshihiro Uchida Hall (通称「YUH」)の建物の中を見学していたら、過去の柔道の成績が展示されていました。2階に上がると常設された道場もあり、大学柔道部の存在を知りました。
 以前アメリカ人が世界柔道選手権で金メダルを取られたこと、その方がMike Swain氏でサンノゼ出身だったことを思い出しました。夕方に柔道の練習を見学に行ったところ建物の名前の方、Yoshihiro Uchida氏に会うことができました。日本名は内田義博、日系アメリカ人2世で、先の大戦ではメディカル兵としてヨーロッパ戦線に行かれていたことを知りました。初めてお会いした時、内田先生は92歳。えっ私の2倍と思い、学生に柔道の指導をされていてなんとすごい方だと驚きました。
 「日本から来ました。ここの大学で勤めることになりました」と自己紹介かねて挨拶をすると、内田先生は「日本から来たのか。どのくらいいるのか」と聞かれ、私は「専任教員として就職しました」と答えると、先生は「専任教員か」と喜ばれました。

2015年改修工事後のYoshihiro Uchida Hall (YUH)。アメリカの柔道は内田義博先生が戦後サンノゼ州立大学構内の警察官に柔道を教え始めたことから始まりました。
YUHには体育館があります。現在大学女子バレーボールチームの試合会場として使われていますが、日本人(1世)日系アメリカ人2世が強制収容所に送られる前の登録所として使われました。登録後、番号が一人一人に与えられたところでした。内田先生の家族も強制収容所に送られました。ご家族の登録はここではなかったのですが、現在この建物に内田先生の名前が付いたことにも偶然以上のことが働いたのでしょう。

 週に一度柔道の練習を始めることになりました。小学2年生から高校までの10年間柔道をやっていていましたが、その後何十年もやっていませんでした。ところが子供のころに得たスキルはまるで自転車を乗るかのように覚えているものでした。週末から水曜日までは授業に取りかかり、木曜日に軽くジムで汗をかき、金曜日に柔道の練習に参加する習慣ができました。言うまでもなく翌日は身体が「ばらばら」でその痛みの解放から新たな1週間が始まるという生活になりました。日本人町、内田先生、柔道と日本から来た者にとってなにもかもすごい縁だったと思います。小さいときに柔道をやっていてまさに「芸は身を助ける。」柔道を知らなかったなら内田先生とその後のさまざまな出会いはなかったと思いました。

サンノゼ州立大学柔道部。2列目真ん中に立つ方が内田義博先生。その右横が岡野功先生。1964年東京オリンピック中量級優勝。1967、69年全日本柔道選手権大会優勝。岡野先生の右横はMarti Malloy選手。2012年ロンドンオリンピック3位。その右横は佐藤愛子先生。2011年世界柔道選手権大会優勝。2列目左から3人目にMike Swainコーチ。1987年世界柔道選手権優勝。1988年ソウルオリンピック3位。日本から世界からたくさんのオリンピアンがサンノゼ州立大に集まります。

JACL (Japanese American Citizens League)

 ある時、内田先生から「JACLの年次会合があるが来ると良い」と言われ、参加しました。JACLは"Japanese American Citizens League"の略で、戦後に日本人(1世)、日系アメリカ人2世が日系アメリカ人の地位、名誉を回復するために創設された団体でした。全米にいくつもあり、この年の会合がサンノゼ市で行われたのでした。

JACL (Japanese American Citizens Club) の年次会合。多くの日系アメリカ人3世とそのご家族が参加。

ロナルド・レーガン大統領

 1988年にロナルド・レーガン大統領は、強制収容に対する賠償(生存者全員に一人2万ドル)と正式な謝罪に署名されたことでJACLの役割は終えたかもしれませんが、2世、3世の方のよりどころとして会合は続けられていました。レセプションで同じテーブルだった日系アメリカ人3世のカレンさんから彼女のお父さんはサンフランシスコ湾で船の中で料理(コックさん)をされたことや日本人のサンフランシスコでの暮らしを教えていただき、「戦後から1952年まで(サンフランシスコ平和条約が結ばれるまで)日本人はアメリカに入国できなかった」と話してくれました。戦争を終えて7年間のことでした。そんな時代があったのかとJACLの総会に参加したことで初めて日本人1世、日系アメリカ人のことをよく知ることができました。
 JACLも70歳を超えた3世の方が中心で、内田先生は、「4世以降はこの会合の意義を気にしなくなった」と話していました。つまり1世の移住の苦労が薄れてることだと思います。内田先生はハワイから来た日系アメリカ人の柔道学生二人も招待し、JACLの会員と触れ合ってもらえたことに喜んでいました。

ロナルド・レーガン大統領は1988年8月10日、日系アメリカ人に謝罪し現存者に2万ドルの損害賠償することに署名。先の大戦中に日系アメリカ人2世で組まれた442連隊でヨーロッパ戦線で亡くなった人たちの家族とレーガン大統領が青年のころ軍のパイロットであってその時に日系アメリカ人からの手紙との約束が国家賠償に繋がった。

 ドラマに戻ります。西海岸に住む12万人以上の日本人、日系アメリカ人2世は砂漠地に立てられたバラック小屋に強制収容させられ、終戦まで生活をしていくのですが、収容所内はすべて日本語で日本人だけが生活しています。日系アメリカ人2世と言えども日本語で生活しています。
 いつの時代も日本から来た日本人は英語が苦手。仕事はまじめで責任感が強く、決められたことを守る民族です。日本人同士でよく集まります。英語からの解放とお互いの情報交換を楽しみます。
 移住された日本人は新しく来られた日本人を歓迎し、応援します。同胞の活躍を喜びます。日本人1世は一生懸命稼いだお金をアメリカで使うことなく日本に送金していました。多くの外国人はアメリカに入国したら戻ろうとしない。しかし日本人はどこか違った。先進国の人々は母国愛が強いのですが、日本人は母国愛と言うより同胞愛だと思います。
 日本人1世はアメリカに馴染めず、ただ仕事ができる喜びだけでした。カリフォルニア州の農場のほとんどは移住された日本人が開拓しました。荒地、乾燥地を農場に変えたのは日本人でした。
 強制収容のため開拓した農場を手放すことになり本当に悔しかったと思います。そしてアメリカ人がすべて取り上げたのでした。戦後は一文無しになった日本人、日系アメリカ人2世は、我慢と同胞との助け合いからやり直し、前を向きはい上がりました。内田先生から本帰国するまでの10年間たくさんの日系アメリカ人の歴史を学ぶことになりました。聞く話はまったくドラマを見ているかのようでした。

ハワイコナコーヒー園

 アメリカの農場はカリフォルニアだけでなく、ハワイのコナコヒーも日本人が生産したのでした。火山島であり溶岩があちこちにあるハワイ島では農園どころかではなかった。そんなところに高級コーヒーを作るに至ったのは日本人の技術だと聞いています。

ハワイ島コナコーヒー農園(UCC)

永遠の外国語

 毎年8月にドラマを最初から最後まで見ていました。先にも話した日本人としての気質と先人の我慢に比べればまだまだ足元にも及ばない。もっとできることがあるのではないかと言い聞かせるように見ていました。
 英語を話し始めたのが大学卒業後だったためか、何年たっても日本語のアクセントのままの英語を話しています。コンテンツ勝負で情報を伝えることができたら良いと勝手に思い込んでましたが、変なアクセント、イントネーションは聞き手を遠ざけます。学生は試験があるので聞いてくれたのだと思います。しかし授業以外。英語は永遠の課題でした。今年こそは役を演じるかのようにセリフを覚えて話すぞと思っても、授業が始まればすべてがアドリブ、受け応えに頭を使えば使うほど英語の発音は忘れていました。本帰国した今、アドリブのプレッシャーがない今、もう一度英語で伝えることを試みたいと思います。

後に戻れない決心

 ドラマを見るたびに思うことは、後に戻れない決心と地道な方法しかないんだと言うことでした。やってやるぞと言うような気持ちでなく、謙虚な気持ちになれたと思います。期待などしてはいけない。幸運がありますようにと願わないことだったと思います。今持っているもので学生に満足してもらう。ドラマは、背伸びしなくて良いよ、あるがままで良いよと言ってくれているように思いました。
 ストレスはただ私自身が話す英語でした。スライドを通じての質疑応答が精一杯でした。本来なら授業で話した内容から新しい発見や今取り組んでいることへのヒントになるべき話になるのでしょうが、できなかった。しかしどういうわけか、落ち込むことはなかった。これもドラマのお陰だと思っています。本当に今やれることを精一杯して、毎日過ごすしかなかった。

神経科学的視点で解釈

 ドラマを見ている自分の感情に付いて考えてみたい。脳は無数の神経細胞が情報を伝えて2つの出力を生みます。2つの出力の一つは話すこと、もう一つは筋肉を動かすことです。この2つの出力には5つの神経モジュレーター(変調器)が働いています。ドーパミン、セラトニン、エピネフリン(アドレナリンとも言う)、コルチゾン、アセチルコリンという物質が働くことです。神経細胞は、シナプスという神経間に隙間があり、伝達物質を放出して次の神経細胞に伝達しています。神経モジュレーターはシナプスでの神経伝達物質の興奮あるいは抑制に影響を与えます。
 ドーパミンはモチベーションに関与しています。モチベーションとはやる気のことです。好きなことをすれば満足するだけでなくすぐにもっとしたくなります。また期待にも表れます。期待があるからこそやる気も起こるのだと思います。しかし期待はずれはきつい。痛みになります。ですのでドーパミンはやる気と痛みにもなります。
 セラトニンはドーパミンの逆です。満足したならこのままを保とうとします。セラトニン効果は時間の経過を遅くさせるのでいろいろ考える機会をもたらします。
 エピネフリンはドーパミンと同じ物質系で意識を高めます。ただドーパミンがなければただぐずぐずして、目を覚ましているだけでになります。
 コルチゾンは痛みに反応します。アルコールやたばこが切れたり、ときに性欲が満たされなければ苦しくなります。その時に反応します。
 ちなみにコルチゾンはやっかいです。ドーパミンとコルチゾンで中毒性になります。ニコチンやアルコールはドーパミンを活性し、もっと欲しいとなりますが切れれば、痛みになります。そこにコルチゾンがその痛みを抑えます。ですがまたドーパミンによって欲しがる。その繰り返しが中毒の原因になります。一方で、コルチゾンはセラトニンの働きを抑えます。セラトニンが抑えられるとうつ病を発症させます。うつ病はセラトニンの枯渇が原因です。
 アセチルコリンは前頭葉(額の後ろ)の集中力に関係しています。前頭葉は私たちに考えさせ、先を見据えるようにさせます。このことからあらゆる欲を抑えることもできます。
 日系アメリカ人2世の壮絶な人生は、まさにセラトニンとアセチルコリンの働きだったと思いました。決してドーパミンではなかったと思います。
 ドラマの日系アメリカ人は同胞の繁栄、そのために我慢をして一生懸命働く。一方で前を向いて先にある何かわからないが一点の光だけを信じたと思います。困難を集中力に変えたのだと思います。
 第二次世界大戦時に日系アメリカ人だけで組まれた第442連隊は違った。これからの日系アメリカ人のために命捧げる覚悟で戦闘したことは、ドーパミンの働きだった思います。自分のことを考えるのでなく、決心で行動をする。彼らの合言葉は、”Go for Broke!” ともかく全員一丸となってやり切ろうだった。期待がはずれれば死に至る。一歩でも前に進むしかなかった。戦時中のため何も考えることなどできない。同胞のためでしかなかったと思います。

仕事は気運で変わる

 渡米して4年が経った2016年に少しその突破口が見え始めました。一つはアメリカの学生を日本に連れていき、学会で発表してもらったことでした。日本の大学とも交流ができたことは達成感を覚えました。
 全米公認アスレティックトレーナー(ATC)が2年毎に決められた教育継続単位を提出して資格更新をしなければなりません。その継続教育単位に現場研究(evidence based practice)に関する単位を必要としました。このことで授業が上手く行くきっかけになりました。なによりも日本から在外研究の先生を迎え入れることができたのも後押しになりました。
 仕事を始めて4年が経ったころか追い風が吹き始めたと思いました。昔から「石の上にも三年」と言うが、これは決まりきったこと、仕事の手順を覚えるのにかかる年数だと思う。決まりきったことでない仕事、クリエイティブな仕事はこれに当てはまらないと思う。そこには気運が必要たと思いました。

https://water-holder.com 今回の内容とは関係なくさまざまな個人事業をしています。特に肩のリハビリを専門にしています。

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