嫌いなやつら(23/09/08)

愛することに覚悟が必要なら、憎しむことには体力がいる。誰かを嫌い、憎しみを持つという行為は、ほとんど肉体労働に近い。
手前味噌だが、僕はほとんど人を嫌うことはない。多少意見がそぐわなかったり、理解の及ばない人がいても、嫌いになることはない。嫌いになるだけの勇気と体力がないからだ。それに、できることなら好きな方がいいとも思っている。惰眠を貪る小市民にも、平和への祈りくらいあるのだ。
それでも、ときどき、本当に数年に一度くらいのペースでどうしたって「嫌いだ」と思ってしまうことがある。友人関係でも仕事関係でも、「ああ、どうしようもなく嫌いだ」と思ってしまうことがある。
愛することに理由など必要ないのと同様に、嫌いになることにもさしあたっての理由はない。もちろん、何らかのコミュニケーションの齟齬や、言葉のあやが引き金だと言えなくはないけれど、それはあくまで「僕はあの人か嫌いだ」という事実が、無自覚の海から自覚の陸へと、釣り上げられたにすぎない。好きも嫌いも、初めから決まっているのではないかとすら思えていた。
けれど最近は、そういう「獣的な感性」によって「好き嫌い」が生まれるというのは、やっぱり思考停止なのではないかと思う。嫌いになるにもそれなりの理由があるのではないかと思うのだ。そしてそれは常に、相手への無理解が引き起こすのではないかと思っている。

ちょっとだけ昔話をする。昔といっても数年前のことだが、仕事上の付き合いでどうしても「嫌い」な相手がいた。普段決してそんなことはないのに、そのときは周囲にも「僕はあの人が嫌いです」と、半ばクダをまくように言いふらした。そうしないと言いようのない苛立ちと蟠りで、本当に破裂しそうだったからだ。
彼とはあるプロジェクトで同じになったのだが、なんとかそれをやり過ごした後はできる限り関わらないようにしていた。それこそもう数年は顔も見ていない。もちろん共通の知人から名前を聞くこともあったが、別段、気に留めるような存在ではなかった。僕の人生の中から、彼はもうほとんど完全に消えようとしていた。

そんな彼が、死にかけたという話を聞いたのはつい先日のことだ。それも自死を試みたと。なんとか一命は取り留めたが、ある時期には本当に彼岸を彷徨ったと聞いた。高慢ちきな彼が、まさかそんな繊細だとは。居丈高な彼が、まさかそんな愚行に至るとは。僕には俄かに信じられなかった。

人間には(と書いてしまうと主語が大きすぎるが)、多面性がある。平野啓一郎の言葉を借りるなら人は皆、分人的だ。様々な顔を持ち、そのそれぞれがその人の真実なのだ。
それはつまり、僕が「嫌い」な彼は、彼の中にある「彼の一部」でしかない。もちろんそれは彼自身そのものだが、決して全てではない。人はまるでヤヌスのように顔を持ち、多くの場合、僕はその一面にしか思い至ることができない。そもそも、ある個人を完全に「好き」と「嫌い」のはこに分類できないことなど、当然のことだ。

愛することには覚悟が必要だ。憎しむことには体力が必要だ。ならば僕は、喜んで覚悟しようと思う。憎しみを持って誰かを八つ裂きにする工場で働くくらいなら、小高い丘陵にでも登り、「嫌い」なやつをただ愛そうと思う。ヤヌスのもう一つの顔に気づく時、平和に向かう1番最初の扉が開かれるような気がする。おわり。

(無駄な注 : ヤヌス(Janus)が扉の守護神であることから1月(January)の語源となっていることを知らなかった)

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