零落の百日紅(23/10/13)

この倦怠は、やはり怠惰からくるものだろうかと、思案していた。繰り返す悪夢から逃れた夜半のことだ。
何かに追いかけられる夢を、もう何度も見ていた。背後から迫るものは、具体的な像を結ぶこともあるし、または観念的な、言語化さえ許さないような漆黒のこともある。ともかく、何かに追われ、足掻き、そしてその多くが徒労に終わる。そんな夢の連続が、初秋の夜を支配している。
そんな折に、唯一、美しい夢を見た。煌々と輝く葉のない百日紅(さるすべり)の夢だ。そしてそれはおそらく、僕の最も古い記憶の一つに関係している。

夏の盛りが少し過ぎた園庭にいた。まだ蝉の声が時雨ている。保育園の園庭には、いくつかの遊具と砂場があって、その裏側には樹木が数本立っていた。その中に一本だけ、特異な見た目をしたのがあったのだ。
その幹は太陽光を爛漫に浴び、キラキラと輝いていた。テリテリとした表面は、油をたっぷりと敷いたフライパンで焼かれるウインナーのようだと思った。葉と思しきものはなく、枝から直接に蕾がなっている。いくつかの蕾は紅い花を咲かせ始めており、やはりそれもなんだか神々しい異彩を放っている。葉のない異様な樹木。それらは全体として美しく、まるで太陽光はスポットライトのごとく、その木一本のみに注がれているように感じられた。
多くの場合、古い記憶というものはある形式でもって補正される。初め五感によって直感した情報に、後から色々な知識が付随し、ルビが振られる。その総体を記憶として保管しているわけである。
しかしあの日の百日紅の記憶には、ルビがない。四半世紀前の光景であるのに、それはそれとして、つまり、後情報の追加されたものでない、単なる直感とか情動として、今ここにありありと思い出すことができるのだ。
その、手付かずの記憶を、どうしてか僕は悪夢の合間に掘り返すことができた。

高浜虚子が『百日紅(ひゃくじつこう)』という随筆を残している。面白いことに、先述の記憶との類似がいくつかあって、手記の中でもやはり昔見た百日紅の真っ赤な花や葉がなかったことなどを述べいている。しかし後半では、それが夏の盛りよりもあと、つまり秋に入ってのことであった旨、また葉がないのではなく、むしろ葉の先に花が咲くということを書いている。こちらは虚子自身の記憶へのルビであろう。

葉がないのではない。それを見つけられないでいるだけなのだ。

この倦怠は、やはり怠惰からくるものだろうかと、思案していた。僕は零落しているのだろうかと、思案していた。しかしなんということはない。これは零落などには値しない。たとえどんな生活を送ろうが、まだ落ちぶれきってなど、いないのだ。
「葉のない百日紅」、それは零落しているという意味ではない。単に葉を見逃しているのだ。ちゃんとそれをそれとして、認識してさえいれば、それはいつでも生き生きとしている。

あらゆるものは、零落しない。

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