『背筋だけが地球の裏側で泥を掘っている』(2022年)

夜中に目が覚めた。ストレスからくるうつ状態を発症してちょうど一ヶ月になる。薬が効いたせいか深く眠っていた。背筋が痛い。しかし抗不安剤のおかげか、気分は悪くない。少し外を歩くことにした。
ドアを開けてアパートを出ると、ちょうど飛行機が降りてくるのが見えた。僕の家は空港に近い。どこか遠い外国から飛んできた鉄の塊が、またどこか遠くに飛んでいく。僕はそれをいつも眺めている。理由なく空港の方へ伸びる道を歩いた。
空港の脇を、大きな幹線道路が走っている。ちょうど高速への入り口があって、少し行くといくつもの道路が、まるで血管みたいに交差している。自動車のライトは深夜だというのにドクドクと音を立てて、まるで酸素を運ぶ赤血球のように流れていく。車列の手前で、僕の吐く息は白い。

隷従することの方が、生きやすいのではないかと思った。例えば街のあらゆる運行が、人間のあらゆる行動が、誰かに支配されている方が、僕らは今よりも余程、生きやすいのではないか。飛び去る飛行機が、走り去る自動車が、誰かに与えられたある特定の目的を持つように、僕らも生まれながらに支配された方が容易く生をまっとうできるのではないかと思った。

道路に比べて、狭い歩道はあまりにも暗い。工場が並びひとけはない。僕は傍に自販機を見つけ温かいコーヒーを買った。自販機は、お釣りの出ないちょうどの小銭を飲み込んでから、ガタンと缶を吐き出した。それから後は、また何事もなかったかのように、さっきと同じ格好で立っている。

もしかして、と僕は想像する。
もしかして、本当はもう隷従しきっているのではないか。僕は迷ったり悩んだりするフリをしているだけで、本当は元から全部誰かに決められているのではないか。生きにくいと思っているこの世界は、実は可能な範囲で最大限に生きやすく設計されているのではないか。さっき立っていた自販機も、財布に入っていた小銭も、そもそもコーヒーを買おうと思ったこの寒ささえ、誰かに決められた結果なのかもしれない。缶を開けてコーヒーをすすった時に、ちょうど雪がちらつき始めた。小さく、硬く、溶けにくい雪。誰かに設計された氷の結晶。

相変わらず道を歩く。
道は真っ直ぐに伸びている。どこまでも真っ直ぐに、まるでこの地球が平面で、端から端まで伸びているのではないかと思うくらい。途中いくつもの合流があり、分岐があり、しかし元の直線だけは保ったまま。
途中、橋が現れた。欄干を隔てて黒い水面が見える。ほとんど干上がっているために、ところどころ水底から、コンクリの突起物がのぞいている。飛び石みたいに並ぶそれらを目で辿っていくと、先の方に次の橋がかかっていて、やはり自動車が往来している。
もしも僕がここから飛び降りたら、この世界を設計し、支配し、動作させている誰かは驚くだろうか。それともやっぱり、それすら計画されていたのだろうか。そうだとすると、自販機もコーヒーも雪の結晶も、その瞬間のために散りばめられた“装置”に過ぎなかったのだろうか。

僕は飛び降りることをやめた。
そしてまた歩き始めた。ホテル街が見える。ホテル街といっても道路沿いにいくつか建物が並んでいるだけだが。それらは全部が全部、セックスをするためにいかにも華美に輝いていて、逆に安っぽい。ハリボテみたいに見える。
薬のせいか、ここ数週間は睡眠以外のあらゆる欲求が減退している。食事も一日に一度しか取らない。自慰行為もほとんどない。もちろんセックスもない。だから、余計に、立ち並ぶホテルが滑稽に見えた。僕らが普段、性とか愛とかいう名前をつけて複雑怪奇に奉っている単なる交尾行動を、ラブホテルの様々な装飾は象徴しているように思えた。
一番大きなホテルの、道路に面した駐車場の傍に小さな鉄格子を見つけた。大人なら腰をかがめないとくぐれない高さの鉄格子。柵の奥にはブルーシートで包まれた何かの備品みたいなものが見える。掃除用具だろうか。
僕は、設計として甘いのではないと思った。建築物の話ではない。いや建築物の話なのだが、今、僕の目の前に出現させるための建築物としては、過度に華美でかつ、滑稽なほどに完成されたのでなければならないはずだ。なのに、僕には今、鉄格子が見えている。鉄格子の向こうの掃除用具が見えている。掃除用具を使って誰かが交尾した後の部屋を、せっせと掃除する腰の曲がった誰かが見えている。さっきまでほとんど完全に保たれた世界は、もしかすると、僕があの橋で飛び降りなかったことに由来して、少しだけ綻び始めているのかもしれない。

信号が見えた。
僕は思い切って左の小道に入ることにした。うまく説明できないけれど、これはかなりの思い切りだ。真っ直ぐに地球の端から端まで、つまり地球と宇宙の境界線から、また別の境界線へと伸びる道を、僕は左折したのだ。これはもう、誰かへの冒涜に近いかもしれない。
さっき少しだけ綻んだ世界は、やはりその綻びを修正し切れていないようだ。道路はウネウネと蛇行し、歩道橋は変な方向へと伸びている。あんなにも完全な直線を作れたのに、今はもう、その完全性を消失しかけている。
人を連れた犬が通った。僕は今日、街に出てから生きもの、もしくは生きていると思われるものに遭遇しただろうかと思った。犬は僕よりもかなり小さい。不思議だなと思う。どうしてこんなに小さな物体が、ちゃんと歩行できているのだろうか。さらに言えば、おそらく、ちゃんと何かを食べて代謝をして、もしかしたら吠えたり鳴いたり、何かを攻撃したりもするかもしれない。そんな機能が、この小さな体の中に成立しているとは到底信じられなかった。僕のサイズでさえ、ギリギリだと思うのに。いくつかの重要な機能を諦めて、やっとこのサイズに収まっているとのに。
犬は、そして犬に連れられた人は、僕を颯爽と追い越して行った。犬は、犬を連れた人をしっかりと紐で引っ張っている。世界を支配している誰かが、世界の完全性を取り戻そうとしているのだと直感した。街には人がいるはずで、人は動いていなければならない。その“装置”として犬を登場させたのだ。確かに、徐々にではあるが、道は真っ直ぐに戻り始めている。おそらく、またどこかある特定の地球と宇宙の境界線へと向かおうとしているに違いない。
仕方なく、僕は歩いた。さっき手に持っていたコーヒーの空き缶がなくなっていることに気がついた。どこで捨てたか、全く思い出せない。しかし僕は道に捨てるようなことは決してしないはずだ。多分、あれはもう必要がなくなったのだなと思った。僕にとってではない。僕を囲う世界と、それを支配する誰かにとってだ。

必要であるとはどういうことだろうと思った。また、不要であることとはどういうことだろうと思った。存在することは、その存在が何かにとって必要であることを意味するだろうか。もしもそうだとすると、不要なものは、一切、存在しないことになる。しかし、本当にそうだろうか。僕が唯一実感を持って言えることは、必要であるが存在しないものが、確かにあるということだ。例えば、僕が小さすぎるが故に、失われてしまった僕の機能のように。

歩いた。
空き缶はもうない。
雪はもう降っていない。欄干はなく、凸凹としたコンクリも、背の低い鉄格子もない。歩いた。すると、高架になった線路が見えてきた。
列車は、潔いなと思った。列車には線路が必要だ。目的地があることを、その体でちゃんと示している。自動車も飛行機も、まるで自由に動いているようなフリをしているのに、列車はそうではない。列車は線路がないと走れない。線路は諦めの象徴だと思った。列車は、こうして諦めの象徴を掲げて、毎日、毎日、走っている。世界はまた、ほとんど完全に、その完全性を取り戻した。
僕は線路と並行に歩くことにした。もうこの時間に列車は走らないが、それでも、少しくらいは潔くありたいと思った。本当は線路の上を歩きたいと思ったけれど、そうするには僕は小さ過ぎた。僕にはその機能は備わっていない。
線路に並行に歩くということは、直線の道路を歩くということで、僕は僕によってそれを決定した。もしくは、反射的にそれを実行した。これによって世界はまた少しだけ綻んだように見えた。どうしてか、人が行き交っている。しかもたくさんの人が行き交っている。
僕は人々をつぶさに観察した。そこにさらなる綻びを見つけようとした。しかし彼らにはちゃんと手足がついていて、おまけに大きな頭までついている。服を着ているし、ちゃんと二本の足で歩いている。
しかし一点だけ、おかしなところを発見した。彼らは一様に背筋が曲がっている。曲がり方は人それぞれだが、全て一様に前のめりに、頭をもたげるようにして曲がっている。昔、理科室で見た人体模型は真っ直ぐだったので、これはおかしい。人間の背筋は真っ直ぐに、ほとんど道路と垂直に伸びているはずだ。
僕はそれから、自分の背筋はどうだろうと考えた。もしかして曲がっているかもしれないと考えた。そうだとすると、初めから、僕が家を出る前から、僕は僕自身の中に世界の欠陥を抱えていた事になる。深い眠りから覚めて、起き上がった時に感じたあの痛みは、その前触れだったのかもしれない。

歩くと、線路に並行な道は無くなった。
正しくは、並行だった道は線路下の駐車場を避けるようにして右側に伸びていた。仕方なく、僕はその進行に従った。駐車場は線路よりも弱く、道路よりも強いのだと思った。
曲がった道は、さらに曲がり、そしてまた曲がった。はじめに歩いていた幹線道路と比べて、どの方角に向かっているのか、僕にはもうわからなかった。さらにいえば、さっき並行に走っていた線路と比べてもわからなかった。そこにはただ道路があって、それと斜めの方向に、僕の背筋が伸びているだけだった。
突然目の前に、バーが見えた。
すると急にウイスキーが飲みたくなった。いかにも単純な設計だが、僕はそのバーに入ることにした。重い木の扉を開けると、蝶ネクタイをつけた初老の男性が暇そうにカウンターの内側に座っている。
「いらっしゃい、寒かったでしょう」
男性はおそらく僕に話しかけた。おそらく外は寒く、中は暖かかった。
「はい、とても」
誰かが答えた。僕かもしれないし、僕ではないかもしれない。しかし運よく、会話は成立し、僕はカウンターの端から二つ目の席に座った。他には誰も座っていなかった。目の前のボトルを指さすと、誰かが、これをロックでと注文した。
男性は、ボウモアのロックです、といいながらコースターの上にグラスを差し出した。グラスには琥珀色の液体と、四角く切り取られた空間が入っていた。僕はそれを観察した。恥じることなくグラスを持ち上げて、その液体と空間を観察した。
空間は、四角く、ほとんど完全な立方体に切り取られていた。空間の内外では、異なる世界が存在しているように見えた。外側には液体が満たされているグラスがあり、内側には何もない。おそらく、外側は僕と同じ原理と支配で動作していて、内側はまた違った原理と支配があるのだろうと思った。
男性は見た目よりも饒舌だった。男性は僕しかいない店内で、僕か、もしくは僕以外の誰かと話していた。どういうわけか、ペプチドの話をして、人工知能の話をして、それからウイスキーの話をしていた。
「どんな種類がお好みですか」
男性は聞いた。
「アイラをよく飲みます」
僕か、もしくは僕以外の誰かが答える。
「ではこれはいかがですか」
男性は小洒落た円柱形の瓶を出す。
「最近はスコッチも高騰していますが、これはまだそうでもない」
じゃあそれを、と僕か、僕以外の誰かが答える。男性はそれからまた、誰かの何かの研究の話をしていた。
「科学はウイスキーに似ている、いつでも、誰かを幸せにするために営まなければならない」
男性は少し格好をつけてそう言った。僕は、その例えがとてもありきたりで、当たり前のような気がした。
「あらゆるものは必要とされて生まれてくる、生まれてくるものはいつでも必要とされなければならない」
僕にはその意味がよくわからなかった。ものすごく当然のことのようにも思えたし、また全然、間違っているようにも感じられた。
「人間はどうでしょう」
誰かが聞いた。僕はやっぱりその意味がうまくつかめない。とても重要なことを話しているかもしれないが、もしもそうだとすると、手元の酒は僕がそれに気がつかないための“装置”として作用している。僕には、質問も、主張も、それらが質問であるか主張であるかさえ、わからなかった。
「もちろん人間もそうです」
男性は答えた。おそらく、それは問いに対する答えなのだと思う。それからまた男性は、しかし、と付け加えた。
しかし、いつ、誰にとって必要か、それはわからない。あなたにお酒を出すバーテンダーも必要だけれど、アイラ島で泥を掘っている人も、あなたがお酒を飲むのには必要でしょう」
男性はそこまで言い終わると、店の奥へと入っていった。僕はそれからもう一度、グラスと、その中の空間を見た。

僕はどうしてか、イギリスの西の方の、広大な大地で泥を掘っていた。おそらくそこは、とても寒く、暗い。しかも、僕には頭がついていなかった。手足はガシガシと力強く泥を掘っているのに、頭があるはずの空間だけが、ポッカリと欠落していた。頭を支えるには体が小さすぎたのかもしれない。手足はやはりガシガシと泥を掘っている。僕の背筋は、大地と垂直に宇宙へと伸びていた。


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