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ベランダから広がる地球 〜太公望 濱田健吾 前編

はじめに
この度ご紹介するのは濱田 健吾さんです。
世界的な問題となっている、食糧問題に日本の湘南から向き合い、解決すべく、今世界中が注目する農法・アクアポニックスの試験農場である、湘南アクポニ農場を営む彼。その優しさの奥にある情熱がどこから湧き出てくるのか、半生を聴く中で見えてきたお話をまとめました。
長文になりますが最後まで読み終えたとき、きっとみなさんの心にもその優しく熱い想いが沁み渡るはず。ぜひお付き合いください。

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濱田健吾

ベランダから広がる地球〜太公望 濱田 健吾
目次
【前編】
序章
1章 小さな太公望
2章 現実の打開案
3章 オーストラリア
4章 にわとりプロジェクト
5章 マイノリティ

【後編】
6章 再び宮崎
7章 妻
8章 東京での生活
9章 太公望とベランダの地球
10章 魚と畑の未来を見つめて
あとがき

序章

 自宅のベランダ、濱田の目の前には間違いなく小さな地球がそこにあった。偶然インターネットで見つけたアクアポニックス農法。その面白さに興味が湧き、ありあわせのプランターを使って、自ら作った小さなアクアポニックス菜園には、水槽の中では魚が生活を営み、その水を汲み上げた先ではバクテリアが生き、バクテリアが分解し排出した水を送り、それを植物が栄養にして成長し、植物が余分なものを取り除いて綺麗になった水を、また魚たちに送るという循環、生態系がそこにあった。
「これはぜひ子どもたちに見せたい!」
そう考えた彼は、近所の幼稚園に同じアクアポニックスの装置を作った。すると、子どもたち以上に母親たちが感動し、口々に「これはすごい!」「家にもほしい!」と絶賛した。
この経験が彼の大きな転機となる。

 釣りが好きな人のことを日本では「太公望」と呼ぶ。
「私は魚を相手にしているのではなく、天下を釣っているのです。」
紀元前中国の名軍師・太公望は、渭水に釣り糸を垂らしながら言ったというその言葉のとおり、後に周の繁栄に大きく貢献し、その後世界中に広がった兵法「三略」を残した。
 革新的な農水産法であるアクアポニックスを世界へ広めるべく邁進する、日本人 濱田健吾 もまた、太公望と同じく釣りを愛し、その糸の先にいつか来る、農業の新たなステージを静かに見据え、その時にむけて虎視眈々と準備を整えている。

1章 小さな太公望

 幼い頃から釣りが好きだった。宮崎県の山間部にある小林市に生まれた濱田少年は、おじいちゃんに連れられ、よく近くの山に遊びに行った。キノコや山菜、渓流に緑、山には少年の好奇心をかき立てる恵がてんこ盛りだった。中でもハマったのがコイ釣り。小学校3年生のころにおじいちゃんが亡くなっても、その山や釣りの記憶は彼の中に鮮明に残り、気づけばどんどん釣りの世界に魅了されていく。
 日本の小学生男子にとって最強の移動手段といえば自転車。それさえあればどこまでだっていける気がする、なんとも素晴らしいアイテムを手に入れた濱田少年もまた、例にもれず釣りをするためどこまでも走った。コイ釣りの次にハマったのがバス釣りで、体力が付くにつれ気づけば15km離れた釣り場まで、暇さえあれば釣り竿を持って、友人と自転車で通い、ただひたすらに糸を垂らすという日々を過ごした。

 彼を太公望と呼ぶ所以は、釣り好きだからという理由だけではない。なんといっても“待つ“こと自体を楽しむことができる性質こそがそれだと感じる。というのも、濱田少年が中学1年生の頃、釣り人生の中で最も長いスランプに陥る。1年間一匹たりとも釣れなくなったのだ。周りの友人はちらほら釣れているので、魚がいなくなったというわけでもないのに、何故か自分の竿先だけはびくともしない。ルアーを変え、針を変え、投げ方、引き方、思いつく限りのことを片っぱしから試してみた。なのに釣れない。ここまでくると、落ち込んだり、やめてしまおうかと考えてもおかしくないだろう。しかし、少年はただ黙々と、くる日もくる日も糸を垂らし続けた。
 1年が経つ頃、釣り好きの友人から今まで家から通っていた釣り場と反対方向に15kmいった、違う釣り場が釣れるらしいと聞きつけた。それを聞いたスランプ中の濱田少年は、試しに一度行ってみようかと、なんとなく場所を変えることを承諾した。家からまた15km、少し違う風景の中、自転車を一心に漕ぎ、違う釣り場にいつものように糸を垂らす。と、途端に竿がしなった。バスが釣れたのだ。続け様に2匹も釣れた。
「『わぁ!釣れた!』って感じでしたよ。そこで気付いたんですけど、そういや釣り場変えてなかったんですよね。あぁ、場所変えればよかったんだって。」と濱田さんはカラリと笑い当時をふりかる。

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2章 現実の打開案

 成長してもとにかく釣りが好きだった。高校2年の進路相談の3者面談では、
「将来はバス釣りのプロ、バスプロになりたい!」と先生や母に意思表明をしたりした。大好きなことを仕事にしたいと、本気だった。
その壮大な夢に呆気に取られた大人たち。母は怒りもせず、ただキョトンと
「この子は何言ってるの?」と口走り、
先生は「それはお前もう大学に進学する必要がないんじゃないか?」と真面目に答えた。
 大学に進学後も、バスプロへの夢のために英語を専攻した。バスプロの本場アメリカで夢に挑戦したかった。とにかくアメリカで釣りがしたかった。しかし、現実はそう甘くなかった。本格的に調べてみて分かったのが、その留学費用の高さだった。バスプロとして稼げるようになったとしても、それまでに膨れ上がっていく学費や生活費。その奥にある両親の生活を思った。
お金という、なんとも容赦のない現実を前に、彼は両親に告げることなく、心秘かにバスプロへの道を断念した。

 ここからの展開が、諦めない根気強さと、疑問に対する素直さ、そしてそれに由来する選択の柔軟性を兼ね備えた、なんとも濱田らしい進み方のように感じる。
 夢を諦めても、海外への思いは消えなかった。大学1年生で1ヶ月間海外でのホームステイをきっかけに、海外で暮らしてみたいという気持ちはどんどん膨らみ続けた。大学3年の時、素直に先生に打ち明けた。
「留学したいけど、費用が高すぎていけない。」
きっとこの真っ直ぐな学生の悩みに、先生は教育者としての心を揺さぶられたのかもしれない。
数日後、「濱田、こんなのあるよ。」と、資料を渡してくれた。わざわざ調べてくれていた様子だった。
オーストラリアの小学校で、日本語教師のボランティアをするというプログラムの内容は、教師としての給料は出ない代わりに、ホームステイなどの費用はかからず、1年間でかかる費用は約150万円ほどだった。当時の大学留学の相場に対して破格の安さだった。
「オーストラリアってブラックバスはあまりいないけど、英語は学べるから行ってみようかと思ったんですよね。釣りが起点になって、海外に興味を持ち、英語を学ぶようになった。日本語さえ喋れればいいというゆるい募集条件も良かったんですけどね。」と当時を振り返り濱田は笑った。

3章 オーストラリア

 オーストラリア生活1年目、濱田が日本語教師を務めることになった小学校は、シェパートン(Shepparton)という、メルボルンから180kmほど、人口約5200人ほどの街にあった。全校生徒は400人ほどで、みるみる内に教えることが楽しくなり、あっという間に1年がすぎた。日本語教師のプログラムの期間が1年だったので、帰らなければならない。だけど、もう少しここにいたいと考えた濱田は、また素直にその小学校の校長先生に相談した。
「楽しくなりすぎたので、帰りたくないんです。」
その真っ直ぐな思いに、校長先生もまた心を動かされたのか、
「だったら、自分で仕事は探してみたらどうだろう?」と提案してくれた。
「そんなことできるんですか?」と濱田
「うん、たぶん出来ると思う。」
それからは近くの小学校に片っぱしから電話をし、給料はいらないから、日本語教師として働かせてほしいと頼みまくった。するとある小さな小学校が「いいよ」と返事をしてくれた。オーストラリア生活2年目が確定した瞬間だった。

「行ったら行ったで、だから呼んだのか!と納得した。」と彼が話す2校目の小学校は、デューキー(Dookie)というメルボルンから内陸に向かって230kmほどに位置し、周りに商業施設などはなく、牛乳を買うのに高速で20分ドライブするという場所。人口は約300人ほどの小さな村にあった。延々と続く広大な原っぱの中にポツンと立っていて、全校生徒8人と教師は校長先生1人の小さな小学校。そこで濱田に求められた役割は日本語教師としての職務以上に、山のようにある学校の雑多な業務を淡々とこなす、はっきりいうと「雑用」をしてくれる人がほしかったと言ったほうが適切だった。体育教師にパソコン教師、学校の掃除や補修、冬には毎日薪割りと小枝拾い、出来ることはなんでもやった。

4章 にわとりプロジェクト

 そんな雑用の中で印象に残っている仕事が「にわとりプロジェクト」。
 当時学校の敷地内にある古屋に住んでいた。そもそも人見知りな彼は、はじめなかなか村人の輪に入っていけなかった。特に周りと話すこともなく、ただ淡々と仕事をこなしていく。そんな彼を不憫に思ったからかは定かではないが、ある日校長先生があるプロジェクトの手伝いを彼に依頼した。
「今度にわとりプロジェクトをやるから、濱田くんよろしくね。」
唐突もなくやってきたそのプロジェクトの内容は、生徒たちが農家で1人1羽ずつひよこを分けてもらい名前をつけ、それを学校で育てながら、観察日記をつけるといったものだった。
「じゃあ、まずはにわとり小屋から作ってね。」
え!?そこから!?と言いたい思いをグッと堪え、彼はまた淡々と仕事をこなしていった。
校長先生の鶴の一声で、あっという間に村中からお父さんたちがにわとり小屋作りを手伝うために集まった。同じ目標のために、共に汗をかき、作業を進めていく。すると自然と会話が生まれ、どんどん仲良くなっていった。
 ニワトリもすくすく育ち、愛着も湧いてきた頃、ある問題が発生する。夜中にキツネがやってくるようになったのだ。まるでビクトリア・ポッターのピーターラビットのお話なら、きっとこづるくも愛嬌のある狐を、知恵を振り絞ったにわとりたちが上手にかわし難を逃れるのだろうが、現実はもっと残酷だった。キツネたちは穴を堀り、小屋の中に侵入すると、食べるわけでもなく1羽ずつニワトリを殺し、夜があける前に去っていく。
 大事に育てたにわとりの死を、子どもたちはこれでもかと言うほど嘆く。大号泣し授業にならない。これは大変だと濱田はせっせと小屋の周りに大きな石を積みニワトリ小屋の守りを強くする。すると大喜びした子どもたちは、我らがヒーローの武勇伝を家に帰って親たちに話す。子供たちの笑顔を守ってくれたヒーローの努力に報いようと、父親たちも立ち上がる。
 濱田の住む古屋は、だだっ広い野原の真ん中の学校の敷地の端にある、小さな古屋だった。と言うのは先ほどもお伝えしたのだが、ある夜、この古屋に異変が起こる。夜にもなると、野原全体を静寂が包み込む。そんな中、遠くの方から低く重い大きなエンジン音がどんどん近づいてくる。古屋は小さく、どこかしら傷んでいたので、その重低音にビリビリと震えた。
「なんだろう?なんかきたな。」そう思っている家に、ドンドンドン!とドアを拳で叩く音がした。何事かと思いながら、訝しげに戸を開けると、そこには大きなピックアップトラックに乗ってやってきた生徒のお父さんたちが立っていた。片手にはライフルを持っている。
まさか!?と思った彼。あっという間に手の中にはじわりと汗が滲むのを感じた。呆気に取られた濱田が口を開くより前に、お父さんが話す。
「おい!一緒にキツネ退治に行くぞ!!」
内心"ひえー"と慄きつつ、サーチライトを煌々とたくピックアップトラックに濱田も乗り込み、着いていく。ついていっただけで、撃つことはしなかった。初めて聞く銃声はやはり恐ろしかった。1匹の狐を退治し、この日の狩は終了した。と思ったが、ここからまだ作業は続く。撃ち取ったキツネは小屋の周りに吊るすと、キツネが怖がって来なくなるからと、みんなで小屋の周りに吊るした。なんとも猟奇的で、なかなか衝撃的な体験となったが、不思議なもので人というのは印象的な体験を共にすると仲が良くなる。このお父さんとの体験から徐々に仲のいい人は増えていき、また彼の誠実な人柄が「あそこにいる日本人はいい奴だ!子供のためになんでも手伝ってくれる!」といういい噂が流れ始め、次第に村の人たちとの距離が縮まっていった。初めは野菜をくれたり、週末2日間のお泊まりから生徒宅でのホームステイも、徐々に2週間、1ヶ月と期間が伸びていき、最終的には2ヶ月ずついろいろな生徒の家で暮らすようになった。

5章 マイノリティ

 いろいろな家族と暮らす内、どの家庭でも隠しきれない家族観が見えてきた。小さな村とはいえ、家庭の中は千差万別で、きょうだいがたくさんいる家もあれば、親1人子1人の家庭もある。ただどの家庭にも共通していたのが、暖かく幸せな家族の生活があった。そしてその幸せには、実はお金や収入は直結していないことを知った。裕福でも、貧乏でも、家族がいれば幸せなのだと感じた。
 暖かい人たちに囲まれたDookieでの生活は素晴らしく、あっという間に2年の月日が流れた。いよいよ帰らなければならない時がきた。ほんとうに帰りたくなかった。しかしボランティアで海外に滞在するための資金も底をついてしまい、泣く泣く別れを決断した。文字通り涙の別れとなった。
 Dookieでの生活を通して濱田はもう一つ、人生において重要な価値観と出会う。それは自分がマイノリティという立場に立ったからこそ知り得たことだった。村に1人だけの日本人、1人だけのアジア人、言葉もあまり通じない。日本では立つことのなかったその立場。そこから見えたものは限りなく優しかった。
「あなたはあなた。わたしはわたし。違うのが当たり前。」
移民が多いオーストラリアならではなのかもしれない。原住民や多種多様な人種がいて、価値観や宗教観の違う人たちがいる国ならではなのか、相手の個性や考えををすっぽりそのまま受け入れ「あなたはそうなのね」と言ってくれる人々の中にいることが、とても心地よかった。
「自分がマイノリティの立場になることで、自分を押し付けず、他人の評価ではなく自分がどう感じるかを大事に出来るようになったんですよね。これは日本にいたころの僕には絶対にわからなかったことだと思うんです。」と濱田は話す。

後編は
6章 再び宮崎
7章 妻
8章 東京での生活
9章 太公望とベランダの地球
10章 魚と畑の未来を見つめて
あとがき

をお届けします

interviewer:masaki
writer:hiloco Nakamatsu

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