しおりを挟む(23/09/19)

しおりに意味はない。意味のないものだけが、僕らの今を証明する。

空港に着いてベルトコンベアの前で、手荷物が流れてくるのを待つ時、ふと目の前の広告が目に入った。アウトドア用品の会社だろうか、どこかの山の草原みたいなところで、テントが張られている。テントの近くには男が座っていて、足元には焚き火が組まれている。広告には簡単なキャッチコピーと、社名が印字されていた。
ベルトコンベアが荷物を吐き出し始めた。周囲でそれを待つ人が少しだけ緊張するのを感じる。時刻は20時半を少し過ぎていた。僕は自分の荷物が流れてこないか注意深く観察しながら、どうしてか、昔訪れたある山道を思い出していた。

その山は、大した高さではなかった。だから登山というよりはハイキングで、運動というよりは散歩といった心持ちだった。
異変を感じたのは険しい方のルートを選んだせいでひとけがめっきり減って、少ししてからだった。さっきまで歩いていた道だと思っていたルートは次第にその姿を獣のそれへと変化させ、ついには、道と断定できぬほどになってしまった。携帯は圏外で、目立つ目印もない。まだ日が高くあることだけは救いだったが、急に、突然に、心細くなってしまった。山は恐ろしいほど静まり返っていて、降り注ぐ太陽と、振り返った背後の道だけが、この場所がさっきまでいた世界と同じであることを証明していた。
僕は時計を見て、それからカバンの水を確かめてから、それを少し飲んだ。喉の渇きが癒えてくると、さっきまでの不安感は少しずつ解消され、脳は冷静さを取り戻してくる。引き返すべきか、または進むべきか。いずれにせよ、まずはここにいた印を残そう。僕は眼前に落ちていた枝を取って、それをいかにも人為的と見えるように折ってから、木の根元に突き刺した。しんと静まる空間に、枝の折れる音と、土をかく音だけが響いた。

荷物がベルトコンベアで運ばれてくると、まるでババ抜きのように荷物とペアになった人々が順番に出口へと去っていく。僕のスーツケースはまだ来ない。一抹の不安が走る。僕がペアのないジョーカーだったらどうしよう。しかしまだたくさんの乗客が荷物を待っている。大丈夫。僕は手元の手荷物受け取り証を確かめた。

旅先で待ち合わせ場所にやってきた友人は、僕が本に挟む搭乗券を見て、「私もチケットよくしおりにします」と言った。そういえば「映画の半券をしおりにすることある?」と聞かれたことがあったなと思い出す。しおり。考えてみれば不思議だ。すでに読んだ部分とまだ読んでいない部分、つまり、物語の過去と未来を切り分けるためのもの。それなのに、しおりそれ自体は何だっていいのだから。搭乗券でもレシートでも本の帯でも映画の半券でも、何でもいい。意味のないものが、過去と未来を切って分けて、現在を規定する。

荷物はまだやってこない。チェックインが早かったせいか、奥の方に押し込まれてしまったのだろうか。次第に人はまばらになる。いよいよ不安が募ってくる。僕はこういう類の不安が苦手だ。自分では解消しようがない。ともかく待つしかないのだ。受け取り証にジワリと汗が滲む。

「しおり」という言葉は「しおる」という動詞からきている。「しおる」とは、山道などで目印のために枝などを立てることだ。それが転じて本のしおりとなり、または目印の意味から旅のしおりとなった。

僕らは過去と未来の間で、いつも不安に苛まれている。意味のないような今を生きながら、どうしようもない不安に苛まれている。あの山道の太陽の下で、もしくは夜の空港のベルトコンベアの前で感じるような小さな不安を抱き続けている。それは小さい割に、筆舌しがたく、それでいて贖いがたい。
しかし一方で、そうした意味のない今だけが、過去と未来をちゃんと切り分けている。ここに感じ入る意味なさげな不安やたくさんの感情だけが、流れ続ける物語の中で、自分という存在を定め続けている。しおりだ。僕らはここに、今というしおりを刻み込んでいる。

ようやく僕は自分の荷物を見つけた。それはちゃんと預けた時のままの形で目の前に流れてきた。さっきまでの不安は、ぱっとどこかへ去ってゆく。手元の受け取り証はもう必要のないものとなる。またどこかの本に挟まるのだろうか。

空港に刻み込んだしおりを抜いて、僕は帰路についた。生暖かく湿度の高い夜に、背後で飛行機の飛び立つ音が聞こえた。

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