【いくつかの散文】

5、6年ほど前に書いたいくつかの端書をまとめて残しておく。(追記、改題、削除なし)



『夕立に傘を持たない私は』(18/07/03)

…ここ数日、イッキに気温が上がって、まだ環境に適応できないニンゲンの代わりにそこいらの室外機は、類を見ないイキオイで泣き喚いている。青空に生える入道雲はいよいよその存在感を増して。例えばもし、絵だけの国語辞典があったなら、もくもく、の欄にはきっとこの入道雲が使われるだろう。

これは雨の話だ。

…私の住むアパートの近くには茶色のネコがいて、大抵そいつは誰も気づかぬくらい自然に灰色のコンクリに寝そべっている。モチロン、気づかれぬままそいつがクルマに轢かれるところを見たことはないけど。今日だってそいつはやっぱり寝そべっていて、私がいつものように挨拶すると、さっきまで微睡に浸かっていたそいつの両眼がこちらを一瞥する。刹那、私はこの世界から私とそいつ以外の全てを捨象する。照り始めた太陽も風も道ゆく小学生の背中で揺れるランドセルも。そこにはそいつと私しかいない。または、世界にはそいつと私以外の全てがあって我々のいた空間だけぽっかりと空いてしまったようにも思える。もしあの哲学者の言うように世界が言語から成っているなら、我々はどんな言葉を持っているだろう、問いかけたところでそいつはにゃあと短く私を宥めて、それでおしまいだ。

これは雨の話だ。

…昔どこかで見た戦争の映像を思い出す。それは百年戦争でも独立戦争でも世界大戦でもなくて、今この瞬間、どこかで起きているらしい映像だった。テレビに映るキャスターは表情1つ変えず与えられた原稿を読んでいる。きっと伝える彼にも伝えられる私にも戦争の実感なんてまるで無くて、彼はただ冷ややかに仕事を遂行するし、私はただ無関心に流れる音を右耳から左耳へと流すだけなのだ。私とキャスターの間には悲しみも憂いも、もちろん喜びだって存在せず、空間に投げ捨てられた文字がまるで水面波みたいに広がって消えていく、それだけ。でもそれだって、何もない、という幸せを含んでいるようで、少し顧みればお隣の国からミサイルが飛んでくるかもしれないし、明日大きな地震が来るかもしれない。何もない、何もない平和。

これは雨の話だ。

…少し検索すればわかることだが、巷には学術的成果、というのが溢れている。アレガデキタコレガデキタと宣うては、いちいち成果と読んで後生大事に抱えている。私もその一端を担っているわけなので大きな口は叩けないけど。人類はもう殆ど全て分かったような顔をして、実はそこに揺蕩うコーヒーの湯気について殆ど何も知らない。我々の出自も宇宙の始まりも、氷がどうして出来るかすら、まだ全然わからない。

これは雨の話だ。

…研究室を出たところで夕立にあった。降り出した通り雨はぐっしょりとコンクリを濡らし、景色にグレーのフィルターをかける。傘を持たない私は路頭に迷った難民みたいにどうすることもできずただ立ち尽くすだけ。コントラスト、大粒の雨は私の肩でずっと踊る。脇を走るクルマは少し速度を上げて、一刻も早くこの鬱蒼たる世界を抜け出そうとしている。

これは雨の話かもしれたい。

雨に濡れた私は雨上がりのムッとする空気の中で、さっきまで顔にこびりついていた傲慢さや悲愴や虚栄心を思い出す。洗い流された後の私にはもう殆どなにも残っておらず、がらんどうになった肋骨の内側あたりを覗いてみると、近くに住む毛むくじゃらのトモダチや、世界の遠くにある過去の記憶や、人類についての厭世的な憂いばかりが残っている。顔面に塗りたくったドロの奥にある私を作るものの多くは私以外の他愛ない何かで、私はただその事実に気づくのみである。気づく私だけが私を規定する。私以外の全てから私を掬い出す。雨が上がった後、雲間から夕焼けが見える。

これは雨の話だ。

『mons.Wolfの頂で』(18/07/19)

夜を使い果たした私の瞼には、行き場を失った睡魔が重くのしかかっている。それは例えば黄昏の商店街で、半分だけ降りたシャッターみたいに、気を抜けば閉まりきってしまいそうな、それでも尚眠ってしまうことを拒む精神が私のどこかに漂流していて、降り切らないシャッターは遂に朝を迎えようとしている。

例えば近い未来に誰でもーーーとびっきりのお金持ちじゃなくてもーーー月に行くことができるようになったなら、きっと私は行ってみたいと思うだろう。そして月に着いた私は大きなクレーターや乾燥した平野や宇宙人のいる月の裏側を探検しては、そのうちに飽きてぼーっと地球を眺めるのだ。私はあそこから来たのか、私はあの小さな惑星で生まれて、数十年を重ねたのか。真っ暗な宇宙に浮かんだちっぽけな塊の中であの子を好きになったりアイツを嫌いになったりしたのか。

そしてきっと、少しだけ悲しくなって、その後大声で笑うだろう。あぁ、殆どのことは宇宙の端の端の端の片田舎で起こっているのだ。温暖化だって、食糧難だって、あら今年の夏は暑いわネ、今年のコメはあんまりだナ、くらいのことで、古い神社の鳥居の側でヒグラシの鳴き声を聴きながら交わす会話のようなものなのだ。

みんなが先に地球に帰ってしまって私は月に1人になるかもしれない。そのうち行きたいところもなくなって潰せぬくらいのヒマを抱えることになるかもしれない。そうして飽きることにも飽きたくらいに、私はヴォルフ山に登るのだ。富士山と大体同じくらいの高さで(富士山に登ったことはないけれど)私が生まれた場所を思い出すために。
月の重力は心地よい。地球にいた頃はどうしてあんなにガマンができたのだろうと思うほど。ピョーンピョーンと音がするくらい体が軽くなって、すぐに頂上に着いてしまう。

あぁ、私の生まれたあの星の向こう側から太陽が昇ってくる。悲しみと可笑しさを抱えた私の顔を真っ赤に染めてゆく。ヴォルフ山の頂上で私は、色のない空に向かってきっと涙を流すのだ。

『夜のノビ・ノビタ』(16/10/27)

眠れない夜である。夏が終わり、秋になると私は毎年かような夜を何度か繰り返す。秋の夜は長く、取り留めのない思索に耽ったり、意味を持たぬものを書いてみたりなどしても、まだまだ日はのぼってこない。

ブログを更新していないこともあるし、お酒も少し飲んでいるし、今回は散文的に、詩的に、真夜中の散歩でふと思ったことを綴ることにする。

谷川俊太郎の詩に『夜のミッキーマウス』というのがあることをふと思い出した。私はどう考えてもミッキーマウスのような人気者でないし、プーさんのようにおおらかでもない、まあ踏ん張って野比のび太が関の山である。彼と私との違いは、目を瞑ってすぐに眠れるかどうかと、猫型の優秀な機械を持っているかどうか、くらいであり、それは些細なことである。

猫といえば、最近自宅のまわりに猫が増えたような気がする。私個人の推測ではそれは近所の大きな建物の解体と関係していて、よく出没する猫たちは住処を追われた漂流者なのではないか、と考えている。が、私が猫と会話できない以上、真偽は定かではない。

私も猫たちと同様、この夜を漂流している、または、それは人生のことかもしれない。風に吹かれて転がる石に自らを写したのは、ボブディランだったか。どれだけ歩けば、私は一人前の男になれるのか。

ボブディランがノーベル賞を辞退するとかいう話を読んだ。そういえば、サルトルがノーベル賞を辞退した、という昔話を聞いたことがある。彼の『実存主義とは何か』に手を出したのは私の浪人が決まってからだったろうか。

浪人や、その他諸々の時を経て、だいたい20年間、この世界で生きている。問題は常に山積みだ。壁や障子に耳や目がないかわりに、窓ガラスや本棚や温かいコーヒーの中にだって、常に問題を囁く口がある。口、口、口…。

別段、憂いているわけではない。極論すればあと数十年の人生も、それなりの働き口を見つけて、夜になれば好きな歌を口遊めばよいのだ。今、私がそうしているように。

夜に歩けば、たくさんのものを見て、たくさんのことを考える。それは大抵間違っている。しかしそれで良いのかもしれない。私は太陽のように正確ではないからだ。むしろ月のように、昼間上がることもあれば夜上がることもあり、また、それはそれとしてちゃんと地球の周りを回っている、月のようであればよいのではないか。月である、ことのみが月を月たらしめているのだ。それはのび太も猫たちもボブディランもサルトルも、そしてもちろん私だって同じである。それ以上でもそれ以下でもない。
散文的とは言ったものの、あまりにも文章が散らばりすぎたのでこの辺りで夜の散歩は終わることにする。

『夜のノビ・ノビタ2』(17/01/25)

眠れない夜である。否、眠らない夜かもしれない。テスト前になると私もそれなりに準備するので、生活が変則的になり、今日のように遅くまで勉学に励むこともあるのだ。(その期間が一般的に長いのか短いのかは成績を見れば火を見るよりも明らかなのだが)

研究室にいて、少し小腹が空いたので散歩がてら何か買いに行くことにした。いつかのような、夜の散歩である。今回は大学の夜を少し散文的に眺めることにしよう。

私の通う研究室には"ひとをダメにするソファ"なるものがある。そこにドップリと座ってふと、"このソファは私を今以上にダメにすることができるのだろうか?"などと考えてみる。眺める先には煌々と光るディスプレイとそこに映し出される難解な数式。しかしそれらについて私はほとんど何も知らないし、またそれらが私に答えめいた何かを語りかけて来ることもない。

立ち上がり、部屋を出る。そこにはあまりにも長く、あまりにも暗い廊下が延びていて、向こうに小さく光が漏れている。全ての人にとって人生はこういうもので、ほとんどの人にとってあの光は幻かもしれない、などとよくわからない妄想に耽る刹那、私はどちらに属するのだろうと感傷的になったりする。

外に出ると、幾分空は曇っていて、夜道は目を瞑るよりも明るい。道の先には猫が見える。私を一瞥してそそくさと茂みに身を隠したそれはまるで季節のようだと、遠い春や、長い夏や、束の間の秋を振り返る。

夜道は朝歩くよりは長く、昼歩くよりは短い。大きな音を立てて幾らかのオートバイが傍を走り去った。

考えてもみると、コンビニエンスストアというところは全ての人にとって通過点に過ぎないのだろう。人はきっと、コンビニにたどり着く前か、コンビニから出た後に死ぬのだから。そしてその事実はコンビニをコンビニとして特徴付けるに足る唯一のものかもしれない。

店を出れば、今が冬であることを思い出す。暖かくて明るい店内は冬をより強固で冷酷で無機質なものにしているのかもしれない。暖かな部屋さえなければ、冬などそもそもありえないのかもしれない

道に立つ信号機は驚くほどに迎合主義的だ。それらは寸分違わぬ速さで全く同時に赤黄緑と色を変える。それは丁度、社会に生きる私たちのようだ。

学部の入り口には大きな振り子が揺れている。そしてそれは地球の自転によるものらしい。私が眠っていようが起きていようが、何かを考えていようがいまいが、地球はいつも同じ速さで回るのだ。ピサの斜塔から鉄球が落ちた時も、木からリンゴが落ちた時も。

また私の体は研究室にもどってくる。精神はまだ、いつか見た猫を追いかけたままだが。
空が白み始めるまでに、まだいくつかやり残したことがある。
私の書く言葉が、散らばりすぎる前に散歩を終えることにしよう。

『夜のノビ・ノビタ3』(17/05/27)

眠れない夜である。眠れない夜には言葉が溢れてくる。言葉は常に私の中を流れていく、それはまるで未踏の山奥の小川のようであり、もしくは嵐の後の運河のようでもある。日々言葉は私の体を貫き、そしてまた誰かの体を貫いてゆく。
それでも、山奥の小川に留まる石があるように、運河の流れに浮かぶひと葉があるように、言葉は体内に住処を求めたりする。
ある時、溜った言葉たちは口火を切って溢れ出してくるのだ、そしてそれは決まって今日のような静かな夜のことである。
そんな流れることのできなかった言葉たちの供養のために少しだけ散歩をしようと思う。

散歩が常にスニーカーやブーツと共にあるかというと決してそうではない。この世界が空間からできているのと同様に時間もこの世界の一部を成している。もちろん時間の旅は空間ほど自由ではないのだけど、その代わりに目を閉じてゆっくりと呼吸すればいつだって過去にゆくことができる。今日は時間の散歩をしよう。

"時々会いたくなる、でも多分もう会うことはない人の数"、というのはともすれば人生の深さを決める尺度の1つかもしれない。私にもそういう人が幾らかいて、時には彼らとの思い出を夢想したりする。彼らは常にそこにいて、また過去と現在の間に横たわる時間のぶんだけ遠い存在である。距離が増すにつれ、彼らの輪郭はずっとボヤけていって、しまいにはもう殆ど全てを思い出せなくなるのだけど、ただその声だけはいつまでも耳に残っているような気がする。

初恋をどう定義するのか、私は知らない。きっとそれは幸福の定義と同様に一人ひとりに与えられた自由なのだろう。とすれば、私にだって初恋と呼べるそれがある。年上の彼女のどこに惚れたのか今となっては全くわからないが、何かキラキラした柔らかい質感の感情として、今でも心の奥深くに残っている。その質感こそが初恋の唯一つの定義かもしれない。

親友というのはまだ幾らかシンプルに思える。そしてそれは初恋と同様、別れてずっと後になってからそう呼べる存在なのかもしれない。ボールを追いかける私を鳥瞰する私が初めて隣でボールを追いかける彼に気付くのかもしれない。今、彼がどこで何をしているのか、私にはわからないけれど、彼が私と同じようにボールを追いかける私たちを眺めているなら素晴らしいなと思う。

思い出の中の人が、みんないい人だという考え方は恐らく間違いで、むしろ私の心に深く傷をつけた人や、逆に私が無慈悲に心を抉った相手の方が多いだろう。その傷跡の血が止まり、かさぶたができて、うぶ毛が生えてくることこそ、ヒトが数十年生きる意味だろうと思ったりする。8年前、私の奥深くについた傷にやっとうぶ毛が生えてきた頃だろうか。

時の散歩道は未舗装だ。道幅は狭く、段差や砂利だらけで落とし穴があったりする。それでも私が時々道を歩くのは、あの頃見逃した野花を見つけたり、ふとした拍子に過去の私に出会えるからだ。

目を開ける。高村光太郎の言うように、そこに道はない。人は常に道を作る。時は否応なくそれを強いるし、我々は歯向かう術を知らない。それはある意味不条理だが、また他方、好機かもしれない。

過去の散歩はこのくらいにして、時の道をゆくことにしよう、いつかまた未来の私が帰って来られるように。

『夜のノビ・ノビタ4』(18/04/23)

少し、ほんの少し空が白んで空気は飛び切り冷たくなる。この時間が一般的に夜と呼ばれるのか、朝と呼ばれるのか、私は知らないし、その判断はきっと、その人の人生のある側面を切り出している

曖昧な午前4時。今日の私にとってそれは紛れもなく昨日のつづきであり、明日へのモラトリアムである。
少しだけ散歩することにしよう。こちらから朝を迎えに行くための散歩。この長い夜から抜け出すための散歩。

私自身の"アルゴリズム"を解明したい、という考えがアタマのどこかにあって、折に触れて(本当に何気ないときに)ふっと過ったりする。

現象と感情のアルゴリズム。

我々は五感を頼りに生きている。そしてそれらは常に莫大な(そして矮小な)情報を私の中に流し込んでくる。陽の光や風の音、カレーうどんの味だって全部、1個の現象として身体の中に流し込んでくるのだ。
身体の中には、流し込まれたたくさんの情報を複雑な感情へと昇華させるアルゴリズムが存在していて、それは偶にあるエラーを除けば大抵の場合、インプットされた現象からある感情をアウトプットする。もちろんその営みには有限の時間幅が存在するのだけど、人間の目からすればそれらはほとんどの場合、瞬時に行われる。

しかし時々、いくらたっても感情を吐き出さないインプットもある。それは同じところを何度もなんどもグルグルと回り、時には私自身の電池が切れるまでとどまることがない。
ある人にとってそれは歓喜であるし、ある人にとってそれは後悔かもしれない。とにかくその"厄介なインプット"は際限なく私の中を回り続ける。

グルグルと回り続けたアルゴリズムも、いつか忘れたくらいに、スッと何かを吐き出すことがある。それはまるで長い夜の後に訪れるほんのりとした夜明け方のようだ。
そしてこう思う、"きっと迷宮から抜け出たこの感情は偶然のものではないのだ"と。"きっと抜け出るためにアルゴリズムは書き換えられたのだ"と。そして、人はそれを成長と呼ぶのだと。
そういう瞬間に、私は私について、その断片を垣間見ることができたのだと感じる。私というブラックボックスが一瞬だけ片目を開くのだ。
もしかすると人生は、自分自身のアルゴリズムと向き合うための時間なのかもしれない。

新聞配達のバイクの音がする。どこかで朝ガラスが鳴いている。ヒンヤリと冷たい空に夜明けの光が射す。連続した長い夜は終わった。グルグルと回る迷走の時間は終わった。散歩も終えることにしよう。またすぐにやってくる現象の波に飲まれないように。

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