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慧眼の士 〜Sandy砂子貴紀 エピソード3

初めに
この度ご紹介するのはSandyこと砂子貴紀さんです。
3社を経営する傍ら、経営者専門のプロコーチ・複数社の経営顧問としても活躍している彼。普段表舞台にあまり顔を出さない彼の半生を、今回特別に聴かせていただくことができました。友であり、ひとりの男として、父として、仕事人として、尊敬する彼の半生を知り得たことは僕の財産になりました。この記事を通して少しでも皆さまに彼の愛情をお伝えできると嬉しいです。長文になりますがお付き合いよろしくお願いします。

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Sandy砂子貴紀

慧眼の士〜Sandy砂子貴紀

目次
エピソード1
1.序章
2.少年Sandy「市場」をゆく 
3.少年Sandy 「スポーツマン」になる 
4.少年Sandy 「バスケットボール部」に入る 
5.スポーツマンSandyの挫折 
6.Sandyと優子 


エピソード2 
7.Sandy 大学に行く 
8.Sandy人のために生きる 
9.Sandy就職活動をする 
10.Sandyフレックスマンになる 


エピソード3
11.Sandyプロセールスマンになる 
12.Sandyチームを作る 
13.Sandy支社を作る
14.最重要をみつめて 
15.世界を翔る組織づくり 
16.あとがき 

11.Sandyプロセールスマンになる

 プルデンシャルに入社して数ヶ月は本当にキツかった。業界特有の洗礼を受け、営業もうまくいかず、夜も眠れず、24歳の大の男が職場でメソメソ泣いた。周りも来る場所を間違えたのだろうと、哀れみの籠った目で遠巻きに見守っていた。すると憧れた支社長に呼び出される。
「お前、なんで泣いてんだ。」という問いに、あーだこーだとぼやいたところ、
「お前のその涙はどっちの涙だ?お前の苦しみとか悲しみとかのための涙か?それとも人様のために貢献できたことが嬉しくて流している、喜びに満ちた涙か?どっちだ?」
答えはもちろん前者である。
「自分か、それとも世の中か、どっちにベクトルを向けるのがお前の理想なんだ。」
その問いを受けた瞬間、明確に涙は止まった。世の中に貢献して、嬉し涙を流したいと思った。
そこからスイッチが入った。まず自分の弱さや、欠点を洗い出し認めた。そして、押し付けで売るのではなく、本質を考え、お客様のために保険が何をできるかを真剣に考え始めた。すると不思議とうまくいくようになった。
 結果が出ると自ずと自信がつく。気づけば初年度全国同期50人中2位になっていた。この頃から当時憧れていた支社長の「我以外皆師也。私以外の人はみんな先生だ」という言葉が、彼の教訓となった。
 その後、所長としてマネジメントする立場に立ってくれないかという誘いが何度もあった。自分のプレイヤーとしての成長に「こんなものかな」と半端な納得と理由づけをして、逃げる選択肢のように感じてしまい、その誘いを断り続けて、気づけば入社から5年ほど立っていた頃、「支社長になるので、自分の直下の所長になってくれないか?」と当時最も尊敬していた所長から声がかかった。この頃には28歳という若さでトップセールスマンとなっていたことや、社内の支社をまたいだ横断プロジェクトに抜擢されたり、彼自身が納得できるだけの経験と実績が積み上がっていた。そんな環境の中、登壇する機会や、25歳から自身が主催していた非営利型教育団体「我楽多塾」から、1人で目標を達成すること以上に、自分が関わることで人が成長する姿を見つめることが嬉しいと感じるようになっていた。その感覚を社内でも感じたいと考えるようになっていた。マネージャーとして、人の成長を支え、世界一幸せなチームをつくりたいと思った。
 おそらくプレイヤーとして1番脂が乗った状態。年齢的にも所長という立場はまだ先に延ばしても全く遅くない状況。それでも彼が営業としての第一線を退いて、管理という立場に立とうという考えの根底にあったのは、この最も尊敬する人の誘いを受けることが自分の男気だと感じたからだった。一流のセールスはお客様を1番に考え仕事をするのに対し、マネジメントはお客さまに加え、自分のメンバー、会社、3方向から評価をされる立場なので、バランス感覚や、人格など、多面的な能力が必要であると感じていた。そのせいか、彼が一流マネージャーだと感じるマネージャー陣は多面的に素敵だと感じる人たちであったことからか、いつか彼自身が達したいと思う人格がそこにあった。そのいつかを選ぶのに、これ以上のタイミングはないと考え、誘いから2時間後、誰にも相談することなく、答えた。
「あの時、お前の迷いのない決断があまりに嬉しくて、こっそり帰りの車で泣いたんだよね。」と、彼をマネジメントの世界に引き込んだ、当時の支社長は恥ずかしそうに後に話したという。

12.Sandyチームを作る

 組織を作るとき、こだわっていることがある。特技・特性・性格が違う、バラエティに富んだメンバー、でもその人たらしめる土台の部分はどこか似ている人を集めようと考えている。モデルは漫画ワンピースの「麦わらの海賊団」。その方がきっと面白いチームができると考えているからだ。ここで成果がとか結果がと言わないのが、結果は後からついてくると考える何とも彼らしい考え方である。
 そんな愛着を持ったメンバーたちなので、なんとか全員を成功させてあげたい。自信をつけてもらいたいと考えている。もちろん初めから上手くいったわけではない。自分以上に成果が出るメンバーがなかなか出なかった。そんな時、尊敬する支社長から言われた。
「マナゴはもっとマナゴを消した方がいいよ。」どういうことか分からずキョトンとしていると、自分のブースを見てみるように言われた。そこには自分がどうしたいかや、自分の夢、自分の表彰状など、至る所が自分で埋め尽くされていた。メンバーのための営業所ブースではなく、自分の自己顕示欲そのものがそこにはあった。気づいた時、あまりにもその指摘が図星で、悔しさと恥ずかしさと悲しさと、ネガティブな感情が押し寄せてきた。だが、素晴らしいチームをマネジメントしようとしている彼に、それに向けて前進するためのアドバイスをくれているのだからと、自分の中に湧いてきた自己否定のような感情はすぐさま手放した。
 やると決めると彼は最速でとことんやる。翌日にはそれら全てを外し、誰のブースか分からないほどまでにした。すると今度は空いた空間を埋めるように、チームのメンバーたちが、こぞって志や夢、チームの目標などの情報を、自ら発信する場になった。チームマネジメントをする中で、本当の意味でチームメンバーを大事にするための自身の中のギアチェンジができた気がした。結果的に所長として最後の年となった3年目、チームが最もいい成績を挙げた。その後、尊敬する上司の進言もあり、満を持して支社長となることを決める。そしてデジャブのように、自分が過去にしたのと同じく、「砂子さんが支社長になるのであれば、僕が所長をやりたい」と言ってくれる直属のメンバーが4人も現れてくれた。この時、かつて涙したという尊敬する支社長の気持ちを知ることとなった。

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13.Sandy支社を作る

 心機一転、東京に0から支社を作ることになった。営業職員0、事務職員は派遣社員1人という、何とも痺れる環境でのスタートを切った彼の支社は、半年で7人の営業を迎えた。多くて半年で3人増えればOKとされる環境で、この7人という採用の速さは驚異のスピードと数だった。このスピードの秘訣を聞くと、
「前例に囚われず、質にこだわった量をこなすだけそこに改善と気づきがあるから、早く量はこなした方がいい」と彼は話す。プライドなどそっちのけで、とにかく何度も行動することで、質を研ぎ澄ましていく。単純なことに思えるが、自分の感情をそこから切り離し、改善の余地を見つけるというのは、実は難しい。それを何度も繰り返し、訓練を重ねているからこそ、彼のスピード感と明確な判断が生まれるのかもしれない。
 支社長を務めていた2年間で、1番嬉しかったのは、マネージャーたちの成功だったという。自分を信じついてきてくれた仲間が、メンバーの成長を見つめ、苦難を乗り越え、共に喜ぶ姿がとても嬉しかった。その人のキャリアや人生を預かる立場になった時、自分の近しい人たちの幸せを、自分自身の幸せだと心から感じるようになっていた。


14.最重要をみつめて

 話は冒頭に戻る。父が病に倒れた。10万人に5人しか発症しないと言われるラムゼン・ハント症候群という神経性の病気だった。耳の中やその周囲に帯状疱疹ができ、激痛を伴うだけでなく、顔面神経麻痺や耳鳴り目眩が起こるという症状で、父の場合、顔の左半分が麻痺し、24時間続く激痛に加えめまいと耳鳴りが続き、運動・運転は愚か読書もテレビを見ることも、眠ることすらできなくなった。明るく聡明な父の病に苦しむ姿はかなりショックだった。できる限りのことをしたいと思い、月に数回は三重県に帰り、精神的なサポートをしたり、時間を見つけては父と、そして父を1番近くで支えている母の精神的なサポートをしようとほぼ毎日電話をした。自分のプライベートはそっちのけとなった。

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数ヶ月後、今度は妻が原因不明の激痛を伴う病を発症した。1番大切な人たちが次々に倒れる。これまでにない無力さや辛さを感じた。頭ではわかっていた「仕事が1番ではない」という価値観を思い知らされた。妻が倒れ、実家にも頼れない。仕事・家事・育児、全てが肩にかかっているこの時を振り返り、
「正直、今振り返ると精神的にも、肉体的にもキツかった。当時は何とかなっていたけど。」と彼はポツリポツリと話した。
 家で眠る時間もなかった。会社で仮眠を取る日が続いた。ひっそりと職場の支社長室のブラインドを閉じ、鍵を閉め、自分の机の影にヨガマットを敷いて、そこに体を横たえ仮眠をとる。ある時、疲労と眠気にぼんやりする頭の片隅で、改めて客観的に自分の状況をみる。比較的自由に動けるはずの立場、職種だったはずの自分の仕事だったが、その病に倒れた2人が心配するほどのハードワーク。週4〜5で整体に通うことを普通だと思っている自分も、十二分に体を酷使しているのではないかと感じた。このままではいけないという何かのサインのように感じた。
 休みを取ることにした。これまで自分を信じてくれた所長たちに現場を任せた。支社長Sandyの緊急事態を支えるべく、所長もメンバーも頑張ってくれる。そんな状況を見て、自分ができる必要な限りの教育はもうできていることに気づいた。そして、自分にとって最重要なものは何かを考えた。今最も大切で、自分を必要としてくれているもの、家族だった。支社という組織は、もう自分がいなくても今後も彼らが活躍し成長していってくれると思えた。これまで愛情を持って向き合ってきたお客様、育ててきたチーム、メンバーを手放す覚悟ができた。
 2月、世界旅行に行こうと妻を誘った。最愛の妻の輝く笑顔は、彼の宝物となり糧となった。
ワクワクする未来を前に、妻の体調がみるみる良くなっていった。そして4月末、大事な家族以外、全てを手放した男Sandyは、文字通り裸一貫、家族と一緒に世界へと旅立つ。

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15.世界を翔る組織づくり

 世界旅行の最終地点はLAだった。退職と世界一周の話を伝えた友人の1人が、「Be Yourself!」の著者であり、近藤麻理恵を世界のKonMariへとプロデュースした、川原卓巳氏だった。世界一周旅行の最終地点LA、そこで再会しようと約束した。
 世界に旅立つことを片手で足るだけの友人に話した。皆、新しい門出を喜び、祝福してくれた。
世界は最高だった。昨日の昼の出来事が先週の出来事じゃないかという感覚になるほど、毎日が濃厚な経験に溢れていた。時の流れが尊かった。
 最終地点 LAで川原卓巳と近藤麻理恵夫妻に再会をはたし、これからの人生について語り合った。話をしている中で、お互いに自然体でいられる関係がとても心地よかった。上下関係も損得関係もない。純粋に今後の互いのビジョンやミッションに対して、共鳴しあえる存在が尊かった。その中で正式にKonMari Media Japan CEOのオファーをもらった。断る理由がなかった。これまで関わってきた業界も培ってきた経験も違う。それでもピンとくるもの…まさに「ときめき」をそこに感じた。

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 チームKonMariを牽引する存在となって2年が経つ。コングロマリットという言葉の通り、人も組織もお互い関連性のない集合から形成された、この組織で過ごす日々は、これまでに過ごしてきた組織の中でも群を抜いて、その人の強みや弱みを生かせる環境であり、その環境づくりが必須だと考えている。一人一人がときめくとは何か、ときめくチームづくりとは何か、それらを考え続ける日々が、とても刺激的で、Sandyの性に合っている。
 チームKonMariという組織を作るにあたり、彼が話していた印象的なフレーズがある。
「クオリティーの高いサービスやコミュニケーションは、社員一人一人が求めるサービスレベルの高さと、それに対する個人個人の自覚と行動レベルが高いことだと考える。僕たちチームKonMariは高級ホテルでも、歴史がある会社でもない。何もこだわる必要はない。ただ、世界に通用していて、かつブームではなく文化にしていくコンテンツを扱っている我々が、低いレベルにいてはならない」
 思いもかけない事態に見舞われ、世界が目まぐるしく変革し誰もが何かしらの不安を抱えている昨今、彼Sandyこと砂子貴紀は、今日も静かにお茶を立て、まるで花の中の蜂のように自分の中に宿している熱い精神で、暮らしから日本や世界を「慧眼の眼差し」で見つめている。

16.あとがき

 まずはじめに長い文章に最後までお付き合いくださってほんとうにありがとうございます。
 「なんて濃厚な人生なのだろう。」Sandyさんのお話を書き進めるほどに、その思いが募っていくのを感じました。また驚いたのが登場人物の多さです。それぞれのステージに印象的な登場人物が現れる。彼自身が人に恵まれたと話しますが、彼自身もそれぞれの人に印象的な何かを、人生のそこかしこで渡しながら進んでいるからではないかと感じました。そんな彼が行き着いた、「最重要なもの」が家庭であったことに、なぜか心から安心し、また自分が同じ本質にたどり着いていたことをとても嬉しく思いました。
 最後に少し触れた、「蜂と神様」という金子みすゞさんの詩。身近なものの中に本質があるというこの詩が大好きです。1億5千年前からその姿をほとんど変えず、今でも世界中を飛び回っている蜂。蜜を集め花粉を運ぶという、そのシンプルな生業が宇宙に必要とされるからこそ、絶えずありつづけているように思います。人がその恩恵をうけ始めたのが1万年前、近代養蜂に発展させたのが19世紀ごろだそうで、これもまた古くからのお付き合いが変わらず続いています。
 KonMariさんの「ときめき」もまた、自分が持っているものの中にこそ、自分自身たらしめる要素は隠れていて、それらと日々向き合い大切にすることが、自分の生活を豊かにするという本質をついたメソッドもまた、今、世の中に求められ、文化となっていく蜂のような存在に感じます。それを見出した人が川原卓巳さんなのであれば、Sandyさんはそれを養蜂へと発展させる19世紀の人類なのかもしれないな。なんて、取り止めもない妄想をしつつ、とてもワクワクしながら書かせていただきました。私たちふうふに執筆をお任せくださったことに、心から感謝しています。
 これからSandyさんや彼のチームメンバーたちが進み創り上げていく航路、作り上げていく文化が、いつか親から子へ受け継がれ、誰の家の中にも当たり前のようにある蜂蜜のような、どこか温かくあると安心する存在になることを、心から願い、またとても楽しみにしております。
最後に夫が座右の銘にしている、Sandyこと砂子貴紀さんの言葉をご紹介してあとがきとさせていただきます。
「明日成長した自分に出会えるよう、今日も小さな努力を積み重ねよう」

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interviewer:masaki
writer:hiloco


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