2つのパズルゲーム(23/09/07)

大雑把に言って、個人は世界の間隙を埋めるために存在し、また世界は個人の間隙を埋めるために存在している。
これは冷静に見れば当然のことだ。なぜなら、個人の集団のことを僕らは世界と呼んでいるし、また、集団とは個人の連関性を前提としているからだ。ある人間が消えれば、それはもはや既存の世界ではなくなるし、個人の内面は既存の世界によって構造化されている。

しかし問題は、その埋め方である。
例えば僕は、世界の何を埋めているのだろうか。本質的に、どのような形で他者に必要とされているのかということは、実は判然としない。例えば個人が世界という大きなパズルのピースだったとして、果たして本当に、僕はどこかに、僕にしか埋められぬ空閨を見つけることができるのだろうか。揺らぎ、変遷していくこの世界で、揺るぎなくピッタリとはまる縁など、本当にあるのだろうか。

また個人の空隙についてもまったく反対のようで、実は同種のことが言える。
僕らはなんらかの方法で、自身を埋めている。それは家族や恋人や人間関係かもしれないし、もしくは仕事や音楽や宗教かもしれない。自覚的なこともあれば、全然無自覚なこともあるが、ともかく、そうやってなんらかの方法でぽっかりと空いた自分の穴を埋めている。
しかしやはり、埋め方が問題となる。つまり埋め方が常に社会規範に整合するとは限らないのだ。家族や音楽なら、許される。飲酒や喫煙だって、大きな問題ではない。では不貞や自傷はどうだろう。薬物やカルトはどうだろう。たとえそれが自分を埋めるための行為であっても、世界は決して、それを許さない。個人の空虚さは認めつつ、社会規範は常に、それらより優先する。自分というパズルのピースが、常に世界の認めるところのものとは限らないのだ。

そうやって考えると、世界はたくさんの小さな穴が空いたスポンジのようだ。個人もまた、いくつかの穴が空いたチーズみたいだ。人間は世界の中の、何かの(誰かの)穴を埋めているときにだけ、幸福を感じ、また、何かによって(誰かによって)自らの穴を埋められているときにだけ、幸福を感じる。世界がグラグラと揺れ動いていて、個人もまたぐにゃりとすぐに変形することを考えれば、穴を埋めるという充足行為が、どうしたって一過性の、刹那的なものでしかないことは自明である。畢竟、永劫的な幸福などというものは、原理的に存在することができない。

もしかすると僕は、「世界のたくさんの穴を埋めている人」のことを「幸せな人」だと感じて、羨ましく思うかもしれない。けれど、その「幸せな人」が「個人の穴」を埋められているかどうかはわからない。また逆に「世界の穴」を埋められていないからといって、それが即座に「不幸な人」であるとも限らない。
僕らは永久に『幸福』というタイトルのついた、2つのパズルに、ああでもない、こうでもないと、色々なピースを当てはめている。


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