世の中は物語のように(24/05/24)

この世界は複雑だ。小説のような一貫したストーリーもなければ、ドラマのように幸福な最後もない。意味ありげな無意味さと、価値のなさそうな大切さが、無秩序に絡まり合って、この世界はできている。

ぼくの部屋の裏手は田んぼになっていて、夜になると、たくさんの蛙の鳴き声が聞こえる。ぼくはいつもそれを聞いている。

経済学の観点からすれば、富は常に増大する。科学技術が発展し、文明が高度になれば、人類は次々と新しい価値を創造し、その総量は増加する。
けれど、残念なことに、それは個人の幸福が増大することを意味しない。例え99人が幸せを享受しても、木陰に隠れた1人が不幸を抱えている。

あいもかわらず今夜も、蛙たちは鳴いている。各々が各々のリズムで、絡まり合っている。ぼくは窓からやってくるその音色を、聞いている。

どんなに世界が発展しても、人間はいつも何かに縋っている。神に、思想に、科学に、縋っている。つまりそれは、ぼくたちは人間になってからもうずっと、不安や不幸を抱え続けているということだ。
最近、スピリチュアルや陰謀論にハマった人と会うことが増えたように思う。ぼくは彼らの主張を全然理解できないけれど、彼らの気持ちは理解することならできる。彼らは、この世界の複雑さに怯えているのだ。世界にある混迷に、自らにある蟠踞に、答えを求めている。陰謀論はそのシンプルな回答に見えるのだろう。
ぼくらはもうずっと、複雑な海流の中で、覚束ないわらに、しがみついている。

蛙が鳴いている。盛大に鳴いている。うるさいほどに、鳴いている。そうしてぼくもまた、泣いている。

「どうして生まれてきたのだろう」と考えることがあるけれど、それは多分、適切な問いではない。なぜならそんなのは単に親のエゴだからだ。考えることがあるとすれば、「どうして生きているのだろう」ということの方だ。生まれることと、生きることは、ぜんぜん違う。
不思議だけれど、「生き生きとした人」はだいたい、「生きている意味」なんて考えない。そんなことを考えるのは「生き生きとしていない人」だけだ。
きっとおそらく、生きていることに意味はないだろうと思う。しかしもちろん、それは即座に死ぬことを意味しない。だって生きていることに意味がないのと同じように、死ぬことにだってさしたる意味はないのだから。つまりぼくらは、「生きることの無意味さ」と「死ぬことの無意味さ」の間で"たまたま"生きている。

蛙がしんと鳴き止んだ。一斉に鳴き止んだ。99匹が鳴き止んだ。静けさの中で、ぼくはまだ、泣いている。

そう、だから世界は、そして人生は、物語のように美しくはない。貧しさは未来の富を約束しないし、不幸は将来の安寧を保証しない。不幸に生まれて、不幸に生きて、不幸に死んでいく。そういう絶望に包まれた物語が、この世界を作っている。世界は、物語のように美しくはない。

また蛙が鳴き始めた。徐々に音圧が大きくなる。たくさんの蛙が、複雑な音を奏でる。まるで絡まり合った世界のように、蛙が、鳴いている。

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