ごうごうと風が吹いて目はふたつあって(23/09/21)

ごうごうと風が吹いて、ざあざあと雨が降っている。僕は、目が一つならいいのにと思っている。

「目が口ほどにものを言う」なら、口はもういらないんじゃないかと、ある小説を読んでいて思った。僕らは二つある目で世界を見て、それから一つしかない口で物事を語ろうとする。だから、いつも足りない。いくら頑張っても、どんな素晴らしい言葉を尽くしても、見たもの全てを、感じたこと全てを語ることはできないし、どころか、そのほとんどはスッと背後に抜けていってしまう。
ほんとうは伝えたいことが山ほどあるのに、それを上手く言葉にできないもどかしさが、まるで土砂降りの中を走って重たくなったTシャツのように、からだ中にまとわりついている。

もし音楽ができたならどんなにかマシになるだろうと思うことがある。もし詩をかけたならどんなにか軽くなるだろうかと思うことがある。適切な言葉を、適切な方法によって、適切な身分で語りうることができれば、鬱蒼とした心が晴れるのではないかと、そんなふうに思っている。しかし、それはならない。叶わないことはいつまでも決して、叶わないのだ。

ごうごうと吹く風は、ますますいきおいを増す。窓ガラスを突き破ろうとする。雨はそれに伴って、バチバチと音を立てる。僕は、目が一つならいいのにと思っている。

目が一つなら、僕は見たもの全てを、感じたこと全てを、ちゃんと、1.00倍で伝えることができるだろうか。半分の情報だけを受け取れば、口はそれをまっすぐに過不足なく言葉にできるだろうか。
もしくは、口が二つあれば、僕は何を語るだろう。同じ気持ちを二つの口で、そう、まるでステレオサウンドのように語るのだろうか。それとも、全然反対の気持ちを、好きと嫌いとか楽しいと悲しいとか、まったく反対の気持ちを、それぞれの口から発するのだろうか。もしそうなら、ほんとうの僕はどちら側なのだろう。

ごうごうと吹いていた風は少しだけ弱くなる。そのぶん、雨の音は定常波のように小気味よくそこいらを打つ。遠くで長いクラクションがなる。僕の顔には、目が二つと、口が一つついている。

いつも言葉は足りない。それに、すぐに間違える。しかも言葉には姿がなくて、だから、それがどう作用したかを確認することも、消去することもできない。場合によっては即座に見えなくなり、または永遠にそこに滞留する。いつだって言葉は、どこか足りない。

僕はこの風を、雨を表す言葉を想像した。ごうごう、ざあざあと今まさに目に訴う自然現象を、適切に表す言葉を脳裏で探索した。

形容し難き風雨が鳴り止まない。ごうごうと、ざあざあと。

僕の顔には、目が二つと、それから口が一つ付いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?