ゆっくりと死ぬこと(24/05/15)

白色も黄色も黒も、切ったら赤い液体が飛び出すことを、僕は知っている。どんなに鍛えようが太ろうが、愛されようが憎まれようが、焼いた後には骨しか残らないことを、僕は知っている。

普遍生物学という思想がある。初出は小松左京のSFらしいが、つまり、どんな世界でも星でも、生物に共通の法則を持つという思想だ。
統一的な思想は、シンプルでなければならない。だからきっと、人間の本質も、とてもシンプルなのではないかと思う。
なのに、なのにだ。思い出せないくらいたくさんの、忘れられない記憶たちが確かにあって、それは全然骨壷には収まらず、また語ろうにも、今夜一晩では足りない。
そう、とてもシンプルな話だ。代謝機能を持ったシステムが、それをやめたというだけの、とてもシンプルな話だ。それを知ってなお、次々と思い起こされる過去たちを、僕は睨んでさえいる。焼いたら皮も骨も、それから思い出も、全部灰になって仕舞えばいいとすら、思っている。

確かにそこにいたシステムが、その動作をやめたとき、死は始まる。チャンドラーは「忘れることは、ちょっと死ぬことだ」と書いた。肉体の死は、本当に死んでしまうことの(つまり完璧に忘れてしまうことの)、スタート地点なのかもしれない。

感情的になってはいけない。物事はシンプルなのだから。悲観的になってはいけない。悲観的になれば、思い出される全てが、まるで悲劇のための伏線であったように振る舞うからだ。出来事の全ては、決して悲劇のためのものではない。または、この悲しみがなんらかの喜劇であるのかもしれないとさえ思う。

しかし、しかし今夜くらいは、静かに眠りこける故人にも、酒を注ぐ寸劇を、自分に許してやろうと思う。ゆっくりと死ぬ、そのスタートに乾杯して。ゆっくりと死ぬ、そのペースが無限に遅くなることを祈って。

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