『氷』(着想)

綺麗にカットされた氷が、ロックグラスにカランっと音を立てて落ちる。そこへ少量のウイスキーが注がれる。フィディックの12年。これはウイスキーの中に浮かぶ氷が、溶けきる前に終わる話だ。

僕はバーにいた。僕はそこで、ある別れを迎えた。それはとてもさっぱりとしたものだった。別れのキスも、別れの言葉も、別れたその相手すらそこにはいない、まるで全部が幻のような別れだ。僕はそこで、ある別れを迎えた。

彼女と出会った時、それも確かバーだった。薄暗い空間には心地よいボサノヴァが流れていた。僕はやはりウイスキーを飲んでいた。彼女は何を飲んでいただろう?その時の記憶を、僕はもうほとんど持ち合わせていない。今あるのは、その時の彼女の声と、淡い輪郭と、それからピートの効いたウイスキーの味だけだ。
僕らはおそらく、その日のうちに寝た。おそらくと言うのは、僕がその事実に、つまり彼女と出会ったという事実に、完全に気がついたのは翌朝になってからだったからだ。
僕は僕の部屋にいる異形の生き物を見つけて、驚き、それから酒の味がする吐き気を催した。それが驚愕から来たものなのか、もしくは単なる二日酔いによるものなのかは、今でもわからない。
それから僕らは、つまり僕と彼女は、時々会うようになった。理由はない。会うことに理由が必要なのは、現代人だけだ。だからと言って、別段ロマンティックな何かがあるわけでもなかった。僕らはただ家の近くを散歩して、それから少しだけお酒を飲んで、時々は寝て、また時々はそのまま解散した。その時僕らが何を夢中で話したのか、互いに何を求めあったのか、もはや今は何もわからない。ただ覚えているのは、散歩の途中に通りかかったネコのシルエットや、夜空を切る飛行機の音や、延々と並ぶテールランプで、重要と思われるようなことは、一切なかったようにも思う。
また僕らは、酒をよく飲んだ。初めて出会ったバーで、僕の家で、もしくは公園で。あらゆる酒をあらゆる方法で飲んだ。しかしやはり、そこにも特段の意味は見つけられない。そもそも、この世界に起こることに、意味を見出すという方が、いくらかエゴイスティックなのだ。

別れは突然にやってきた。グラスの中でゆっくりと溶ける氷が、ある瞬間にカランっと音を立てるように。発熱した導線が、パチンっと切れるように。
しかし、出会いがそうであったように、別れにも特別な意味などなかった。氷は自然に溶け、導線は自然に切れる。それと同じように、僕らは出会い、歩いて、それから別れた。付け加えるなら、そこに小気味良い音はなかったし、ひとたびの驚きもなかった。

グラスの中の氷が溶けている。鋭い刃先で綺麗にカットされたそれは、輪郭をおぼろげにして、ウイスキーに混ざろうとしている。これはウイスキーに浮かぶ氷が、溶けきる前に終わる話だ。

彼女には決まった恋人がいた。それから僕にも、ある定った相手がいた。しかし先に言っておくと、それは別れの意味にはならない。世間体に照らせば、僕らの関係は特異なもの、さらに言えば背徳的なものだったかもしれないが、当の本人である僕と、それからおそらく彼女には、そういう感覚はなかった。そもそも、関係に名前をつける方が難しいのだ。だから名付けられた関係を縛ることは、もっと難しい。
彼女がその恋人と、どんな関係であったのか僕は知らない。覚えていないのではなく、知らないのだ。彼女はそういうことについて語ろうとしなかったし、僕も尋ねることはなかった。反対に、僕の方も、自分の色々を彼女に告げることはなかったし、彼女も別に気にしているそぶりはなかった。僕らは定った相手を持ちながら、それでもなお夜を散歩して、ネコを見つけ、飛行機を聞き、酒を飲んだ。不道徳なのかもしれない。もちろん僕は、それに反駁する方法を知らないし、そういう論理を持ち合わせてもいない。

グラスの中の氷が、カランっと音を立てた。そろそろ終わりの時が来る。

別れは突然に訪れた。何があったというわけでもない。何か特別な、まるで世界の終わりみたいな、音楽が流れたわけではないし、誰かに肩を叩かれたわけでもない。
けれど、僕はどうしてか、それが別れであることがわかった。まるで初めて固形物を咀嚼するような、泥団子を握りつぶすような、確かな感覚があった。綾の腕に、脚に、身体全体に、まごうことのない感覚があった。

氷が溶けた。加水されたフィディックは甘みを増し、ほとんど黄色いジュースのようになっている。
話は突然に終わる。僕が飽きたから?違う。氷が溶けたからだ。氷は溶け、水になり、ウイスキーと溶け合い、僕はもう、そこにあった氷をそれとして認識できなくなった。
それはまるで、雑踏に消えた彼女のように。

これはウイスキーの中に浮かぶ氷が、溶けきる前に終わる話だ。

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