『肖像』(仮題) 冒頭部分

あらゆるものは僕を訪れ、重なり、そして流れていく。あるときはゆっくりと、そしてまたあるときは速く、とても留めきれないほどに速く。

あれから僕の中を過ぎ去った幾らかの時間は、僕の中に存在していた色々な記憶の断片を、どこかへ運んでいってしまった。それはまるで、もろい岩石が風に吹かれてだんだんと崩れていくように。僕の記憶もだんだんと輪郭を失い、おぼろげになっていった。あの頃の僕や、凛や、僕らにまつわる記憶たちは、もうほとんど完全に、どこか遠い国の、もしくは遠い海の、砂塵になっている。
しかし、この街を歩けば、僕はその断片の幾らかを見つけることができるような気がする。目によって、耳によって、肌によって、もしくは、もっと説明のつかない何かによって、僕を含めた彼らの断片を拾い集めることができる。そしてそれはとても幸福なことだと思う。
僕は今、もう一度何かを書こうとしている。一度はやめてしまった、物語を書くということを、もう一度始めようとしている。しかし、僕に何かを書かせようとしているのは、一度目に僕が物語を書いた時とは、まるっきり反対の意味を持った衝動なのだ。

「あたし、時々ね、急に、絵を描きたくなるの。まるで晴天に落ちる雷みたいに、本当にびっくりするくらい唐突に、絵を描くの」
凛はあるときそう言った。
「だから、この家の全部の机に絵の具がついてるわけか」
僕は目の前のテーブルに抽象画みたいにこびりついている絵の具の塊を、指でガリガリと触った。
「そう。でもだから、この家が汚いのはあたしのせいじゃない。全部、その衝動のせい。雷みたいな衝動のせい」
凛はメビウスの5mgを箱から取り出して火をつけた。大きな白い付け爪のついた細い指の間から、苦く焦げたような、それでいて少しだけ甘い香りのする煙が立ち上がる。僕はどうしてか、Deep Purple『Smoke on the Water』のフレーズを思い出していた。

“Smoke on the water, and fire in the sky.”
(水面に立ち込める煙、空に立ち昇る炎)

凛はいつでも、目の前の物事が衝動からやってくるものなのか、それとも誰かの打算からやってくるものなのかを見極めようとした。そしてそれが打算の時にはすぐに興味を失い、衝動の時には何をも忘れて、飛びついた。だから彼女は、そのせいで部屋の清潔さ以外にも、たくさんのものを失っていたし、反対に得られたのは、誰かに語るにはあまりにも瑣末なものばかりだった。

「ねえ」
凛は半分と少し吸ったタバコをビールの空き缶に落として僕を見た。
「ねえ、ナカミチ君にも衝動って、ある?意味もなく突然何かをしたいって気持ちが起こること、ある?」
彼女の目は、真っ直ぐに僕をみている。うーん、と僕は窓の外に目をやって少し考えた。初夏の午後、外はあまりにも明るく、そして静かだ。
「文章を書くことかな」
「文章?文章って、小説とか?」
「うん。でも小説じゃなくてもいい。ただ文字を吐き出したいっていうか。嫌なことがあったり楽しいことがあったり、もしくはそういうことが何もなかったりするときに、どうしても書かずにはいられない。多分、自分を洗い流すためにね
「洗い流す?」
「そう。自分の中に溜まったいろんなことを、綺麗さっぱり忘れるために。文章に書けば全部忘れられるような気がする」
「ふーん」
凛は二本目のタバコに火をつけた。
「それで綺麗さっぱり全部を洗い流せるの?」
「それは、どうかな」
僕は眩しい世界に向けていた視線を自分の手元に戻した。テーブルで固まっていた絵の具の一部が指の爪の間に挟まっている。
「あたしはね、自分が書いた絵を、全部覚えているの。いつだって思い出すことができるわ。色も、線も、全部が全部、完全に。写真みたいに」
「そうなんだ。そりゃすごい。でも、全部覚えているなんて、大変じゃない?しんどくなったりはしないの?」
「しんどい?さあ、どうだろう。そもそも、忘れられることなんてあたしにはひとつもないから
凛はまだずいぶん残っているタバコを缶に落とした。それから、さっきまで眠っていたベッドにもう一度もぐり込んで、天井を見つめていた。僕は彼女の穏やかな横顔をぼんやりと眺めた。それはとても清らかで、世界の全部の感情が混ざっているみたいだった。頭の中ではまだ『Smoke on the Water』のフレーズを追いかけていた。

“No matter what we get out of this, I know I know we’ll never forget.”
(何を手に入れようとも、決してそれを忘れることはないだろう)

僕は今、もう一度何かを書こうとしている。あの頃、僕にとって書くということは物事を洗い流すことを意味していた。けれど今は違う。僕は僕を過ぎ去るあらゆるものを流してしまわないために、留めるために、何かを書こうとしている。穴だらけのザルで、川の水をすくい取るみたいに必死に。物事はどうしていたって、僕の意思とは無関係やってきて、そして流れていくのだから。

これはある短い時期に僕に重なっていた(そして流れていった)三人の男女についての話だ。

その年、春は瞬く間に過ぎていった。"四季"なんてとんでもない。この国には長い冬と長い夏があって、その間の、形容し難い刹那の温もりや、寂しさを見つけ、僕らはやっとそれらに春とか秋とか、あいまいな名前をつけている。
扇風機の羽音にかき消されるくらいの音量で、ビートルズが流れていた。早い時間の『バー ティガ』は今日も閑古鳥が鳴いていて、開け放された扉からは夏の熱気が湿気を帯びて、忍び込んでくる。
僕はカウンターで芭蕉を待っていた。否、約束があるわけではない。しかし僕らはいつも、来るか来ないかわからない待ち合わせをした。そういう頓珍漢な方法がせいりつしていたのは、大学院生の僕に持て余すだけの時間があったことと、それからだいたい僕らは約束なしでもこの店で落ち合えたことに起因している。
2杯目のヒューガルデンのグラスに、4つ泡のリングができた頃、芭蕉はやってきた。いつもの通り、大きな紙袋を持っている。
「よう、遅かったね」
「お前が早すぎるんだよ、一歩出てみろ、外はまだ昼だぜ」
「ふーん、パプアニューギニアはもう夜だ」
芭蕉は、僕の戯言を華麗に無視して、ジャックダニエルを頼んだ。注文の時、彼はいつも「ジョン・ダニエル」という。
「で、ネズミ講は順調か?」
「人聞きの悪い言い方するなよ。ネットワークビジネス。新しい流通のカタチ」
彼の傍には『Life Becomes Better』と印字された白い紙袋があり、中にはたくさんのボトルや書類が詰められている。
「順調さ、今日だってその打ち合わせだったんだよ」
「打ち合わせ?勧誘の間違いじゃないか?」
僕は紙袋の文字を見る。彼の行いによって、誰かの人生は良き方向に向かっているのだろうか。

松井芭蕉、本名だ。彼の言葉を借りれば、「父親は人を名付けるには無知すぎたし、母親はそれを咎めるには無口すぎた」らしい。名前の話になるといつだって彼はそう説明した。「俺のオヤジは短歌と俳句の違いも知らない」と付け加えて。
彼は僕と同じ大学の、二つ下の学年だった。ただし、留年を繰り返しているせいで、もはや実年齢はわからない。見た目は童顔だが、目つきは鋭く、どこか大人びているように見える。

(続く)

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